11
来月にはもう、フミは中学三年生。受験を控えた最後の一年だ。
なにを始めるにも遅すぎることはないとはよく言うが、やってこなかった二年のハンデは大きい。成長期でのことならなおさらだし、それはフミが一番わかっているだろう。俺の口から今更バスケ部に入れなんて、無責任すぎて絶対に言えない。
「俺はもう、大丈夫だからさ。なにかやりたいことがあったら、もう遠慮するなよ」
フミの頭をくしゃくしゃと撫でた。
告げるべきは、これから始めたいことについて。親の負担を気にして、諦めなくていいんだと伝えたかったのだ。
まだ子供の俺が、そんなことを言うのは生意気かもしれない。それでも前にヒコが言った言葉が、今になって胸に響いたのだ。
『子供の頃に子供らしくいられないのは寂しいからな』
おばさんが言うならともかく、まだ子供のヒコがこんなことを口にするのだ。かつては同じ子供のくせして、やけに大人みたいなことを言うなと思った。
これは大人の顔色を伺って、空気を読んできた。そんな子供時代を送ったヒコの経験則なのだ。
その言葉を自分に当てはめるのは、うまく実感はできない。だけどフミに当てはめると、重みを感じた。
フミにも男としての矜持がある。バスケを続けたかったことを認めるようなことは、今更肯定するようなことは口にしたくないだろう。
「男に戻れなくてもいいって、思えるようになったってこと?」
言葉を探した先で、そんなことを聞いてきた。
苦笑しながら俺はかぶりを振った。
「いいや、戻れるなら絶対に戻りたい。ただ、受け入れただけだ」
「どんな風に?」
「女の身体で生きていくしかないってさ」
「女としてじゃなくて?」
「ああ、女の身体でだ」
なにせ女として生まれてよかったなんて、一度も思ったことはない。
誰もが俺を男として信じていた頃に戻りたい。
でもそれはないものねだりにすぎない。
「どうせ男に戻れないなら、いつまでも女々しく泣いていても仕方ないからな。この身体で得られる特権は存分に享受するって決めたんだ」
なにせ今が一番若くて、楽しい時期なのだ。いつまでも現実が辛い辛いと俯いていたら、時間がもったいない。
そうヒコに教えられたのだ。
「具体的にはどんな特権を享受してるのさ?」
フミは興味深そうに訊ねてくる。
俺はニヤッと笑うと、上げた両手をわきわきさせた。
「好みの相手の胸は簡単に揉めるな」
「なっ……!」
まさかいきなり下ネタを投げられるとは思っていなかったのか。フミは顔を赤らめこそしないが、困ったように眉根を寄せた。
なんとか言葉を探して振り絞ったフミは、
「兄ちゃん……性犯罪者じゃん」
「バーカ。このくらい女同士のコミュニケーションだよ、コミュニケーション。嫌な顔なんてされたことは一回もないぞ」
「嘘だ。すぐに人の胸を揉む奴とか、絶対ヤバイ奴じゃん」
「さかりのついた猫みたいに揉もうとしたらな。だから俺は、必ずカウンターを使うんだ」
「カウンター?」
フミが首を傾げると、俺は自らの胸を両手に置いた。
「俺は学園じゃ、五本指に入る巨乳だからな。羨まれる度にこう言うんだ。『こんなの大きくたって、いいことなんてなにもないわよ。運動の邪魔だし、肩だってこるし』って」
「そんなマンガのキャラみたいなこと言って、反感買わないの?」
「もちろん買うぞ。だから毎回、必ず揉みくちゃにされる」
「わかってて、なんでそんなこと言うんだよ……」
「考えてもみろ。これを言うだけで、好みの子たちから抱きつかれて、身体中を弄られる自分を」
「それで喜ぶとか、ただの変態じゃん」
「ヒコにはおまえ天才かよって言われたぞ」
「ヒコくんはアレだから」
フミは呆れることすらせずに、アレ扱いでヒコを流した。
一年だけとはいえ、同じ中学校に通っていた。ヒコがどんな存在だったのか、当時一年生のフミにも伝わっているようだ。
「この技の一番凄いところはな、やり返してもお互い様になるところだ。シャワーを浴びてるときにやったときは、生の感触を楽しめた」
「兄ちゃんも変態かよ」
「偉い人の格言を教えてやる。下半身には正直になったほうが、人生楽しいぞ」
「誰だよ、その偉い人って」
「ヒコ」
「ただのエロい人じゃん」
今度こそ呆れたように、フミは渋面を浮かべた。
ちなみにこの格言は、まだエロへの恥を捨てきれなかった小六の頃にかけられた言葉だ。
「なんの話で盛り上がってるんだ?」
風呂から上がった格言の当人が、丁度リビングに現れた。
いつもの口調と声音に戻しながら、私はそれに答えた。
「私がどうやって、日頃先輩たちの胸を揉んでるかって話よ」
「ああ、あの天才の技か」
なんともなさげにヒコは言った。
それがまた、フミを呆れさせたのだ。
「天才の技って……兄ちゃん、学校での倫理観どうなってるのさ」
「こいつの倫理観? そりゃ酷いもんだぞ」
口元を歪めながらヒコは答えた。
「自分が掴めない幸せを、格下の男どもが掴むなんて理不尽だ。そんな理不尽なこと言いながら、四人の男をたぶらかせているからな。自分に夢中のうちは、他の女に目を向かない。そうやって青春の芽を摘むようにしてるってな」
「兄ちゃん、悪魔かよ……」
「ああ、こいつこそが百合ヶ峰に巣食う悪魔。こいつの被害者の会から、俺は決闘を申し込まれたくらいだ」
「決闘!? なんでヒコくんが?」
「報われない俺への想いを一途に抱く誤解を、この悪魔が散々振りまいたせいだ。動機は悲劇のヒロイン扱いでみんながチヤホヤしてくれるからだぞ」
「兄ちゃん……」
複雑な表情をフミは私に向けてきた。
一方ヒコは、忌々しいものへ送る眼差しを向けてくる。
「この悪魔のせいで、俺の評判は二股最低野郎まで落ちたからな」
「ごめーんね」
私は頭をコツンと叩いて、可愛らしく舌を見せたのだった。
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