40 たとえなんと言われても

 目指すはひとつ上の階層、守純家の真上の部屋だ。


 夕飯時ということもあり、廊下に人気はない。ただ沢山の扉の向こう側から、家族の団らんの空気が流れてくる。


 まったくその空気がない部屋前に立ち止まり、チャイムを押した。二十秒経っても、誰も出てくる様子はない。借金取りのように扉を叩くのもあれなので、俺はチャイムを連打した。


「はいはいはい、はーい!」


 居留守を使うのは早々に諦めたのか、扉の向こうから慌ただしく迫る声。ガチャリという音が鳴ると、躊躇なく扉が開いた。


「防犯意識ゼロか。相手くらいちゃんと確認してから開けろ」


「こんな子供みたいに呼び出してくる奴なんて、あんたくらいしかいないでしょ」


 実に十日ぶりの会話は、いつもの調子で交わされた。


 葉那の格好は、ティーシャツにハーフパンツの、いつもと変わらぬ部屋着姿だ。ただ寝癖で髪は乱れており、服はクシャッとシワが付いている。早朝ならともかく、こんな時間からその姿はあまりにもだらしない。


 三島の娘さんの言う通り、目にクマが浮かんで顔色が悪かった。


 その有り様について指摘したい心を、グッと堪えた。


「飯の時間だ。今日は餃子だぞ」


「夏休みの間はいらないって伝えてるでしょ。自分の分はちゃんと用意してるんだから、勝手に用意されても困るわよ」


「ちゃんと用意って、深夜のコンビニでか?」


 葉那は目の前で秘密を暴き立てられ、衝撃を受けるように目を見開いた。


「毎晩毎晩、同じ弁当二個にコーラ。随分と素敵な食事の段取りだな」


「……なんで知ってるのよ」


「このマンションの住人が、そこのコンビニでバイトしてるんだ。おまえはこのマンションじゃ、目立つ存在だからな。ちょっと常識からずれた行動取ったら、すぐ噂されると覚えておけ」


「ろくな奴らが住んでないわね、このマンション」


 苦虫を噛み潰した顔を葉那は伏せた。


 こんな形でコソコソやっていたことを知られ、葉那はバツの悪そうにしている。その叱責を受け入れるかのように、黙って次の言葉を待っていた。


 こんな調子の葉那相手に、身体の話を持ち出すのは逆効果かもしれない。でもこのまま放っておくわけにはいかない。話をするのなら、まずはちゃんと飯を食べさせて、落ち着いた後のほうがいいだろう。


「いいから飯食うぞ。今日は餃子を百個も包んだからな、食べ放題だ」


「調子悪いときに、そんなもの食べる気しないわよ」


「調子が悪いならなおさらだ。ちゃんとしたもの食べないと、いつまで経ってもその調子だぞ」


「いいから放っておいて」


 葉那はイライラしたように言い放ち、扉を閉めようとした。


 俺は悪徳訪問販売員のように、扉の間に足を挟んだ。


「クソみたいな生活を送ってる奴を、放っておけるわけないだろ」


 どうあれ今の葉那は、あの日のことをキッカケに、こんな見ていられない生活を送っているのだ。折角の夏休みを、まるで無為にするように過ごしている。


 たとえなんと言われても、俺は絶対に引き下がらない!


「生理で体調崩してるの。これ以上イライラさせないで」


「お、おう。それは大変だな」


 足を引き抜くと、あっさりと扉は閉められた。


「生理か。生理なら仕方ないよなー」


 あっさりと固い意思を翻した。そんな俺をこの後待っていたのは、情けない息子に呆れる母親の顔だった。




     ◆




 あれから七日が経った。


 葉那との関係は一切改善することなく、日々を無為に過ごしていた。無為に過ごすどころか気がかりすぎて、長城からの誘いを断ってしまったほどである。こんな状況で呑気に合コンに励めるほど、俺の面の皮は厚くなかったようだ。


 母ちゃんはあの次の日から、前々から決まっていた旅行に向かった。高校時代の友人が大分に住んでいるらしく、温泉づくしだとずっと楽しみにしていたのだ。旅立つ直前に憂いを残してしまったのは申し訳ない。


「大丈夫だって。母ちゃんが帰って来るまでに、なんとかするから」


 あれだけ大口を叩いておいて、帰宅日の今日まで一切進展がないとは。さすがの母ちゃんも思っていないだろう。


 だって生理だもん。その言葉を出されたら、男にはわからない辛さの前に、こちらもタジタジである。


 しかしこれだけ生理の辛い時期というものは、長く続くものなのだろうか。


 沢山の女の子たちを見てきた。


 沢山のシチュエーションを見てきた。


 沢山の属性を見てきた。


 なのに蓄えられた知識が、今はまるで役に立たない。あれだけ多くのものを見てきたにも関わらず、安全日は『今日は大丈夫だから中に出して(はぁと)』。危険日は『デキてもいいから奥に出して(はぁと)』くらいの認識しかない。


 もしかして俺は、知識が偏ってるのか……?


 そのことに気づいてしまい、


『だってしょうがないだろ。俺は弱者男性だったんだ。生理の知識を正しく理解したところで、活用する機会なんてない。なのにわざわざ調べて、正しく理解しているほうが気持ち悪いじゃないか。推しの生理周期をアプリに登録して、悦に入るような変態じゃないだけマシだろ』


 と自らに言い訳をしていた。


 でも、このままではいけないのもたしかだ。無知ゆえの困り事を、学ぼうとしないのは愚者である。


 ただ調べようにも、我が家にはパソコンはない。古の端末ガラケーは調べ物に向かない。かといって今日帰ってくる母ちゃんに教えを請うのは絶対に嫌だ。


 そうなると、俺に残された手はひとつしかなかった。


「お願いします、先生」


 午前十一時。学園に訪れた俺は、


「どうか俺に、女の身体を教えて下さい!」


「えぇ!?」


 恥を忍んで、みつき先生に保健体育の授業を請うたのだ。


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