46 のぼせやすいから

「あれ、愛彦くん、もうあがったんですか?」


 計十五分ほどでリビングに戻った俺に、百合は目を丸くした。


「もっとゆっくりしてくれてよかったのに」


「いや、俺ってのぼせやすいからさ。肩まで浸かって百数えるだけで十分なんだ」


「あ、ほんとだ。ほっぺた真っ赤っ赤ですね」


 ふふっ、と面白いものを見つけたように、百合は口元に手を添えた。


 俺は元々長風呂派、心苦しい嘘である。カラスの行水になってしまったのは、煩悩に飲まれる前に撤退したからだ。頬が真っ赤っ赤なのは、セルフ往復ビンタで煩悩退散したからである。


 百合の信頼を裏切らない自分でいたい。そうしなければこの笑顔を、これまで通り真っ直ぐ見られない。なにより悪い行いには悪い結果がついて回るので、百合の側にいられなくなるほどのしっぺ返しを食らってはたまらない。


 そのままソファーに近づくと、百合が一人分横にずれた。どうぞと言うような笑みに釣られるがまま、百合の隣に腰掛けた。


「服とか貸してあげられればよかったんですけど……」


 申し訳無さそうに百合は眉尻を下げた。


「愛彦くんおっきいから、さすがに」


「なに、一日くらい着の身着のままでも大丈夫さ」


 シャツを掴んで言った。


 今の格好はワイシャツとスラックスだ。シャツの裾は出しているし、胸元のボタンは外している。部屋着ほどの快適さはないが、学校にいるほどの窮屈さもない。下にはインナーシャツを着込んでいるので、寝るときはワイシャツさえ脱げばよかった。


 そこで、会話が止まった。


 時刻はまだ八時前。テレビでニュースを流しているから無音ではないが、無言は続く。なにを話せばいいのか、そのとっかかりを見失ってしまった。


 横目で様子を窺う。胸元で合わせた五指に目を落としながら、百合はどこかそわそわしている。


 こういうときこそ、男からアクションを起こし、リードしなければならないというのに。葉那メスガキの煽りがただの事実陳列罪であるほどに、女性経験値があまりにも足らなすぎた。


 寝るまでの残り時間、こんな気まずい空気で過ごすのは百合に申し訳なさすぎた。


 ようやく閃いたのは、俺たちが百合ヶ峰男女のツートップであること。学年末テストが近いこともあり、ここは健全にお勉強会を開くべきか。


「「あの」」


 そう提案しようとすると、俺たちの声は重なった。


「あ、どうぞ」


「や、百合のほうから」


「いえいえ、愛彦くんから」


 どうぞどうぞとお互い手を差し出しながら三十秒。


「その……学年末テスト近いからさ。よかったらテスト対策とか、しないか」


「テスト、対策ですか……」


 先に折れた俺の提案に、百合は考えもしなかったようにポカンとした。


 てっきり、『いいですね』と乗ってくるかと思ったが、あんまり反応がよろしくない。投げたボールを受け取るどころか、目も向けずにそのまま通り過ぎていったかのようだ。


 そこで思い出した。


「あ、そういや俺、ライバルだったっけ? 単独一位を狙いたいなら、一緒に対策するのはあれだったな。気が回ってなくてごめんな」


「い、いえ、そんなことありません!」


 慌てながら百合は言った。


「しましょう、お勉強」


「いや、無理に気を使わないでくれ。あんまりピンときてないようだったからさ」


「その、それはそういうわけじゃ……」


 百合は恥ずかしそうに手のひらを擦り合わせた。


「わたしが考えてたことが、なんだか俗っぽくて、つい」


「俗っぽい?」


「はい……愛彦くんは、立派です」


 そうやって百合は俯くと、穴があったら入りたそうにしていた。


 どうやら百合は、なにかやりたいことがあったらしい。先に俺が勉強を提案したばかりに、それと比べることで言い出しづらくなったようだ。


 機せずして推しをへこませてしまった。


「いや、そんなことないよ百合。俺なんて、なんか無言が気まずくてさ……それくらいしか思い浮かばなかっただけだから。別に本気で勉強したかったわけじゃないんだ」


「あ、そうだったんですか?」


「うん。こんな形で女の子とふたりきりになるのは初めてだから……緊張、しちゃってさ」


 頭を掻きながら、こちらの恥を差し出した。


「ふふっ」


 すると百合は笑った。ダサい男がおかしかったのではない。ただホッとして、つい口元が緩んだだけのようだ。


「愛彦くん、こういうの廣場さんで慣れてると思ってたから。緊張してたのは、わたしだけじゃなかったんですね」


「前に言っただろ、葉那は男友人枠だって。あいつといる経験なんて、こういうときはまるで役に立たん」


「ならわたしたち、似た者同士ですね」


「だな。まさかこんな風に、ふたりきりになるなんて思いもしなかった」


 俺たちは顔を見合わせると、おかしくて一緒に笑ってしまった。


 先程まで満ちていた緊張などなかったかのように、いつもの和やかな雰囲気になった。


「それで、百合はなにをやりたかったんだ?」


「えーと、ですね」


 まだそれを言うのは気恥ずかしいのか。少しの間を溜めた後、その願いを口にした。


「一緒にゲーム、やりませんか?」

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