26 古の端末

 ゴールデンウィーク最終日。


 今日は天気に恵まれ、朝のジョギングがすこぶる気持ちよかった。その余韻が残り続けるものだから、家で閉じこもり勉強に励むだけで一日を終わらせるのが、なんだかもったいなくなったのだ。


 走りたい。その気持ちに抗うことなく、タオルと小銭入れだけを持った俺は、外に飛び出した。非日常を求めるように、いつもとは違う道を走り続けていると、美しい湖にたどり着いた。綺麗な景色を眺めながら、道中で買ったおにぎりを食べるのは、その味以上の充足感をもたらした。もうひとつ買っておけばよかったなんて悔やみながら歩いていると、露店が目に入ったものだからつい焼きそばなんて頼んでみた。本当に、本当に普通のお祭りの焼きそばの味だった。それでも今日という日を特別にするには、十分すぎるほどの素晴らしいものだ。お腹が落ち着いたタイミングで、帰路に着くため走り出し、家に到着する頃には二時を回っていた。


 充実した一日だった。心から満足しながらシャワーを浴び、コーラで一服しようとリビングに戻ると葉那がいた。


 こちらの顔を見るなり百面相を始めた葉那を横目に、冷蔵庫からキンキンに冷えた缶コーラを取り出していると、


「ヒコ、ケータイを買いにいくわよ」


 藪から棒にそんなことを言われたのだ。


 プシュっとコーラを開けながら問いかける。


「ケータイ? なんだ、買い替えるのか」


「私のじゃないわよ。あんたのよ、あんたの」


「俺の?」


「そ、あんたのケータイを買うのよ」


 まるで決定事項のように告げられて、つい眉をひそめてしまった。


 ケータイを買う、ね。


 改めてその意味を理解すると、思わず鼻で笑ってしまった。


「別にいらねーよ。そんなもんなくても困らんし」


 なにせ今は2000年代。スマホなんてものはまだまだ先の話であり、この時代の携帯端末といえばガラケーである。ユーチューブを視聴できるわけでもなければ、音楽プレイヤー代わりになるわけでもない。パソコンと同等のネットサーフィンなんてもっての外。ツイッターはまだサービスすら開始しておらず、SNSといえば招待制のミクシィー一強である。


「ほら、これなんだよ」


「お、いたのか母ちゃん」


 葉那の陰に隠れるようにして、母ちゃんがソファーに座っていた。


「高校生なんだからケータイのひとつくらい持ちな、って言ってはいるんだけどね。頑なに持とうとしないんだよ」


「電話以外に利用価値を見いだせないものに、高い維持費なんて払っても仕方ないからな」


「電話以外って……あんたのケータイのイメージ、何年前で止まってるのよ」


 葉那はやれやれというように額に手を置いた。


「お爺ちゃんのヒコにはわからないと思うけど、凄いのよ今のケータイは」


「どう凄いんだ?」


「綺麗な写真を撮れるの」


「画素数は?」


「私のケータイは三百万よ、三百万」


「ぶっ、くく。三百万か……すっげ」


 あまりにも誇らしそうに言われるものだから、コーラを吹き出しそうになった。


 葉那は口をへの字にした。


「なによその小馬鹿にした笑い方は」


「いや、なんでもない。俺が百パーセント悪いだけだから気にしないでくれ」


 別に葉那がおかしいことを言っているわけではない。ただ林檎印のスマホユーザーだった身からしたら、子供が玩具を誇っているようで微笑ましかったのだ。


 腑に落ちない顔をしながら葉那は続けた。


「それに電話以外利用価値ないって言うけど、ケータイで一番使う便利な機能っていったら、メールよ」


「メール!?」


「そう、メール。メールってわかるわよね?」


「知ってる知ってる。ケータイのメールって言ったら、みんな飽きでメアドを変えるものだからさ。頻繁に『メアド変更しました!』ってメールが送らてくるんだろ? しかも一斉送信する際、CCで送ってくるもんだから、知らない奴のアドレスが大量に載っててさ。個人情報の扱いの軽さに、なんか時代を感じるっていうか……これも、ひとつの文化なんだろうな」


「あんたはどこから目線で、どこに文化を感じてるのよ」


「しかしケータイを持つ一番のメリットがメールか……」


「どう、持つ気になった?」


「そう考えるとますますいらんな。文字を打つのに、フルキーもフリックも使えないとか。今更トグル入力でポチポチなんて打ってられんわ」


「フルキー? フリック? トグル? あんたなに言ってるの?」


「携帯端末は次の世代に進むまで、必要ないってことさ」


 今の時代のケータイは、まだまだ高校生の必需品というほどではない。クラスのライングループに入らなければ、人権を得られない令和の学生とは違うのだ。


 パソコンも似たような理由で持っていない。まだまだネットコンテンツは発達していないから、当分ネットに繋がる端末は必要ないだろう。動画にコメントしてニコニコできる時代は、まだやってきてすらいないのだから。


 頑なにケータイを持とうとしない俺に、葉那は肩を落とした。


「さっき街でね、長城くんたちと会ったのよ」


「長城たち? 誰といたんだ」


「ヒコのクラスの男子たちとよ」


「へー。何人くらいいた?」


「九人」


「は?」


「ヒコ以外全員よ」


「……嘘だろ?」


 今日一日かけて満たした充足感が、喪失感へと反転した。


 俺が知らないところで俺以外が全員集まってるって……そんなのまるで、ハブじゃないか。


「あのときはさすがに、見てはいけないものを見たような気になったわね」


「なんでだ長城……なんで俺だけをハブったんだ。俺たちでクラスを盛り上げていこうって、言ってくれたじゃないか……!」


「長城くんはね、あんたをハブったつもりはないのよ」


 失意に呑まれそうになったところ、希望を与えるようにそのときのことを語ってくれた。






「な、長城くん……奇遇ね」


「あ、廣場さん」


「……その、今日はクラスの皆で集まってるの?」


「ゴールデンウィークの最後になにもないのはあれだからさ。昨日の夜、暇な奴で集まろうぜってメールしたら、みんなふたつ返事でこの数さ」


「……へ、へー。……あの、ヒコはどうしたの?」


「そうそう、メールするときになって、守純の連絡先を知らないことに気づいてさ。誰か知ってたら誘っといてくれって書いたんだけど、誰も知らなかったんだ」


「そ、そうだったの! ヒコ、ケータイ持ってないのよ」


「やっぱりそうだったのか。初日に連絡先交換したつもりになってたからさ」


「ヒコ、今日は一日暇にしてるはずだから、家にかけたら連絡とれるかもよ」


「さすがに家の電話は知らないな。こっちで連絡してみるから、守純の家の番号教えてもらえる」


「もちろんよ」






「そのときは安心したんだけどね。念の為こっちに顔出してみれば、あんたがいたからビックリしたわよ」


「クソ、ジョギングなんかに行かなければよかった!」


 今日一番の失敗に頭を抱えた。


 なにが湖が綺麗でおにぎりが美味しいだ。焼きそばなんて食ってる場合じゃなかった。


 そして改めて、ケータイは高校生にとって必需品であることを認識した。なにせタイムリープ前は、ケータイなんて持っていなくても困らない高校時代を送っていたのだ。今思えば、持っていなかったらクラスメイト以上の友達ができなかったのかもしれない。


 葉那は腕組みしながら、細めた目を向けてくる。


「で、ケータイはいらないんだっけ?」


「馬鹿野郎! ケータイは高校生の必需品だ、今すぐ買いに行くぞ!」


 こうして俺は、すぐに母ちゃんを引き連れ、近くのケータイショップでいにしえの端末と契約したのだった。

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