27 俺って、ほんとバカだな

 夕食後、俺はソファーの上でぼんやりしていた。むしろ上の空と言ってもいいかもしれない。


 テレビを前にするも、内容なんて入ってこない。食器を洗っている葉那と、ダイニングテーブルで晩酌している母ちゃんとの談笑だって、なにひとつ聞こえていない。


「ねえ、ヒコもそう思わない?」


「え、なにが?」


 だから急に話を振られても、なにに同意を求められているかわからなかった。


 キッチンに振り返ると、ふたりの顔がこちらを捉えている。話を聞いていなかったことに呆れているよりも、怪訝な顔つきであった。


「どうしたのよヒコ。夕飯のときもそうだったけど、ずっとボーっとしちゃって」


「葉那ちゃん、コレがボーっとしてたのは、夕飯のときからじゃないんだよ。帰ってきてからずっとこんな感じなんだ」


「そうなんですか?」


 葉那は見開いた目を母ちゃんに向けた。


「ずっと上の空でボケっとしちゃってさ。二回もシャワーなんて入ったりして、本当どうしたんだいあんた」


「え、俺二回もシャワーなんて入ってた?」


「マジかいあんた……」


 キョトンとする俺に、母ちゃんはグラスにビールを注ぐ手を止めてしまった。


 葉那と母ちゃんは怪訝を通り越し、心配するように眉をひそめた。


「ほんと、どうしたのよヒコ」


「この調子じゃ、さっきなにを食べたのかも覚えてないんじゃないのかい?」


「まさか、さすがにそのくらい――」


 記憶を辿ろうとすると、言葉に詰まってしまった。


 本腰を入れなにを食べたのか思い出そうとする。眉間に寄ったシワを人差し指でグリグリ解すと、ついに答えにたどり着いた。


「そう、そうだ! メンチカツだ!」


「それは昨日の夕飯だよこのバカ」


「ヒコ、本当に大丈夫なの……?」


 呆れる母ちゃんを横切って近づいてくる葉那。洗い物は終わったのか、エプロンを外し椅子にかけた。


「そういえば、真白さんに私のことを説明してくるって、昼に出かけたわよね。そのときになにかあったの?」


 俺の隣に座った葉那は、心の病気を労るように問いかけてきた。


「いや、なにもなかった。……いや、あったんだ」


「どんなこと?」


「お昼ごはんを誘ったらさ、百合がすっごい喜んでくれて。その後一緒に、俺と街を歩きたいって言ってくれたんだ」


「よかったじゃない」


「うん、すっごいよかった。すっげー楽しかった。こんな幸せな時間がこの世界にはあったのかって、マジで感動したんだ」


 ポケットからケータイを取り出す。電池パックのカバーを外すと、それを葉那に差し出した。


 令和を生きる高校生にこの光景を見せたら、なにをやっているのかと怪訝な顔をするだろう。


 ガラケーの電池パックは、テレビのリモコン感覚で手軽に交換できる。そんな電池パックのカバー裏に、プリントシールを貼る。そうすることで好きな人と撮った写真を、周りに隠しながらいつでも側におけるのだ。おそらく令和ではもう死に絶えた、古の文化である。


 百合と腕を組みながらピースしているプリントシールを、俺はそこに貼っていたのだ。


「へー、真白さんとこんな風に撮ったんだ。やるじゃないヒコ。こんなのもう、ラブラブカップルにしか見えないわ」


「葉那ちゃん、おばさんにもそれ見せて」


「はいはーい」


 葉那は母ちゃんにカバーを届けた。


 その写真を見た母ちゃんは、それこそ飛び出るんじゃないかってほどに目を見開いた。


 仰天したその顔は、落ち着きを見せると感動へと変わった。


「よくやった愛彦! こんな可愛い子を掴まえるなんて、さすが母ちゃんの息子だね。母ちゃん、是非この子に孫を生んでもらいたいよ」


 高校に入ってからも彼女のかの字も見当たらなかった息子が、いきなりとんでもない美少女と付き合い始めた。それを心から喜んでくれている。


 ぬか喜びさせてしまったのが、ただただ申し訳なかった。


「ダメなんだ母ちゃん。その子、百合にはもう愛する人がいるんだ」


「なんだ、それだけで諦めるのかい? その気持ちを自分に向けてやる、くらいの気概を出さないでどうするんだ」


「ふたりはもう恋人関係。百合たちがどれだけ愛し合っているのか。俺はそれをずっと見守ってきたからさ。彼女たちの百合あいは本物だ。その愛の花を手折るような真似だけは絶対にしたくない。なにせ俺は、彼女たちの百合あいを誰よりも推してるからさ」


「そこまで言うなら、母ちゃんからもうなにも言えないね」


 母ちゃんは諦めたようにふっと微笑んだ。


 どれだけ相手が好きであっても、その仲を引き割くような真似はしてはいけない。人の道だけは外れないと心に芯を通した息子であることを、素直に喜んでくれているのだ。


「けど、残念だね。あんたに気を許した笑顔じゃないか。それこそ勘違いしても、咎められる筋合いがないほどだよ」


「それはさ、俺が彼女たちの愛の形を推しているからこその、信頼の笑顔なんだ。どこまでいっても、百合にとって俺は友達止まり。俺がどれだけ百合を好きになろうとも、その想いは絶対に報われない。だから推しの側にいられるだけで、俺は満足するって決めたんだ」


「この子への想いを、アイドルへの憧れ程度にとどめたのかい」


「うん。憧れ以上の感情を持たない。……そう、決めたはずだったんだけどな」


 俺はつい、自分の胸を押さえてしまった。


 今日の幸せをひたすら頭の中で反芻し続けた。それだけでこの胸は満たされてくるし、同時に切ない感情も込み上がる。それは夢に見ながらも叶わない想いだからこその、二律背反がもたらす痛みであった。


 ただの憧れに留めておけば、こんな思いをせずに済んだものを。


 それでも俺は、この想いを抱いてよかったと心から思っている。それほどまでに広がるこの世界は、幸せな色でキラキラと輝いているのだから。


「ヒコ、もしかして真白さんに……」


 葉那まさかと言うように聞いてきた。


 だから俺はそうだと示すように頷いた。


「ああ、ガチ恋しちまった」


「まーた気持ち悪い言葉使ってるね、あんたは」


 張り詰めていた空気が、一気に入れ替えられたかのような呆れた声だ。葉那もまた、バカを目の当たりしたように目を細めていた。


 仕方ない。なにせここはまだ、2000年代。ガチ恋という言葉はこの年代に生まれたとされるが、一般人にはまだまだ理解が及ばない世界である。でもわかりやすく言語化されていないだけで、推しにガチ恋しているものは沢山いるはずだ。


「ヒィたんにガチ恋したとき……いや、それ以上のトキメキが胸に宿っちまったんだ。ヒィたんのお家デートで脳破壊されたとき、こんな想いをまたするくらいなら、もう二度と推しにガチ恋なんてしないって誓ったのに……また、推しにガチ恋しちまったよ。俺って、ほんとバカだな」


「ほんとバカだねあんたは」


「少女マンガヒロイン気取り? さすがにキモいわよ」


 ふたりから送られる白い目など、この想いの前では屁でもない。


 百合の笑顔を思い出すだけで、俺はそれだけで幸せなのだから。


 母ちゃんは思い出したように大きなため息をついた。


「そういやあんた、女の子同士が好き好き言ってるアイドルに入れ込んでたけど、裏に男がいたのがわかって死んだんだっけ?」


「おばさん……ヒコが好きだったのは、アイドルなんて大層なものじゃないです」


 葉那は疲れたように眉尻を下げた。


「未来の技術では、カメラが捉えた顔の動きに合わせて、アニメみたいな女の子の絵が動くらしいんですけど……ヒコが好きになったのは、そういう類のものらしいです」


「は? まさかこのバカ、好きになったアニメのキャラに、裏切られたとかほざいてたのかい?」


「あー、そういうんじゃなくて……あー、これこれ」


 葉那はテレビを指さした。ニュースを読み上げる女子アナが映し出されていた。


「あの女子アナが、動く絵に置き換わって喋るみたいなものらしいです。そうやって生放送でゲームやったり、ラジオみたいに雑談したりしてるのを、ヒコは見て喜んでいたらしいです」


「はぁ!?」


 らしいらしい、と見たことのないものを説明する葉那に、母ちゃんは仰天した。


「あんた、そんなのにハマって死んだっていうのかい!?」


「そんなのって言うな! ヒィたんはな、俺の唯一の生きがいだったんだ!」


 ヒィたんをバカにされるのは許せず、俺が大声で言い返した。


「ユリアへの想いは、ただの百合営業だってわかってたけど……それでも、リアルに男がいたのはショックだったんだ。しかも三人でのお家デートだぞ! そりゃ脳破壊されるに決まってるだろ!」


「顔も出さずに絵だけ見せてる女に、男がいてショックだったって? ファンに顔バレしてないなら、男なんてお天道様の下で、作り放題漁り放題に決まってるじゃないか」


「ヒィたんはそんな奔放な子じゃない! ヒィたんはちゃんとした事務所に所属してたし、彼女のひとりのために億の金だって動いてたんだぞ!」


「業界人ならなおさらじゃないか。そういう人たちと繋がりがあるってことは、なおさらいい男を捕まえられる環境じゃないか」


「ぐっ……!」


 なにも言い返せなかった。


 実際そのとおり、ヒィたんは人気ゲーム配信者と繋がっていたのだ。


「それで相手がいないって本気で信じて、文字通り死ぬほどハマるなんて……ほんとバカだねあんたは。我が息子ながら情けなすぎて、母ちゃん涙が出るよ」


 もうこれ以上話を聞きたくないと言うように、一方的に言い捨てた母ちゃん。ビールを美味しそうに飲みながら、横目で俺を鼻で笑っている。


 わかってる。Vチューバーはオタク趣味だということは。二次元趣味が母親に受け入れられないのは、この時代ならなおさらだ。


「母ちゃんが……それを言うのか」


 でも、母ちゃんにだけはそんなこと言われたくなかった。


 ヒィたんはガチ恋するほどに俺の生きがいだった。


 恋人もいなければ友達もいない。そして今みたいに、母ちゃんかぞくすらいない世界で縋った、たったひとつの生きる希望だった。


 でも、この怒りは母ちゃんが死んだから、彼女に縋らなければならなかったという怒りではない。


 推しへのガチ恋の否定。母ちゃんにはそんな権利がないのだ。


「幸嶋にガチ恋してる母ちゃんに、そんなこと言われたくない!」


「ユキをそんなのと一緒にするんじゃないよ!」


 母ちゃんは修羅の形相で、テーブルを叩いて立ち上がった。卓上のグラスが倒れる勢いは、過去にここまで母ちゃんを怒らせたことがあっただろうか。完全に怒髪天を衝いている。

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