26 幸せになる魔法
トラブルはあったけれども、終わってみれば幸福な一日だった。ハルやんとの再会はまさに、締めくくりに相応しい効果をもたらしてくれた。
帰りの道中、真白はひたすら俺を褒めて讃えた。それを謙遜するとまた、彼女は俺を持ち上げてくれるのだ。
女の子と、それも推しと呼べる相手とのデートは、ここまで心を幸せで包んでくれるのか。その余韻は眠るまでどころか、数日は続いていくことだろう。
また真白とこんな日を過ごしたい。そう思うもきっと、これが最初で最後だろう。上透が帰ってきたらきっと、真白の俺への距離感はたしなめられ、矯正されていくことになる。
だから、これが最後でいい。これ以上深くこの幸せに浸ってしまえば、このまま溺れてしまう。そうしたら俺はきっと帰ってこられないだろう。
もし、この幸せにどっぷり浸かってしまえば、この世界はきっと幸せな色で満たされる。その代わりに、絶対報われることのない
だから推しにはもう――しないと決めたのだ。
彼女たちが幸せでいてくれる姿を見るだけで満足する。彼女たちを推すと決めたとき、俺はそう誓ったのだ。
「守純さん、ありがとうございました」
駅のホームで帰りの電車を待っていると、隣の真白は言った。
「本当に今日一日、楽しかったです。こんな可愛い子までプレゼントして頂いて、もう胸がいっぱいです」
人形が入った袋を見せながら、真白は笑顔を咲かせている。差し込む夕焼けも相まって、その花はいつもとは違う美しさを見せていた。
「お礼を言うなら俺のほうだ。女の子の友達ができたのは初めてだからさ。こうして一緒に街をぶらつくだけで、こんなに楽しい一日を築けるなんて知らなかった」
「初めてとは言いますけど、廣場さんがいるじゃないですか」
「あれは俺の中では男としてカウントしているからな。それこそ葉那を女友達というのは、真白さんに失礼さ」
「それこそ廣場さんに失礼なのでは?」
「いいや、葉那の扱いはそれで十分だ」
「ふふっ、本当に廣場さんとは仲がよろしいんですね」
「まあ、今まで友達といったら、葉那ひとりだけだったからな。だからこのくらいは、あいつにとって悪態どころか軽口ですらない」
「本当に……羨ましいくらいのお友達関係ですね」
真白は微笑ましそうにしながらも、どこかその言葉には含みがあった。疑っているとか、訝しんでいるとかではない。言葉にしたとおり、羨ましそうにしていた。
その顔はなにか言おうとしているが、迷っているようで。今にも唸り声を上げそうだった。
「どうかしたのかな?」
「え、っと……その」
真白は合わせた五指に目を落として、落ち着きなくそわそわしている。そんな彼女を急かすことなく、そっとその言葉を待った。
「あの、守純さん、お願いがあるんです」
唇をぎゅっと結んだ真白は、決心したように目を合わせてきた。
「わたし……守純さんともっと、仲のいいお友達になりたいです」
「俺も真白さんとは、どこまでも仲良くなりたいよ」
「へへっ、両思いですね、わたしたち」
真白は喜びを堪えきれないというように、口元を緩ませた。
心臓を貫かれたような衝撃が走った。閉じ込めた想いが、ガンガンと心の奥底の扉を叩いている。言葉選びがいちいち男心をくすぐって、クリティカルヒットで突いてくる。
手のひらをこすり合わせながら、真白は上目遣いで言った。
「だったら、その……守純さんのことお名前で呼んでも、いいですか?」
「もちろん、構わないよ」
真白はパッと喜びの花を咲かせた。
「だったら、その……百合って、呼んでもらってもいいですか?」
「もちろん、構わないよ」
「えへへ、やった!」
両手で小さなガッツポーズを真白は決めた。
一体彼女に、どんないいことが起きたのか。現実についていけず「もちろん、構わないよ」マシーンになっていた俺には、その理解が及ばなかった。
俺のことを名前で呼びたいとは一体どういうことか。そして俺に百合と呼んでほしいとは一体どういうことか。その意味を求めて我々調査隊は、脳内を東奔西走と駆け巡った。そして調査隊は、ついに現実へとたどり着いたのだ。
どうやら俺たちは、今から名前で呼び合うことになるらしい。知らないうちに彼女の求めに、俺は「もちろん、構わないよ」と答えていたらしい。
「それじゃあ……愛彦くん」
幸せになる魔法を唱えたかのように、真白ははにかんだ。
ああ、それはたしかに幸せな魔法だった。彼女だけではない。この俺も一緒に幸せになれる魔法だった。
心の奥底の扉を、込み上がる想いが激しく殴打する。誓いの鎖が千切れんばかりの悲鳴を上げた。
「えっと、愛彦くん?」
期待に満ちた瞳が、こちらを伺っている。
彼女の望みがなにかはわかっている。彼女と同じ魔法を俺が唱えることを待っているのだ。
「ゆ……ゆ」
その目を逸らすこともできず、ついにその魔法を唱えた。
「百合……?」
「はい、愛彦くん!」
魔法をかけられた真白は、溢れんばかりの幸せを満面に咲かせた。
この瞬間、誓いの鎖が千切れた音がした。
「ゆ、百合」
「百合ですよ、愛彦くん」
「百合」
「はい、百合です、愛彦くん」
「百合……!」
「いっぱい百合って呼んでくれて、ありがとう、愛彦くん」
心の奥底の扉は開放され、そこに閉じ込めていた芽は瞬く間に成長し、開花してしまった。
もう、これ以上自分の気持ちに抗うのはよそう。
この想いが報われることがないのはわかっている。それでも俺はこの夢に浸っていたいのだ。
夢に溺れて苦しいのは、流れに抗って求めようとするからだ。期待をするから叶わなかったとき、裏切られたような気持ちになる。ただ与えられるものを享受して、身を委ねていれば苦しい思いはしない。期待さえしなければ、この世界はいつまでも美しく輝いて見えるはずだ。
だから守純愛彦。自我を持つな。
「ボーっとしてどうしたんですか?」
いつの間にか来ていた電車。それに気づかずにいた俺の手が、ふいに握られた。
「ほら、行きましょう、愛彦くん」
真白がそう言って手を引いてくれた。
「ああ、行こう、百合」
その手を握り返しながら、行くときにはなかった想いを抱えて電車へ乗り込んだ。
――こうして俺は、二度としないと誓ったはずの
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