10

「……兄ちゃん」


 よく知る顔を覗かせた俺に、フミは瞠目した。


 苦笑しながら俺は肩を上下させた。


「ある日目が覚めたら女になったんじゃない。男の勲章を切り落とされてから、日毎に身体が女になっていくんだ。まるで間違いを正すかのように、内側から作り変えられていくかのような気分だった」


 背もたれにどっと身体を預けた。


「それが俺のあるべき成長だっていうんだから、マジで泣けてくるよな」


「手術した後、やっぱりきつかったんだ」


「きついなんてもんじゃない。男として生きた十四年間、すべてを否定された気分だ」


 フミを横目で見やる。


「母さん、こっそり泣いてたんだって?」


「うん。だから兄ちゃんの病気、そんなにヤバイんだって思ってた」


「それこそ俺の生き死にに関わるくらいにか」


「……正直に言っていい?」


「いいぞ」


「帰ってきてからの兄ちゃんを見ててさ、なんで母さんがあんなに泣いてたのか不思議だった」


「だろうな。今でもわからないだろ?」


「だって兄ちゃん、今でも楽しそうじゃん」


「そういうところしか、おまえには見せてないからな」


 得意げに笑って見せた。


「ヒコから聞いたぞ。夏祭りのときに、俺たちがふざけてる姿を見たんだって?」


「嫉妬を煽る遊びとか、ほんとしょうもないことしてるよね、ふたりは」


「どうせ男に戻れないなら、美少女の武器をフル活用して生きてやる。その第一歩が、あの遊びなんだ」


「美少女って自分でいうかよ普通」


「なにせ根っこが男だからな。自分がどれだけ綺麗で可愛いか、ちゃんと客観視できるんだ。ちなみに学園じゃ三大美人だからな、俺」


「マジかよ……」


 フミは呆然としたように、口をあんぐりとさせた。


 くつくつと笑いながら、とっておきの話を切り出す。


「もっと凄い話をしてやる」


「これ以上、まだあるの?」


「俺、子供産めるんだぞ」


「え……」


 フミは今日一番の信じられないものを見せつけられた顔をする。


 命が宿る機能が俺についている。この身体は女であると知りながらも、ありえない現実を突きつけられた。ゆっくりと滑るように俺の下腹部に向いたフミの眼差しには、驚愕と狼狽の色が宿っている。 


「医者に突きつけられた中で、これが一番きつかった」


「一番きついのが、それだったんだ。いや、そりゃそうだよね」


「向こうはおまえの身体は正常だって言ってるつもりだろうけど、俺には切り落とされた後の追い打ちにしか聞こえなかった」


 つい頭をガリガリと掻いた。こんな風な男みたいな身振りをするのは久しい。


「女の機能が自分についてるのがきつくてきつくてきつくて、ついには睡眠薬なしじゃまともに眠れなくなったくらいだ」


「そんなの飲んでたの?」


「うつ病の薬を飲まされるくらいなら、そっちのほうがマシだって思ってな」


「うつ病って……それ、大人がなるやつじゃないの?」


「どうやら子供もなるらしい。それがあんまりにもきつくてな、気づけば死にたいが口癖になってたし、ついそれを行動に移したこともあった」


 息を呑みながらフミは絶句した。まさかそこまで俺が追い込まれていたとは、思いもしなかったと。


「そんな俺でも、唯一元気になるときがあった。なんだと思う?」


「天河ヒメがテレビで出たときとか?」


 俺は苦笑しながらかぶりを振った。ヒメちゃんについてはむしろ、アイドルを引退するって聞いたときは絶望したくらいだ。


「母さんが会いに来たときだ。『なんでこんな身体に産んだ』って、罵声を吐いてなじる元気が出るんだ」


 なんともいえない、困ったような顔をするフミ。


 額に手の甲を当てながら、天井を見上げた。


「母さんだって、俺を苦しめるためにこんな風に産んだわけじゃない。今はちゃんとわかってるけど、あのときは母さんが諸悪の根源にすら見えてな。八つ当たりしないと、正気じゃいられなかったんだ」


 そのときのことを思い出すと苦い気持ちになる。


「母さんな、どれだけなじっても俺の前では決して泣いたりしなかった。ただごめんねって謝ってくるだけだ。それがまた気に触って、近くにあった物まで投げつける始末でよ。今思えば母さん……一度も避けたりしなかったな」


「そこまでされたのに、兄ちゃんの前じゃ泣かなかったんだ」


「サンドバックが殴られて泣いたら殴りづらいだろう。一番辛いのは俺だから、少しでも気が晴れるならって……後になって知った」


 肩をすくめながら苦笑した。


 口にすべき言葉が見つからず、フミは手持ち無沙汰のように目を伏せる。


 俺は共感してほしいわけではない。


 後悔を聞いてほしいわけでもない。


 悩みを打ち明けたいわけではない。


 これでもフミの兄としての矜持はある。自分の中で折り合いをつけられず、反省を消化できずにいる思いはフミに見せるつもりはない。なによりそういう相手は間に合っている。


 だからこれは、もう折り合いを付けられたもの。


 なにも知らされなかったフミが見た、母さんの涙の意味を教えただけだ。


「悪かったな、フミ」


「なにが?」


 前後が繋がらない謝罪に、フミはキョトンと不思議そうな顔をする。


「ほんとはバスケ、続けたかったんだろ?」


「いや、だから別に――」


「俺のことで大変そうだから、負担にならないよう遠慮したんだろ。母さんに」


 図星をつかれたように、フミは口を結んだ。

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