50 待って待って待って待って

 天河ヒメをたまたま見かけたのは、中二の十月上旬だった。


 大切な家族を喪う。その辛さを経験している俺は、帰らぬ命の尊さを痛いほどに知っていた。新たな人生で母ちゃんこそ取り戻したが、今度はその人生で手に入れた、たったひとりの友人を喪った。


 我が人生の盟友、マサはもうこの世にはいない。そう確信し、それを受け入れた昨晩は、ベッドで涙を零していた。


 だけど、いつまでも親友がメソメソしていては、天国のマサも浮かばれないだろう。泣くのはその一度きりと決めて、その日はマサの冥福を祈り、一日を過ごすと決めたのだ。


 まずはマサが大好きだった、血の池地獄のようなラーメンを食べよう。たしかに苦痛は伴い、苦しみは後に引きずるかもしれない。しかし二度とマサはそれを口にできないからこそ、代わりに食べようと決めたのだ。


 その店に向かう道中。劇場前にある謎のオブジェ周辺で、十人ほど立ち止まっていた。視線は皆一様に向いており、芸能人でもいるのかと思い目を向けたら、たしかにそれっぽそうな女性がいた。


 ハーフアップの黒髪の上に、キャップが深く被せられている。サングラスをかけているが、その横顔だけでも美少女だとわかった。歳の頃は女子高生くらい。パーカーとジーンズは量産品かもしれないが、それが安っぽく見えない『あ、芸能人なんだな』っていうオーラがある。


 この時代で活躍している芸能人は、最低限の知識はあった。これほどの足を止めるということは、相当な人気があるはずなのだが。目元を隠されてはわからない。


 その芸能人は、大学生くらいの男ふたりを前にして、両手を振っている。歓迎しているのではない。自分はそうでないと否定しているのだ。それでも確信を持っている大学生が、しつこく本物でしょと追求しているのだろう。


「いやいや。やっぱり、ヒメちゃんだよね? 俺わかるもん」


「声もまんまじゃん。お願い、握手してよ」


 聞く耳を立てずとも伝わってきた。


 ヒメちゃん。と聞いて、ようやく目元が隠された全貌が、頭の中で浮かび上がった。


 天河ヒメ。トップアイドルは誰かと聞かれ、その名を出したら、誰もが納得し否定できない存在だ。テレビを見る習慣があるものなら、誰もその顔と名前を知らないものはいないだろう。テレビを見ない俺ですら、こうしてわかったほどだ。


 きっと周りで立ち止まっているものたちは、機会を窺っているのだ。本人だと確定した瞬間、ハイエナのように俺も私もと、握手やサインを求めだすのだ。


 きっとここにいるのは仕事ではない、ただのプライベート。人気商売とはいえ、一度そこにいると認知された瞬間この有り様だ。気楽に街を歩き回れないのは大変そうだ。


 そういえば、マサは天河ヒメ信者だったな。


 ここにいたら、あいつはどうしただろうか。彼らのようにハイエナになるか、信者の鑑としてプライベートを尊重し、我慢するか。それとも……。


 少し考え、決めた。


 失敗したら失敗したらでいい。周りは俺のことを、アラフォーの弱者男性ではなく、ただの中学生として見るのだ。このくらいで恥を掻くことなんて、なんとも思わない。


 俺はやっと見つけたような演技をしながら、天河ヒメに駆け寄った。


「あー、いたいた、姉ちゃん」


「……え?」


 天河ヒメがキョトンとした音が零した。


 姉ちゃん。それが自分に向けられたものだと気づいたのか、迷ったように口元を動かす。なにかを言い出す前に、こちらが切り出した。


「すぐ終わるからそこで待っててくれって言っただろ。勝手にどっか行くなよ」


「え、あー……うん。ごめんね」


 短い葛藤の末か、どうやらこちらに合わせると決めたようだ。


「え、もしかしてヒメちゃんの弟くん?」


 男のひとりが、面食らったように訊ねてきた。天河ヒメに弟なんていたってけな、と考える表情だ。


 天河ヒメの家族構成など知らない。知っているのは精々、将来の旦那と生まれる子供の数と性別くらいだ。


 だからボロが出ない話に持っていく。


「あー、それ違う違う」


「じゃあ……従兄弟?」


「そっちの違うじゃなくて、本物じゃないから、これ」


 ぞんざいに扱うように、親指で天河ヒメを指し示す。


 男ふたりは再確認するように、天河ヒメの顔をジロジロと見る。それを見てなにかを言い出す前に、続けて言った。


「姉ちゃんはただのそっくりさんだよ」


「そっくりさん? いや、でもさ――」


「あの天河ヒメが、プライベートでこんな安いもの着てると思う?」


 天河ヒメのフードを引っ張って、安物だと強調するようにひらひらと振った。


「言われてみれば……」


「たしかに……」


 得心したように男ふたりは頷いた。


 でも本物の可能性を捨てきれない。いや、夢を信じるかのように男のひとりが「でもさ」と口を開いた。


「オーラがあるってオーラが。これはただのそっくりさんじゃ、絶対出せないオーラだよ」


「オーラはさ、作れるんだよ」


「え?」


「さっきまで姉ちゃん、芸能人のそっくりさんを集めた番組に出てたから。向こうで化粧をされたんだ。この化けようはまさに、プロの仕事だったな」


「プロの仕事……」


「そうじゃないとうちの姉ちゃんなんて、地元の天河ヒメレベルの域なんて出ないよ。……そう考えると、プロの仕事は凄いな。ここで足を止めてる人たち、みーんな本物だと勘違いしてるってことだろ? ファンの目すらも欺いてるとか」


 少しバカにした口調で、周囲を見渡す。こちらの様子を窺っていたハイエナたちが、慌てて視線を逸らしてくる。中には気まずそうに去っていくものも出てきた。


「なーんだ。そういうことか」


「ごめんねー、しつこくしちゃって」


 ガッカリしたように、男ふたりは肩を落とした。


 根っからの信者なのかミーハーなのかはわからないが、悪い人たちではないのだろう。謝罪だけ残して、あっさりと去っていった。周りのハイエナたちも、そそくさとその場を後にしたのだった。


 こうして俺と天河ヒメだけが、この場に残された。


 このまま残っていても気まずいので、「じゃ」とだけ言い残して、目的のラーメン店へ向かった。


「待って待って待って待って」


「ぐえっ!」


 そのつもりが、首根っこを掴まれインターラプトされた。


「なにしやがる!?」


「いやいや、そのまましれっと立ち去る普通?」


 締まった首を擦りながら訴えると、天河ヒメは悪びれるどころか、不満げに口元を歪めた。


 悩んだような素振りをしながら、天河ヒメは頬を掻いた。


「その……わかってて、助けてくれたんだよね?」


「あのまま放っておいたら、ハイエナたちに集られていただろうからな。迷惑だったか?」


「それは助かりました。ありがとうございました」


「どういたしまして。目元隠したくらいじゃ、オーラまで消せないんだから気をつけろよ。マスクをしろ、マスクを」


 じゃ、と片手を振りながら、俺は目的を果たすため天河ヒメに背を向けた。


「待って待って待って待って」


「ぐえっ!」


 またも首根っこを掴まれて、それをインターラプトされた。


「なにしやがる!?」


「えっと、そのね……はい。よかったら」


 首根っこを掴んだ件については悪びれる様子もなく、右手を差し出してきた。


 その意図が理解できず、眉をしかめた。


 五秒ほど、天河ヒメの手が宙に浮いていたか。


「……俺と握手したいのか?」


「君がしたいかなって!」


「は?」


「え?」


 お互い理解できない生物を前にしたように、鏡合わせのように首を捻り合う。


 先に相手の気持ちを理解できたのは、俺のほうだった。


 ポン、と納得したように手を叩いた。


「ああ、大丈夫大丈夫、俺、天河ヒメにはまったく興味ないから。そういうのはいいや」


「そ、そっかー……なんか、ごめんね」


 トップアイドルとして誰よりも輝き、求められてきた天河ヒメ。その力なく落ちていく手が、どこか悲しげに映った。

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