49 健全なる精神は健全なる肉体に宿る

 棚の奥からそれを引っ張り出して、再び葉那の部屋を訪れる頃には夕暮れだった。


 リビングに籠もっていた臭気はすっかりなくなっていた。母ちゃんが発生源を片付け、換気したのだろう。


 ペットボトルが散乱していた床は綺麗さっぱり。ベッドに近づくと、ほんのり石鹸の匂いがした。家主がベッドの端で横になっているところを、スペースを見つけて腰掛けた。


「どうだ? すっきりしたら、少しは気分もよくなったか?」


 背中を向け合いながら、葉那に語りかけた。


 しばらく間が空いた後、呟くように返事があった。


「……さっきは、叫んで悪かったわね」


「こっちも体調崩してる奴に、正論を押し付けすぎて悪かった。これじゃあ、ただのロジハラだったな」


「ロジハラ?」


「ロジカルハラスメント。セクハラやパワハラの正論版だ」


「なによそのバカみたいな言葉は……」


 くだらないものを聞かされたように、葉那は呆れたように息を漏らした。


 声に元気は未だないが、それでも会話に応じてくれるようにはなったようだ。一度我慢したものを発散したからだろう。母ちゃん様々である。


「バカみたいな言葉でも、ハラスメントはハラスメントだぞ。正論だからとはいえ、こっちの事情や感情も考えず、俺が正しいおまえが間違ってる。だから黙って言うことを聞けって正論を押し付けられると、気分悪いだろ?」


「そうね……じゃあ、ロジハラしてきたあんたが悪いってことで」


「それとこれとは話が別だ。生理のときでも、ちゃんと休まず学校に通ってただろ? だったら今の自堕落な生活が許される理由にはならん。健全なる精神は健全なる身体に宿るって言葉を知らんのか?」


「あー、うるさいうるさい。ロジハラしてくる男がうるさいわー」


 葉那は煩わしそうに訴えてくる。でも、本気で鬱陶しがっているわけではないのは、声音でわかった。


「でもおまえの気持ちもわからんでもない。外に出る理由がないのに、弱った身体でいつも通り起きるのは、やっぱり辛いもんな。俺だって飲みすぎた二日酔いの朝は、仕事がなければダラダラと横になってたもんだ」


「……二日酔い? あんた、酒なんて飲んでるの?」


「おっと、口が滑った。母ちゃんには内緒な?」


「優等生が聞いて呆れるわ……」


 言葉にしているほど、葉那は呆れた様子はない。むしろ意外な一面を知って、どこかおかしそうだ。


 これについては、本当に口が滑った。今更タイムリープのことを隠したいわけではないが、信じていない話を通しても仕方ない。そもそも仕事という単語に、反応すらしていなかった。


「だからといって、いつまでもこんな生活、続けるわけにもいかんだろ? なにせ、折角の夏休みだ。クラスの女子たちからも、お誘いの連絡が沢山来てたんじゃないのか?」


「あー……途中から無視する形になってるから、そろそろ返さないと不味いわね」


「でも、その元気がないから、この有り様ってわけだ」


「……まあね」


 後ろめたそうに葉那はそう応えた。


 葉那の体調は、身体に引きずられて気持ちまでも落ちている。そういうことにしているつもりだが、真実は逆だった。精神のほうが先に病んでいたのだ。


 やはり体調が悪いよりも、精神の不調のほうが、人は知られたくない。それが友人相手ならなおさらだ。


 だからしっかり、葉那が通そうとしている建前、その意思を尊重することにした。


「さっきも言ったが、健全なる精神には健全なる肉体が宿る。健康な食生活もそうだが、それと同じくらい朝日を浴びるっていうのは大事なんだぞ。そうやって生成されたビタミンDは、脳の健康や免疫力向上を促すんだ」


 それと、ストレス解消やメンタル安定。うつ病患者が朝の散歩を勧められるのは、医学的に理が適っているとかなんとか。


「俺が毎朝ジョギングするのはな、そうやって健全な肉体を得るためなんだぞ」


「だからあんたと一緒に走れって?」


「そこまでしろとは言わん。散歩でいい散歩で。普段は登校中に済ませている習慣を、夏休みに取り入れろ」


 それをそのまま伝えることはできないので、迂遠的に促していく。


 わかったわ、と大人しく返事しないのは、きっとそれができる自分がイメージできないのだろう。言葉が詰まったままの葉那に、俺は告げた。


「三度目になるが、健全なる精神には健全なる肉体が宿る。今のおまえにそれができないのはわかってる。だから、まずは精神のほうからだな」


「精神?」


「精神さえ元気になれば、弱った身体でも動かす気になれるだろ? だからおまえが、一発で元気になれる品を持ってきてやった。ほら」


 俺は持ってきたそれを、後ろ手に渡した。


 それに手にした葉那は、最初は不審げにマジマジとそれを見て、


「え、嘘!」


 勢いよく上体を起こした。


 肩を震わすその様は、まるで幽霊を目の当たりにしたような驚きようだ。でも脱兎のごとく逃げる対象ではなく、むしろ幽霊と知ってなお手を伸ばしたい。そんな相手だった。


「なにこれ……え、え?」


「なにこれって、見ての通りだ」


 予想以上の反応に、思わず口元に笑みを湛えた。


花雅おまえ宛ての、天河ヒメのサインだ」


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