28 人のすきなものを見下すな差別主義者め!

 けど、そんな母ちゃんなど怖くなかった。むしろ呆れてしまった。


「あー、出た出た出たー。人が入れ込んでいるものを低俗扱いしておきながら、自分が入れ込んでるのは高尚なものだと本気で思ってる奴ー。ヒィたんに入れ込もうが、幸嶋に入れ込もうが、養分になってるっていう意味では、同じ穴のむじなじゃねーか」


「一緒するんじゃない! あたしがしてるのは、ユキへのお布施。今日も生きていてくれてありがとうっていう気持ちを、ユキへ捧げているんだよ! あんたがされてきたのはただの搾取っていうんだ!」


「自分が好きなものを持ち上げながら、人の好きなものを見下すなこの差別主義者レイシストめ!」


 ほんとこの手の差別主義者は、これを本気で思ってるからタチが悪い。


 人様に迷惑をかけていない好きは、みな平等に扱われるべき。そこに十人十色の好き嫌いはあっても、貴賎などあってはならないのだ。自分の好きを持ち上げ、人の好きを蔑むなんてもってのほかだ。


「そもそもヒィたんはな、登録者数二百万越えの大物Vチューバーなんだぞ! そんなの呼びして許されるような存在じゃないんだ!」


「そのヒィたんってのは、ドームに人を呼べんのかい? ユキと比べてそんなの呼びされたくなけりゃ、せめてアリーナくらい埋めてからいいな」


 この差別主義者は絶対に折れず、悠々とビールを注いだ。


「そんなのが人生の生きがいで、女の子同士好き好き言ってるのを信じて喜んじゃって。ちょっと男を部屋に呼んだからってなんだい。それを知って頭が壊れて死んだとか……あーあ、情けない情けない」


 人の情けなさを肴に、美味しそうにビールを飲んだ。


「どうだい愛彦。そのときの自分と比べて、少しはバカが治ったかい?」


 母ちゃんは徹底的に煽り散らかしてくる。


 バカは死ななきゃ治らない。よりにもよってヒィたんをネタにして、そんな高等煽りテクニックを使ってくる。


 さすがの俺も、我慢の限界だった。


「言いたい放題いいやがって……そこまで言うんなら、こっちだってこれ以上黙っちゃいねーぞ母ちゃん」


「なにが黙っちゃいないんだい」


「親子の縁を切られないためにも、ずっと黙っていたことを教えてやるよ。そんなの知りたくなかったって。今までどおり幸嶋を推せなくしてやる!」


 立ち上がって睨めつけると、あれだけ威勢がよかった母ちゃんも怯み始めた。


 ハッタリではない本気の爆弾を、俺が抱えているとわかったのだろう。


 改めて思い出すといい。そして後悔しろ。


 俺はタイムリープして今ここにいる。この先起こりうる未来を、文字通り見てきた人間だということを。


「幸嶋、2012年に結婚するから」


 テレビ以外の音が失われた。


「あ、おばさん!」


 まず声を上げたのは葉那だった。怯みながらも強がるように注いでいたビールが、グラスから溢れ出したからだ。葉那は慌てて母ちゃんからビール瓶を取り上げた。


 今にも項垂れそうになる母ちゃんだったが、すんでのところで止まった。


「そ、そのくらいなんだい……ユキだって、いい大人だ。裏で誰かと交際していることくらい、母ちゃんだってわかってるさ」


 母ちゃんはアル中のように手を震わせながら、嫌なことを流し込むようにビールを飲んだ。


「でもユキはね、それをちゃんと隠し通してる。それがファンへの誠意であり礼儀だってことが、ちゃんとわかってるからだ。だからユキはプロなんだよ。男を部屋に連れ込んでるのがバレた、そんなのとは違うんだよ」


「相手は天河あまかわヒメだから」


「ぐほっ!」 


 母ちゃんは口に含んだビールを吹き出した。


 天河ヒメとは、去年までアイドル活動していた芸能人だ。誰もが認めるナンバー1アイドルだったヒメは、その人気の絶頂期にアイドル業から身を引いた。その後はマルチタレントとして活動している、テレビで見ない日はないほどの人気芸能人だ。


 そんな天河ヒメは現在十九歳。幸嶋は俺たちと同じ38歳だから、天河ヒメとは十九歳差だ。


 十歳下までは許容したかもしれないが、さすがにこれはショックだったようだ。


 ゴトン、とビール瓶が落ちる音が聞こえた。


「嘘……ヒメちゃん、幸嶋と結婚するの……?」


 よほどのショックを受けたのか、葉那の目から光が消えている


 葉那が天河信者であることを忘れていた。母ちゃんに放ったはずの流れ弾が眉間を貫いたようだ。その痛みに耐えられず、ついには涙すら流し始めた。葉那が泣いている姿を見たのは、身体のことで心が折れたとき以来である。


「ちなみに最初のキッカケは、幸嶋が街ロケしてるときに、別のロケをやってる天河ヒメとバッタリあったことらしい。そこで幸嶋にかけてもらった言葉が、当時悩んでいた天河ヒメを救ってらしいんだが……まあ、それがキッカケっていうか、ふたりの馴れ初めになったらしい。ちなみに当時、天河ヒメは十七歳だ」


 母ちゃんは卓上に倒れ込んだ。グラスからこぼれたビールに濡れるなどお構いなし。気を使う余裕がないようだ。


 このままとどめを刺してやる。


 母ちゃんに近づくと、その後頭部を見下ろした。


「ちなみに入籍して、六ヶ月後に子供が生まれた。その意味は……わかるよな? それだけじゃない――」


「ヒコ、それ以上はもうダメ……!」


 そう叫んだ葉那が飛びついてきた。俺の腕を引っ張り母ちゃんから引き離そうとする。


「止めるな葉那! 最初に喧嘩を打ってきたのはあっちのほうなんだ!」


「お願いだからもう止めてヒコ。これ以上やったら、おばさんが死んじゃう……!」


 葉那は涙声で叫んだ。


 グロッキー状態で力なく卓上に伏している母ちゃんは、まさに今際の際。あとたったひと押し、一言で死ぬかもしれない状態だった。


 そんな母ちゃんを見て、俺もようやく冷静になった。


「後……私も死んじゃう」


 葉那が嗚咽を漏らし始めた。天河信者として、幸嶋との年の差はショックだったのだろう。


 思わず自分の両手を見下ろした。


 俺が……ここまで母ちゃんを追い詰めてしまったのか。そんな気はなかったのに。ここまでしたかったわけじゃなかったのに……。


 葉那にいたっては蚊帳の外にいたはずが、いきなり流れ弾を貰ったのだ。正直悪かった。


「愛彦……」


「か、母ちゃん!」


 そのままの姿勢でこちらを向いた母ちゃんに駆け寄った。


「大好きな人に勝手な期待して、信じた気持ちを裏切られるのって……こんなに辛いことだったんだね。頭が割れて死にそうだよ」


 割れそうな頭を押さえる気力もないみたいに、母ちゃんは力なく言った。


「こんなになって、ようやく少しは、あんたの気持ちがわかったよ。母ちゃんがいない世界で、唯一縋ったものにあんな形で裏切られるのは、さぞ苦しかったろうね」


「母ちゃん、もういいんだ。俺のほうも悪かった……こんなになるまで言って、本当にごめん」


「こんな、ダメな母親で……ごめん、ね」


「……母ちゃん?」


 すっと目を閉じた母ちゃんから、生気が失われたように見えた。


「母ちゃん……母ちゃん!」


 母ちゃんを揺すっても反応がない。


 まるで二度と覚めることのない眠りに落ちたようだ。


「ヒメちゃん……ヒメちゃん」


 葉那がその場でうずくまり、顔を覆って流れ弾の痛みに泣いていた。


「起きてくれ母ちゃん……母ちゃーん!」


 その後、母ちゃんは浴びるように酒を飲み、息を引き取るように眠りについた。次の日、二日酔いで母ちゃんは死んでいた。

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