08

「小六のときいなくなった兄が、実は身体が女だった。それをおまえが帰ってくる一週間前に、初めて知らされたらしい」


「らしいわね」


「あいつが知らされたのは、それだけだ。ある日突然、病院に運ばれてから帰ってくるまで、おまえがどう過ごしてきたかあいつは知らないんだ」


「……あ」


 その意味がわかったのか、葉那の小さく開いた口から声が漏れた。


「おまえはこっちに帰ってきてからずっと、この家に戻ってくるのは最低限。家族と会うのは避けてただろ?」


「……うん。ずっと逃げてたわ」


「そんなおまえが、ようやく家族みんなで飯を食いに行くようになったのが十月頃。そのときにはもう、おまえは立ち直ってた」


「そうね。このままじゃいけないって、思えるようになったから」


「さっきフミ、こう言ってたぞ。『姉ちゃんってさ、いたらこんな感じなんだね』って」


「そっか……フミにはもう、私は女にしか見えないのね」


 葉那は苦笑いを浮かべながら肩を揺らした。


「ヒコが前みたいに扱ってくれるから。家族くらいはって勘違いしてたわ」


「ま、俺は特別だからな。年の功ってやつだ」


 わざとらしく口端を得意げに上げた。


「当時の俺は、おまえがどんな苦労をしてきたのかは知らなかった」


「当然ね。あのときのヒコには、絶対知られたくなかったもの」


「それでもマサと葉那の間は、俺の中ではちゃんと地続きだ。おまえが生きてきた十四年を考えれば、身体に合わせて心まで女になるわけがない。折り合いをつけるまで苦労したんだろうなって、想像くらいはできた」


「フミには、それができなかったのね」


「あいつはまだ、子供だからな。花雅として生きた十四年の地続きの先に、今の葉那がいる。その間がどうしても繋がらないんだ。だから身体と一緒に、心まで変質したようにしか見えないんだろうな」


 今回ばかりは手放しに喜べないことを、苦笑と共に漏らした。


「つまりおまえの女っぷりが、完璧すぎたんだ」


「たしかにフミの前では、隙なく振る舞ってたものね」


 腑に落ちたように葉那は背もたれに身体を預け、天井を見上げた。


「てっきりフミと父さんは、一緒だと思ってた」


「おじさんはおまえが苦しい思いをしてきたのを知っている。けどフミはそれを知らない。でもそれは当たり前だよな」


「あのときの私は、荒れてたなんて言葉が、可愛らしく聞こえるくらいアレだったから。とてもじゃないけど、フミには言えないわよね」


「それでもおばさんが泣いてるのは見てたらしい。生きてる兄ちゃんとはもう、会えないと思ってただってよ」


「この身体のことを知らされなかったら、そう思うわよね。実際、戸籍上はもうフミの兄じゃないからね、私は」


 葉那は自虐的に口にした。それでもその顔は、決して後ろ向きなものではない。問題が解けたようにスッキリしたものだ。


 今の葉那なら必ず、もうひとつ先の問題を受け入れられる。そう思ったからこそ話を続けた。


「俺さ、中学のときはテニス部に入りたかったんだ」


「どっちの頃の話?」


「本当の十二歳の頃の話だ」


「ああ、王子様に憧れたのね」


 マンガの影響だと一発で見抜かれたので、苦笑しながら頷いた。


「それでテニスを始め……なかったのね」


「母ちゃん相手なら素直にやりたいって言えたんだが……運動部っていうのは、本人もそうだが保護者の負担もあるからな」


「親戚に引き取られてたんだっけ? 遠慮したんだ」


「だからゲームやマンガにどっぷりだった。楽しかったのもあるが、保護者の負担にならないからな。そうやって深夜アニメやラノベにもハマっていって、順調にオタクの道へ進んでいったんだ」


「その果てにドハマりしたネットアイドルに彼氏が発覚して、死んだってわけね」


「そんな俺が進んでいた道を、フミは順調に突き進んでるぞ。むしろ財力と友達がいる分、当時高二の俺が好きだった作品は嗜み済みだ。あれはもう、ギャルゲやエロゲに手を出すのも時間の問題だな」


「嘘でしょ!? フミが昔のヒコと同じ道を進んでるとか、絶対に嫌なんだけど!」


「おまえ失礼にもほどがあるぞ」


 悲鳴を吐き出す葉那に、思わず眉根を寄せた。


 オタク趣味は決して悪いものではない。今はまだオタクの存在は学校では後ろ指を差されるが、ゆくゆくは社会で人権を獲得する。それを小一時間語り聞かせて説教してやりたいが、今はそんなことよりも大事な話がある。


 グッと堪えた我慢の代わりに、ため息を吐き出した。


「今のフミはな、かつての俺と同じ。保護者の負担にならないよう、空気を読んだ子供の結果なんだ」


「保護者の負担って――あ、そういうこと」


 思い至った葉那は目を見開いて、そっと息をついた。


「どうやら私は、フミにも負担をかけていたのね」


「正直な、ここまで言うべきか迷った。でも、今のおまえなら事実を事実として受け止められる。なにより、なにも知らなかったままではいたくないだろ?」


 葉那は迷わず頷いた。


 考え込むように、葉那は無言で天井を見続けた。しばらくすると、顔をこちらに向けた葉那はそっと口を開いた。


「……ねえ、ヒコ」


「なんだ?」


「おばさんはさ、ヒコは大人じゃないって言ってたけど。なんだかんだで、やっぱり大人よね」


「ま、無駄に年は食ってるからな。その分、見えるものはあるってことだ」


「ありがとう。フミの兄として、やるべきことがわかったわ」

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