04 新世界

 失って初めてそれが大切なものであると気づいた。


 なんてフレーズがあるが、気づいただけでもマシだろう。ゆっくりと時間をかけて失ったものは、自分がそれを持ち合わせていたことすらも忘れてしまう。


 三十三年間、必死に生きてきた結果、失ってきたものは数知れず。自分はこんなにも沢山のものを持っており、恵まれた環境せかいに生きていたことを知った。


 気づかぬ内に手放したもの。


 かつてはそれが価値あるものだと知らなかった宝石。


 それらをひとつひとつ大切にした先で、かつては底辺高校を通っていた俺は、百合ヶ峰という名門校に通えるまでになった。


 そんな順風満帆な二度目の人生。ここまで順調に上手くいっているのは、かつて失った大きなもの失わずにいるから。一度目の人生で、ある日突然奪われたそれを今生では守りきったからだ。


 朝の日課であるランニングから戻り、汗を流し入ったリビングには、朝餉の匂いで満たされていた。


 それが日常。当たり前である奇跡。


 今日もその奇跡を作り続けている者が、対面式キッチンの向こう側で顔を上げた。


「おはよう愛彦」


「おはよう、母ちゃん」


 かつて小学五年生のときに失った母親。それが今生では側で生き続けているのだ。


 食卓に並ぶ炊きたての白米に湯気を放つ味噌汁。焼き鮭と卵焼きに納豆までついている。こんな品数の朝食が黙って出てくることがどれだけありがたいことか。


 今日もその幸せを噛み締めながら手を合わせた。


「いただきます」


「はいよ、召し上がれ」


 キッチンから母ちゃんは応えた。


 食卓に並んでいるのは一人前だけ。母ちゃんが先に食べたわけでもなければ、朝を抜くタイプというわけでもない。まだ俺の弁当作りを進めているのだ。


 息子の登校時間に合わせて早起きして、朝食を作るだけではなく弁当まで用意する。頭が上がらないとはまさにこのことである。


「しかしあんたも、飽きずによくやるね」


「ん、んっ。なにが?」


 口内の白米を味噌汁で流し込んでから聞き返す。いい大人が口にものを入れたまま喋るんじゃないと、タイムリープしてから母ちゃんに躾けられた成果である。


「こんな寒い日も、毎朝毎朝走ってさ。嫌になんないのかい?」


「そういう日ももちろんあるさ。こんなクソ寒い冬の朝に、なにが悲しくて走り出さなきゃいけないんだ。今日くらいは休んでもバチは当たらんだろうって」


「あんたはそんな悪魔の囁きを、どうしてるんだい?」


「そんなときは自分の腹を見るようにしている」


「腹?」


 小首を傾げる母ちゃんに向かって、シャツを捲って腹を見せた。


「この腹こそが、俺のモチベを支えてるんだ」


「母ちゃんには普通の腹に見えるけどね」


「その普通こそが、俺が守りたいなによりの財産なんだよ」


 かつての俺は運動なんて無縁の生活を送ってきた。どれだけ食べて飲んでも太らなかったし、六十キロを超えることはなかった。どれだけ食べても太らない体質だと調子に乗っていたのだ。


 それが二十代半ばに差し掛かり、


『あれ、俺ってこんなに腹出てたっけ?』


 肉体の変化に気づいたのだ。出先でたまに乗る体重計に大きな変化がないからこそ、小さな小さな積み重ねの恐ろしさを知らないでいたのだ。


 そして三十歳を超えてから、増えなかったはずの体重が急速に増えた。年に一回の健康診断で、三キロずつ増量していった。最後に体重を測ったときは、七十の大台へ踏み入れる手前である。


『なんでだ……俺は、なにもしていないのに』


 かくしてパッと見は普通体型なのに、腹が出ているアラサーは誕生したのだ。


「もう俺は、あの醜いぽっこりお腹には二度と戻りたくない。その強い思いこそが、どんな寒い朝でも背中を押してくれる」


「そこらの高校生だったら、若いくせにって笑い飛ばすところだけど……あんたが言うと切実に聞こえるよ」


「それに走り続けてきたおかげで、手にしたものもあったしな」


「どんなメリットだい」


「人権さ」


「なに言ってるんだいあんた?」


 弁当作りの手を止め、顔を上げた母ちゃん。なにを言っているか理解に苦しんでいる。


「かつての俺は、百六十九センチだった。それが高校一年にして、もう百七十三センチもあるんだぜ? ランニングのおかげで成長ホルモンドバドバだ」


「その話のどこに人権へ繋がるんだい?」


「今から十六年後の未来には、百七十センチ以下の男に人権はないんだ」


「一体なにがあったんだい……」


 あれは本当に悲しい炎上騒動だった。俺には人権がないのかと、心に深い傷を負ったものだ。女の胸見て大きい小さいとキャッキャしながら、ありかなしかと掲示板でワイワイやってきた俺たちに、怒る権利があるのかと反論されたらぐうの音も出ないが。


 あの未来はまた必ず訪れる。そのときは、


『あなたたちの中で、胸の大きさに優劣をつけたことがない者だけが、まずは石を投げなさい』


 と、正しき人の背中に倣うのだ。


「ま、そんな未来もたどり着いてのお楽しみさ、母ちゃん」


「そうだね。あんたとこういうことだったのかと話すために、ちゃんと生きないとね」


 ふっと、母ちゃんは笑った。


「ほんと、当時十一歳のあんたが、『俺は二十二年後の未来からやってきたんだ』と騒いだときは、なに言ってるんだいと思ったものだ」


 そう、母ちゃんは俺がタイムリープしていることを知っている。中途半端なことをするくらいなら、すべてを話して母ちゃんを救う道を選んだのだ。


 そもそもなぜ、母ちゃんが一度目の人生で命を落としたのか。その話をするには母ちゃんの愛する男について語らねばならない。


 母ちゃんが今まで恋をし愛した男は、人生でふたりいた。


 母ちゃんの初めての恋、その出会いは高校二年生の春だった。親の転勤で転校を余儀なくされた母ちゃん。その初日から寝坊をしたばかりに、朝食を食べる余裕もなく、食パンだけを咥えて慌てて家を出たようだ。


「ちこく、ちこくー! 初日からは遅刻は流石にまずい!」


 そうやって急いで学校へ向かっていたのだが、周囲の確認もせず曲がり角に飛び込んだのは不味かった。飛び出した者同士が衝突したのだ。母ちゃんは倒れた拍子にパンツを見られ、キレ散らかし、その相手と転校先のクラスで再会した。


「あー、あんたはさっきのパンツ覗き魔!」


 その男子こそが父ちゃんである。


 そう、かつて母ちゃんは遅刻する食パン少女だったのだ。昭和生まれは伊達ではない無駄べたな属性を掲げ、父ちゃんと大恋愛をしたようだ。


 その父ちゃんも俺が3歳のときに、警察官として殉職した。そこからシングルマザーとしてひとりで俺を育て上げてくれたのだ。


 けど、父ちゃん一筋だった母ちゃんの胸に空いた穴は大きかった。その穴を埋めたのが、幸嶋ゆきしま和幸かずゆきだった。イケメン、歌唱力、高身長。すべてを持ち合わせるシンガーソングライターにして俳優だ。


 そんな無敵な男とただのシングルマザーに、どのような接点があり、繋がりを持っていたのか。不思議でならないと考えた諸君。考えすぎだ、そんなものあるわけがない。


 そう、母ちゃんは幸嶋のファン。しかもガチ恋勢である。


 そして母ちゃんは、同じガチ恋勢に命を奪われた。チケットを取れずに発狂したガチ恋ファンが、ドームツアーの行列に車で突っ込んだのだ。そこに母ちゃんは巻き込まれ、帰らぬ人となった。


「『このままコンサートに行ったら、母ちゃんが幸嶋ガチ恋勢に殺される!』。本当に意味がわからなかったよ」


 母ちゃんは苦笑いを浮かべながら当時の様子を思い出している。


「それでも母ちゃんは信じて行かないでくれたじゃないか」


「S席のチケットは勿体なかったけど……あそこまで必死に泣いて、引き止められたらね」


 あの事件の被害者は、会場を訪れた人の中では母ちゃんを含めて一握り。会場を出る時間をずらせば、事件には巻き込まれないだろうが……それでも、巻き込まれる可能性は欠片も残したくなかったのだ。


 あの日は母ちゃんが外出しないよう、監視するようにべったりくっついていた。


「このまま行ったら、あたしが死ぬと本気で思ってるのは伝わったし……実際、事件は起きたからね」


「本当は、事件そのものを止められたらよかったんだけど……」


 俺は未来を変えてしまった。そのときは母ちゃんを助けた達成感でいっぱいだったが、死者数までは変わらなかった。その数字はまるで、抜けた母ちゃんの穴埋めのように見えた。


 ふっと母ちゃんは優しく微笑んだ。


「未来の出来事を知ってるとはいえ、当時のあんたはただの十一歳。警察はあんたの言葉を信じちゃくれないさ。社会おとなが信じてくれない以上、あんたが背負う必要なんてないよ」


「うん」


 俺はタイムリープしたとはいえ、全能なんかとは程遠い。根っからの天才や、努力で成り上がった人間なら、未然に事件防ぐことはできたかもしれない。


 俺は所詮、三十三年間必死に生きてきた結果がこれなのか? と嘆きながら人生に一度幕を下ろした弱者男性だ。金を荒稼ぎする方法なんて、いずれやってくるパンデミックの前にマスクをかき集め、高額転売するくらいしか浮かばない。


 未だみつき先生の胸を掴めずにいるこの手で、多くの命を救えたはずなのにと落ち込むのは、それこそ思い上がりだろう。


 俺は身の程を知っている。大きなものは拾えないだろう。だけど目の前で落ちそうになっている大切なものくらいは掴みたい。


 最近なら美しい百合を守れただけでも上々だ。


「俺さ、もし死んだら異世界転生したかったんだ」


「またあんたは、わけのわからんことを」


「ここではない異世界に転生して、チート能力で無双して、可愛い奴隷を沢山買ってハーレムを作りたかったんだ」


 味噌汁をすすりながら、かつての夢に思い馳せる。


「奴隷といったら道具のように扱われるのが普通だからな。それを一緒の食卓について同じ飯を食べるだけで、なんて優しいご主人さま、しゅきしゅき抱いてと、心から愛してくれるんだ。それだけじゃない、みんな仲良しのハーレムまで許してくれる」


「愛彦……あんた疲れてるのかい?」


「そのくらいができる新世界にたどり着かないと、俺は幸せになれないと信じてきた。この世界でやり直したいなんて、文字通り死ぬまで思わなかった」


 ヒィたんに裏切られ、すべてに絶望しその生命を落とした。


 こんな世界でいくらやり直したところで、結局環境ガチャ勝利民には叶わない。人生の大きな壁を札束の階段で駆け上がっている奴らの横で、安全綱もなしにクライミングするなどバカらしいではないか。


「でもさ、小学生に戻って気づいたんだ。かつては石ころのように見えたものが、実は宝石だったって。大人になったからこそ、それが価値あるものだったと知ったんだ」


 けど、札束階段民ですら持っていない眼鏡を俺は手に入れた。この眼鏡をかけた世界はあまりにも美しく、輝いて見えた。札束階段民ですら石ころと笑うそれが、俺には金銀財宝にしか見えなかったのだ。


「もし大人が小学生に手を出そうもんなら即通報だけど……頭脳は大人でも見た目は子供の俺には、そんな障害はひとつもない。ここはまさに新世界だった」


 コミックロリ王を定期購読していた俺の前には、まさに楽園が広がっていた。


 タイムリープした俺は、知恵の実を口にせずとも既に知恵を得ているアダム状態。その実を口にしていないのであれば、いくらイヴたちと戯れたところで神様は怒らない。楽園から追放される恐れがないのだ。


「もし彼女たちと愛を育んだとき、きっとそれは、神をも犯す気分になるんだろうな。そう思ったんだよ」


「三十八歳の息子が子供に欲情するとか、母ちゃん泣きたくなるよ」


 母ちゃんは目頭を押さえた。そしてハッとした。


「あんた、まさか本当にやってないだろうね」


「俺もさ、当時自分なりに頑張ったけど無理だった」


 女子とばっかり一緒にいて恥ずかしい奴、と後ろ指を差されようと『彼女たちにどれだけの価値があるかもわからんクソガキ共め』と鼻で笑っていた。


 学年で一番頭がいい上に足だって早い。そんな男子に気のあるように優しく振る舞われたら、『愛彦くんしゅきしゅき』ってなるのが明白である。むしろ俺を巡った争いが起きるのではとヒヤヒヤしながら、『俺のために争わないでくれ!』と練習していたものだ。


 可愛い女子たちと順調に交流を重ねた先で、ある日、担任に呼び出されこう言われた。


『先生ね、女の子に優しくできる愛彦くんを、とてもいい子だと思ってる。でも……その、みんなね、ちょっと愛彦くんの目が怖いって……』


 遠回しに女子と距離を置くようたしなめられたのだ。表向き問題を起こしていないからこそ、女子たちに相談された担任も困ったようだ。


 それでも俺はへこたれなかった。なにせ俺はロリコンなんかではないのだから。


 そもそもロリコンとは行き過ぎた処女厨。白紙のキャンバスを愛する者。可能性に欲情する獣のことを指す。そんな本物と比べたら、俺はストライクゾーンが下にも広いだけのつまらない男。純粋なイヴたちに固執しているわけではなかったのだ。


 ではイヴたちを諦めた俺が、次になにを求めたのか。


 リリスである。


 担任とのおねショタを強く望んだのだ。


 努力の甲斐も虚しく、その願いはついぞ報われることはなかった。


「いい大人が女の子ひとり落とせないなんて……不甲斐ない息子でごめん、母ちゃん」


「むしろ人生で一番ホッとしたよ」


 心からの安堵を母ちゃんは漏らしていた。


「でも、常々思うよ。あれから五年も経ってるのに、十三歳JCと付き合っても後ろ指を差されないとか。とんでもない世界に帰ってきちまったもんだってな」


「バカ言ってないで、さっさと食べて学校に行きな」


「あいよ」


 なにはともあれ、母ちゃんがこうして生きている。


 それだけで俺にとって、ここは美しい新世界であった。

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