42 生徒をそんな目で見るなんて……!
電話から一時間後、愛彦は職員室へ訪れた。定型文的な挨拶を交わした後、美月は愛彦を連れ立ち視聴覚室へ向かう。
ホワイトボートまで近寄ると、みつきは愛彦へ振り返る。
「それで、先生になんの授業をしてほしいの?」
「それは……」
愛彦は痛めた首を労るかのように手を添えると、美月から視線を逸らした。その瞳には緊張と気恥ずかしが浮かんでおり、躊躇うように口を動かした。
「……保健体育を」
「保健体育?」
美月は人差し指を頬に当てながら、不思議そうに首を傾げた。
小学生で学ぶ内容をあれこれ予想していたが、その科目は頭になかった。
一体保健体育のなにを学びたいのか。再びその口が開かれるのを待っていると、愛彦の瞳には決意が浮かんだ。
その瞬間、愛彦が視界から消えた。
「お願いします、先生」
美月の足元で、土下座したのだ。
「どうか俺に、女の身体を教えて下さい!」
「えぇ!?」
素っ頓狂な叫びが、視聴覚室に響き渡った。この部屋でなければ、誰かが駆けつけてきたであろう声量だ。
女の身体を教えてほしい。ふざけている様子もなければ、ヘラヘラとした雰囲気もない。邪な思いを一切感じない、真面目くさった声音でそう求められるものだから、美月は動揺した。
「そ、それは……その」
顔を赤く染めながら、美月は答えを探し求めるように首を動かす。
「そういうのは先生から学ぶことじゃなくて……大人になってから、しかるべき相手と学ぶべきだと、先生、思うな……」
「いいえ。こういう知識は、早い内に正しく知るべきだって、俺、改めて実感したんです。女性の身体の負担は、男とは比べ物にならない。痛くて苦しい思いをしている相手を前にしたとき、よくわからないけど辛そうだな、で片付けちゃいけないんだって」
「うん、それは立派な心がけね」
「だけど、男にはやっぱりわからない、体験しようがない辛さだから。せめて正しい知識をしっかり学んだ上で、相手の負担を考えて、さり気なく気づかえるようになりたいんです」
「さりげなく?」
「この手の気遣いは、女性も言葉にされたくないでしょうから」
「それは……そうかも、ね」
真摯に土下座を続ける愛彦に、落ち着きを取り戻しながら美月は頷いた。
美月は生まれてこの方、彼氏のひとりもできたことがない。かといって奔放に遊ぶような性格でもないからこそ、今日まで経験がなかった。知っているのは、初めては痛かった、という友人たちの経験談だけだ。
いずれ、そういうことをする日は必ず来るだろう。むしろ来ないと困る。男性に奥手すぎるあまりチャンスを逃し続け、今の歳に至っているから焦ってすらいた。三坂には「これ以上拗らせる前に、さっさと捨てちゃったほうがいいわよ」と、真面目な顔で助言をされたほどだ。
そんな美月だからこそ、愛彦の言葉は深く刺さった。たしかに好きな人と初めてを迎え、痛い思いをしているとき、心配そうな顔で「大丈夫?」とだけ言葉にされるよりも、甘い顔でさりげなく身を気遣ってくれるほうが嬉しい。頭を撫でてくれたり、口づけしてくれたり、ギュッとされながら、心がキュンキュンするような初めてがいい。
恋愛観が高校生から成長しておらず、拗らせ始めている。顔だけの男に沢山言い寄られてきたからこそ、美月にとって愛彦は理想的な男の子だった。
そういったフィルターを通して見た自分を、叱責するように美月はかぶりを振った。
(だ、ダメよ美月。生徒をそんな目で見るなんて……!)
大人に子供に手を出してはならない。それが教師ならなおさら重く、戒めなければならない。
「守純くん。あなたの考え方は、とても素晴らしいことだと思うわ」
「先生!」
こちらを見上げた愛彦の顔は、とてもキラキラと明るいものだった。
学ばせてあげたい気持ちを、美月はグッと堪えた。
「でもね、先生が教えてあげることはできないわ」
「それは、なぜですか?」
「私が守純くんの先生で、守純くんが私の生徒だからよ」
「みつき先生の立場では、この手の授業をするのは好ましくないってことですか?」
美月は決意を揺るがないよう、力強く頷いた。
それほどのことなのかと、愛彦は驚くように目を見開いた。
「……俺、そこまでのことだとは思えなくて」
「恥を忍んだお願いなのに、叶えて上げられなくてごめんね。守純くんは私の大切な生徒だからそこ、あなただけは特別に、なんて軽々しい真似はしたくないの」
「いえ。先生には先生のお考えがあるのはわかりました」
物わかりのいい顔で、愛彦は残念そうに笑みを見せた。
それがとても可愛く映り、美月は息を呑んだ。
なんで自分の頃に、共学化してくれなかったのかと心から無念を覚えた。青春時代に身近に男の子がいれば、自分だって彼氏のひとりくらい作れたはずだ。それこそ彼のような男の子と瑞々しい青春を送りたかった。大人の階段をそこで上りたかった。
だからつい、そんな本音が漏らしてしまう。
「先生がもし高校生だったら、教えてあげられたんだけどね」
「え!? そっちのほうが教えづらくないですか」
信じられない価値観を突きつけられたように、愛彦は目を丸くした。
どこか噛み合わない道徳心に、美月は首を傾げた。
「そうかな? それが一番、健全だと思うけど」
「まあたしかに……彼女ができたら、することはするでしょうから。学ぶならそっちのほうが早いですね」
「たとえ恋人関係だとしても、高校生の内はそういうことはいけません。って言わなきゃならない立場だけど……相手がいれば、やっぱりみんなしちゃうことだからね。そこで『した』『しない』の差が、大学生や大人になると出るのは事実なのよ」
実感のこもった嘆息を、美月は漏らした。
「だから正しい知識を今のうちに覚えたい。そんな守純くんの気持ちは、よくわかるわ」
「でもみつき先生から、教わるわけにはいかないってことですもんね」
「ごめんね。こればかりは先生の立場じゃどうしても」
「かと言って、母ちゃんに教えてもらうわけにもいかないし」
「当たり前じゃない!」
美月はとんでもないことだと叫ぶように言った。
愛彦は呆気にとられたように目を瞬かせた。
「それはもちろん嫌ですけど……そこまでダメなことですか?」
「母親から教わるなんてとんでもないわ」
それが許されるなら、自分はこんなに我慢なんてしていない。我慢なんて感覚を覚えている辺り、美月は相当きている自分に気づいた。
愛彦の交友関係を考えた後、
「その……廣場さんとは、お付き合いとかしてないの?」
「いや、あいつとはそんな関係じゃないですよ。お互い、そういった関係になる相手じゃないんで」
「そうなの?」
意外に美月はそう零した。
一学期も終わると、生徒たちの評価や評判などは、大体決まってくる。特に生徒間のランク付けは美月もよく知るところだ。
百合ヶ峰が誇る美人は、真白百合と上透里梨、そして廣場葉那。この三人が横並びで語られている。そんなひとりとあれだけ親しくしているのに、愛彦は恋愛感情を抱いていないらしい。
少女漫画でよく見る、距離が近すぎるからこそそんな相手じゃない、かもしれない。
愛彦は正座しながら思い悩んだように、
「でも葉那と上手くやるために、必要な知識だって思ったのはたしかですね」
「そうなの!?」
美月の叫声は裏返っていた。
「でも、付き合ってないし、そういう相手として見てないのよね?」
「そういう相手として見てなくても、あいつの身体が女であることには変わりないから。この前、俺が不甲斐ないせいで……なんというか、上手くいかなかったっていうか」
「上手くいかなかった!?」
「男にはわからない辛さを全面に出されたら、こっちも引き下がるしかなくて。それで気まずいまま終わって、あれから顔を合せられずもう一週間。さすがにこのままじゃいけないと思ったところで、気づいたんです。自分は正しいと信じてきた知識は、凄い偏っていたんじゃないかって」
「そういうことだったのね……」
美月は得心がいったように頷いた。
ふたりが交際しているいないは、今は置いて美月は考えた。愛彦たちは初体験で失敗したのだろう。偏った知識というのは、おそらく十八歳未満には許されていない、本やビデオで学んだものだ。その知識頼りの男は下手だと三坂から聞かされていた。
「しかし、みつき先生から教われないならどうしたものかな」
悩んだように愛彦は頭をかくと、
「こうなったら、さやか先生頼ってみるか」
血の気の引くような言葉が放たれた。
三坂
「それはダメよ守純くん!」
美月はストップをかけたのだ。
不思議そうに愛彦は眉尻を下げた。
「ダメって、さやか先生に頼ることがですか?」
「そう。それはよくないことだから」
「向こうも忙しいはずですからね。卒業生が教えてくれって訊ねてくるのは大変だとは思いますけど……さやか先生なら、笑って手ほどきしてくれるかなって」
だからダメなのだと、美月は声高に叫びたかった。
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