05 助けてください、守純さん!

 校門に近づくにつれ、百合ヶ峰の学園生が増えていく。おはようから始まり週末はどうだったと、仲良きものたちが肩を並べるのだ。校門を超えるとそれはより顕著となり、下駄箱ではそれこそみんな友達のように語り合っている。


 おはようの一言もかけてくれる相手はいなかったけれど、俺の足取りはとても軽かった。


 なにせ美しい百合を守り抜いたのだ。


 俺の純愛警察としての大立ち回りによって、学園に求めた要望はすべて通った。昨晩、交渉役を委ねた代理人から、そのように連絡がきたのだ。


 まさに完全勝利。なんの憂いもない週明けだ。


 肩で風を切るように教室へ入ると、真っ先に美しい姿が目に入った。


 透き通るような肌に浮かぶ、宝石をはめ込んだかのような碧眼。活けられた花のようにピンと伸ばされた背筋が、葉那ほどではないが豊かな母性を強調していた。彼女の名を象徴するような、澄み切った白銀色の長い髪はどこまでも美しい。


 まるで花の妖精、もしくはその擬人化か。ただそこにいるだけで世界が華やぐ美貌を持った少女。


 それが真白百合であった。


 彼女がクラスで仲良くお喋りしている姿は、入学してから一度も見たことがない。


 別に真白がお高く止まっているわけではない。グループワークは協力的だし、受け身にならず進めていく。請われれば教えることも厭わない。クラスの輪を乱さない優等生である。


 ただ、それがお喋りになると話は変わる。いくら話しかけても打っても響かない態度。会話は弾むことなく、いつも気まずい沈黙で終了する。最初こそ男女問わず話しかけられていたが、いつしか歓談に誘おうとするものはいなくなっていた。


 それでも彼女は、女子すらも見惚れるほどに美しい。誰の特別にもならない彼女は、いつしか誰もが憧れる特別となっていた。


 まさに高嶺の白百合。納得の二つ名である。


 真白は教室での休み時間を、いつも教科書やノートに向き合って過ごしている。まるで悪い虫を寄せつけぬ温室で、ひとり閉じこもり人形みたいに咲いている。


 それが教室で見られる真白百合の常であるが、今日は目に見える変化があった。どこかそわそわとしており、落ち着かない様子だ。彼女の変化をクラスメイトたちも感じ取っているようで、みんながチラチラと真白を伺っている。


 まあ、彼女の態度は当然といえば当然だろう。


 事件が起きたのは金曜日。


 トウガラシスプレーを股間に噴射され、雑巾絞りをされた蛙のような悲鳴をあげる伊藤を横目に、


「後は俺がなんとかするから。今日のところは心配しないでお帰り」


「で、ですけど……」


「俺はさ、美しい百合は愛でる主義なんだ。大丈夫、必ず君の幸せは守るよ」


 キメ顔でそう言って、彼女の退室を促した。


 それから音沙汰のない週末を迎えたのだ。ロッカーから飛び出してきたクラスメイトに「君の幸せを守るよ」と言われても、「ありがとう守純さん。これでなんの心配もないわ」となるわけがない。助けられたのはわかったとしても、落ち着かない週末を過ごしたに違いない。


 そんな真白と目があった。


「あ」


 不安と焦燥を溜め込んだ瞳。そこからこぼれ出した小さな安堵の音が、窓際から聞こえたような気がした。


 俺の席は窓際の一番後ろ。いわゆるラブコメの主人公席だ。その前に座る真白は、まさにメインヒロインに相応しい。


 理由を付けずともこの足は彼女のもとへ向かっているのに、


「お、おはようございます、守純さん!」


 その時間すらも待てなかったのか。真白は席を立ち上がると、たった三歩の距離を詰めてきた。


 教室中が騒然とした。あの真白百合が待ち人きたりと行動を移したのだ。しかもよりにもよってあの守純愛彦なんかに。信じられない、ありえない。そんなことはあってはならないと、そんな悲鳴が上がったのだ。


 被害妄想なんかではない。


「なんであんな男に……」


「真白さん、守純なんかにどうして……」


「もしかして弱みでも握られたの?」


 という心無い女子の声がひそひそと聞こえてくるのだ。


 一方男子からは、


「守純さんに相談か?」


「え、嘘だろう? 守純さんに相談する真白さんとか、俺嫌だよ」


「だよなー。守純さんに相談って……そういうことだもんな」


「いや、でも……そんな相談する真白さんとか、それはそれで興奮しないか?」


 厚い信頼を寄せられ、俺の悪意を疑うものはいなかった。代わりに高嶺の白百合の尊厳が下落せんとしていた。


 まさに注目の的である。


 真白は自分の問題で精一杯で、周りは見えていないようだ。俺もただの十六歳だったら、きっと針のむしろで居たたまれなくなっただろう。


「やあ、おはよう真白さん。今日もいい天気だね」


 だが俺の心は三十八歳。子どもたちの目なんて気にせず、笑顔で大人の対応をした。


「は、はい。本日は、お日柄もよく」


「はっはっは。お日柄って、まるでお見合い前の挨拶みたいだ」


「え、と……晴れて、よかったです」


「空が綺麗だと、心まで晴れ渡るようだ」


「そ、そうですね。綺麗だと、晴れます」


「まあなによりも一番綺麗なのは、真白さん、君だけれどね」


「へっ?! あの、その……ありがとう、ございます」


 ペコリとする真白。こうして頭を下げる姿は、まさに百合の花だ。


 挨拶とは会話のキッカケ、始まりの潤滑油である。


 散々焦れた週末を過ごしたのだ。早く本題に入りたいのはわかるけど、いつまでも固くなっていては彼女も持たないだろう。ずっと緊張してきた心を解きほぐす、まさに大人のリードである。


「うわ、なにあれ」


「キモ……」


「真白さん、可哀想……」


「絶対守純に弱みを握られてるよ……」


 なお、女子たちの声は聞こえなかったものとする


 手をすり合わせるようにモジモジしている真白。推しの片割れだけあって、写真を撮って飾りたいほどに可愛かった。


 まあ、綺麗と言われて照れているわけではなく、たんにどう話を切り出していいか迷っているだけだ。彼女の心の安寧のためにも、早く本題に入ってあげたいところだが……時計を見ると、ホームルームが始まる時間に差し迫っていた。


 時間もない。ホームルームが終わったら、一時間目が始まる前に軽く話そうか。


 そう伝えようとすると、


「守純さん! 守純さんは来てるか!?」


 まるで命の危機に瀕した叫びが、教室に飛び込んできた。


 注目は俺たちから引き剥がされ、その男に集中した。


 クラスカーストのトップのイケメン男子、長城。全力で廊下を走り抜いてきたのか、ぜえぜえと息を切らしながら膝に手をついていた。


 そのまま教室中を見回し、俺の顔を確認すると駆け寄ってきた。


「助けてください、守純さん!」


 長城は縋るように俺の両肩に手を置くと、力なくその場でうなだれた。


「俺、どうしたらいいか……」


「お、おい長城。ちょっと――」


「そんなつもりじゃなかったのに……」


 チャイムが鳴るも、まるでそれが聞こえていないように長城は続ける。


「なんでこんなことになったのか、俺、わからなくて」


「いいか、一回――」


「ここに来る途中に……三十二万用意しろって言われてさ。いきなりそんな金、用意できねーし」


「わかったから、まずは――」


「こんなこと、親に相談もできない……」


 完全に取り乱している長城。こちらの声が届いていない。


 余程のことが起きたのだろうと真白もたじろいでいる。先に話していた身を、一歩引いていた。 


「守純さんしか、もう頼れる人がいないんだ……」


 チャイムが鳴り終えると同時に、担任のみつき先生がやってきた。


「はーい、みんな席についてー」


「助けてください、守純さん……!」


「長城!」


 長城の胸ぐらを掴んでビンタをした。


 いきなり訪れた衝撃を理解できず、長城はその場で頽れた。なにが起きたか理解できない顔で、長城はゆっくりと頬に手を置き、ようやく自分のされたことに気づいた。


「ちょ、ちょっと守純くん!」


 目の前で起きた修羅場に、みつき先生は慌てて叫んだ。目の前で起きた暴力に怒るよりも先に、取り乱している。


 そんな駆け寄ってこようとするみつき先生を、片手で制した。


「落ち着いたか、長城」


「……はい」


 差し伸べた手を掴んだ長城。ゆっくりと立ち上がった。


「先生、ちょっとこいつ、俺に相談あるらしくて。ホームルーム、抜けさせてもらっていいですか?」


「相談……?」


 喧嘩ではないとわかってホッとしたのか。落ち着きを取り戻したみつき先生。長城の尋常ならざる空気を察したのか、優しく声かけた。


「長城くん。それは、先生にもできない相談?」


 痛々しい表情で長城は無言で頷いた。


「そう、わかった」


 みつき先生は俺に顔を移した。


「守純くん。長城くんのこと、お願いできる?」


「はい。なに、心配しないでください。一時間目が始まる前には、いつもの長城に戻りますよ」


「ふふっ。やっぱり守純くんは頼もしいわね」


 みつき先生はなんの憂いもない顔で言った。


「さ、みんな席につきなさい。ホームルームを始めるわよ」


 そんな明るい声を背中で聞き、力なき長城の肩を押しながら屋上へと向かった。


「それで、なにがあった?」


 屋上から一歩入ったところで、動けずにいる長城に問いかける。


 もう辺りを気にしなくていい。それがわかったのか、長城は少し力を取り戻した声で言った。


「通学中に、変なメールが来たんです」


「変なメール?」


「……そんなつもりはなかったんだ。ただ、間違ったんだ……」


 言い訳するように呟く長城。


 それだけで長城に起きた問題の予想はついた。


 なにせその言い訳は、自分にではなく俺へ向けているのだ。こんなことになっても、最低限のメンツを気にしている証拠だ。


 ため息しか出てこなかった。


 大体事情は察した。こんなくだらないことのために、真白は抱える問題を後回しさせられることになったとは。ただただ真白が不憫でならなかった。


「守純さん、これ……」


 差し出されたのは携帯電話。冬に発売されたばかりの最新型で、液晶サイズは2.4インチ。メインカメラ画素数はなんと300万越えなんだぜ、と長城は買った当時、周りに自慢していた。


「最新機種でこれか。ほんとガラケーって玩具みたいだな」


「へ?」


「なんでもない、独り言だ」


 リンゴ印の最新機種を使っていた身として、色々と思うことがある。が、ないものを求めては仕方ないと目をつむるしかない。


 そのまま渡されたのだから、開けばそこに長城の問題が映し出されるということだろう。


「どれどれ」


 答え合わせのために確認すると、


【登録完了。


 ご入会ありがとうございました。お客様情報の登録が無事完了しました。


 ご利用料金が発生しておりますので、期限以内にお支払いをしてください。


 ¥320,000】


 案の定の文字が羅列されていた。


「やっぱりか……」


 長城はアダルトサイトのワンクリ詐欺に引っかかったのである。

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