41 教師陣の評価

 川島かわしま美月みつきは今、究極の二択を突きつけられていた。そのひとつの選択は、教師として決して許されない行い。もうひとつは、教師として決して見過ごすことができない行い。


 選択肢はふたつだけ。それ以外はないからこそ、美月は人生最大の修羅場を迎えていたのだ。


 修羅場の始まりは、一本の電話から始まった。


 勘違いしている子供たちは多いが、夏休みとはいえ、教師も休みを満喫しているわけではない。部活指導や大会の引率、授業がないからこそ行われる研修三昧、校内整備や書類の確認、二学期以降の準備など、多種多様な多忙を極めている。


 特に美月は教師生活二年目。担任としてクラスを受け持っている。右も左もわからぬ一年目よりはマシだとはいえ、権利を行使し長期連休を作る余裕などはなかった。


 その日は研修もなく、片手で数えられるほどの人数しかいない職員室で、事務作業に取り組んでいた。


 電話が鳴ったのは、十時を回る前だった。


 外線を取るのは、どの仕事も若いものの仕事である。


「はい、百合ヶ峰学園高等学校です」


「一年三組の守純です。みつき先生ですか?」


「あら、守純くん」


 電話は担当しているクラスの生徒であった。


 今年度から始まった共学化。男子生徒の一期生の中でも、優秀かつ品行方正を地で行く優等生。男子で一番成績がいいだけではなく、社交性も兼ね備えており、クラスの男子ではナンバー2というポジションにいる。


 クラス委員長の長城が男子の結束を深め、盛り上げ、引っ張っていく役割を果たしているのなら、愛彦は熱が上がりすぎた集団をそれとなく諌め、暴走しないよう手綱を引く。教師側の立場からすると、一番助かる存在だった。


 そして助けられているのは、クラス内のことだけではない。美月が雑用で荷運びや整理をしているときなど、自ら申し出て、積極的に手伝ってくれる。


 共学化一年目の不安や心配事は、彼によって大きく軽減されているといっても過言ではなかった。つまり一番可愛い、お気に入りの生徒である。


 愛彦が問題を起こすなんて微塵も考えておらず、声音も重々しいものではない。夏休みの開放感でハメを外し騒動の渦中になったわけでも、身内に不幸があったわけでもなさそうだ。


 その声音は迷いや心苦しさを含んだ、恥を承知で、という前置きに聞こえた。


「どうしたの? 先生に教えて貰いたいことがあるとか?」


 だから訝ることなく、軽い調子で訊ねた。


 見破られた気恥ずかしさの吐息が、電話越しに伝わってきた。


「わかります?」


「なんとなくね。宿題で悩んでいる……ことは、守純くんならないか」


「そっちは普通にやってたら、五日で終わっちゃいました」


「終わっちゃった? 本当に守純くんは凄いわね」


 美月は目を見張った。一切の謙遜のないどころか、どこか物足りなそうな言い方に感心してしまう。


 そして愛彦が、夏休みの宿題が終われば、後は遊び呆けるとも思えない。自分で工夫して先の勉強をしているのは、容易に想像できた。


「ということは、宿題に関係ない勉強で、わからないことがあるから教えてもらいたいんでしょう? それも先生の担当外の教科を」


「そこまでわかっちゃいましたか」


 少しバツの悪そうな声が受話器越しに響いた。


 ただ関係ない教科の教えを請うことに、心苦しさを感じているのではない。世間話で夏休み中も教師は大変だと話しているから、邪魔してしまう遠慮があるのだろうと察した。


 子供らしかぬ気遣い方がなんだか可愛くて、美月はくすりと笑った。


「いいわよ。今から学校に来られる?」


「いいんですか?」


「これでも先生だから。高校レベルなら教えてあげられるわ」


「高校レベルというか……むしろ小学生レベルだから困ってるっていうか」


「小学生レベル?」


 不可思議な呪文を聞かされたように、美月は唸った。空いた手の人差し指で、ぐりぐりと眉間のシワを解きほぐし、


「『1+1=2』の証明とか? そういうのは先生、ちょっと……」


「それは小学生レベルじゃないですよ」


「だよね」


 冷静なツッコミに、美月は苦笑いを浮かべた。


 愛彦は少しばかりの躊躇の後、


「その、普通に生きてたら誰でも知ってるっていうか、学ぶっていうか……俺、自分が偏った覚え方をしていたのに今更気づいて。ちゃんと学びたいけど……母に聞くのは絶対嫌だし」


「それで先生を頼ってくれたんだ」


「こんなこと教えてくれって頼める人は、身近にはみつき先生しかいなくて……なんかすみません」


 愛彦の声には、羞恥の色を深く滲ませていた。


「気にしないでいいのよ。むしろ先生、こうして頼って貰えて嬉しいわ」


「みつき先生……」


「守純くんには沢山助けられてるから。こういうときこそ、遠慮しないで先生を頼ってほしいわ」


「ありがとうございます」


 感極まるような愛彦の声。


「それで、なにを教えて欲しいのかしら?」


「あ……それはちょっと、マジで恥ずかしい話なので。直接会ったときにでも」


 それがすぐに、申し訳無さそうなものへ変わった。


「みつき先生なら、書くものさえあれば解説できる類なので」


「わかったわ。教室……よりも、視聴覚室とかのほうがいいかしら。そこなら誰の邪魔も入らないし、声も漏れないから」


「はい。お気遣いありがとうございます」


 これからすぐ向かうということで、電話は切られた。


「守純くんがこれから来るんですか?」


 美月の手から受話器が離れたところを窺って、学園長が声をかける。


「はい。偏って覚えていたことを、ちゃんと学びたいって」


「あの優等生が一体どんなことを?」


「直接じゃないと言いづらいそうで。本人はそのことを、凄い恥じてる様子でした」


「そうですか。でも、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥。恥を忍んで教師に教えを請える生徒は、意外と少ないものです。それを行動に移せる彼はもちろん立派ですが、あなたが信頼されている証でもありますね、川島先生」


「それだったら嬉しいですね」


 美月は小さく微笑んだ。そして思い出したかのように、影が差したかのように目を伏せた。


「本当、なんであんないい子が、酷い扱いを受けないとならなかったんでしょう」


 中学校での守純愛彦が、生徒間でどのような扱いを受けていたのかは把握していた。


 下品な話で盛り上がれば、当然女子から白い目を向けられる。あいつらに近づくのは止めておこうとなるのは、場をわきまえぬ自業自得というもの。だが、たまたま・・・・その場に居合わせたために、巻き込まれた愛彦だけが、女子の嫌悪の対象になってしまった。


 その巻き込み事故こそが、守純愛彦の中学校生活に暗い影を落とす、生徒たちからの無視、壮絶なイジメの始まりだった。


「そうですね……こういう言葉で片付けたくないですが、彼は運が悪かったとしかいいようがありません」


 学園長は心から同情の念を、愛彦に捧げていた。


「胡乱な言葉ではありますが、こういうことは稀によくあるんですよ。本人に非があるわけではない。でも明確に誰が悪いと言えないのに、辛くて苦しい立場に気づけば立たされていた。守純くんのような可哀想な子が」


 学園長は、その可哀想な子の母親も親友も、こいつは自業自得だと匙を投げていたとは、まるで考えていない悲しげな面持ちした。


「私たちの教師の行動で、暴力はなくなるかもしれません。本人を前にした、侮蔑や嘲笑もなくなるかもしれません。ですが、当人たちの関わりたくない、という心まではなくすことはできません。中学も過ぎればいい歳です。仲良く遊びなさいと無理に手を繋がせようものなら、そこから新たな歪みが生まれますからね」


「だからわたしたち教師が、彼のような生徒をしっかり守らないといけませんね」


「ええ。三坂みさかさん――いえ、今は三坂先生でしたね。彼女のような教師が側にいたから、彼も腐らず真っ直ぐ育つことができた。だから私たちは、彼にこの学園に来て欲しいって願い、そのバトンを受け取ったんです」


 三坂とは、愛彦が中学時代、さやか先生と慕っていた教師である。


 彼女は百合ヶ峰の卒業生であり、美月の三歳年上だ。同時期に百合ヶ峰に通ってこそいないが、テニス部のOGとして顔を見せることも多かったので、かつては素直に尊敬できた・・・、憧れだった・・・先輩である。


 愛彦は中学校では常にトップであり続け、教師からも品行方正と太鼓判を押されていたが、言ってしまえばそれだけである。それくらいの受験者は、他の中学校にもいくらでもいた。部活動や郊外活動はしておらず、協調性を計れる実績がなかったのだ。


 それを三坂が卒業生という立場を利用し、便宜を図るとはまではいかないが、受験前から百合ヶ峰の教師陣は愛彦の人物像を知る機会は多くあった。それに加えた廣場家の後押しが、愛彦を合格に導いたのだ。


 贔屓はあったかもしれないが、愛彦を学園に招いたのは間違いなかった。共学化一番の成功の象徴というのが、一学期終了時の教師陣の評価だった。


「守純くんのことは、三坂先生にお願いしますって頼まれましたから。このバトン、絶対落とすわけにはいきませんね」


「ええ。だから彼のことは、お願いしますね、川島先生」


「はい。――と言っても、今の守純くんに、そんな心配はなさそうですけど。なにかあれば守純を頼れ、なんて男子たちの間では言われてるらしいですから」


「それは私の耳にも入っています。守純には助けられた、あいつはまさに救いの神様だって。なんでも机の上には、供え物がされるとか」


「神様と扱われている限り、みんなが彼を蔑ろにすることなんて、ありえないでしょうね」


 ふたりはなんの憂いもない顔で笑いあう。


 まさか夏休みが明けてすぐ、愛彦が中学時代の二の舞いになるなんて。未来を知らぬふたりには、想像もしていなかった。


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