03 かくして百合の間に男が挟まり脳破壊された俺はタイムリープするのであった。
七つの大罪とはなにか?
これを見ている者の中に、知らないと答える者はほぼいないだろう。
七つの大罪とは、粉塵爆発やシュレディンガーの猫、ファラリスの雄牛など、界隈の好事家が当然のように知っている三大知識。その筆頭である。
好事家たちに七つの大罪について問うのは、まさに太陽を指差し「あれはなにか知っているか?」と言っているようなもの。失礼な真似をしているのは、重々承知である。それでも七つの大罪とはなにか、と続けさせてもらいたい。
七つの大罪とは、人間を罪に導く欲望、感情を七つに分類したものである。
その七つとは、傲慢、強欲、嫉妬、憤怒、暴食、怠惰、百合の間に挟まる。
好事家諸君たちにとって、もはや面白みのない単語の羅列。西から登った太陽が東へ沈んでいくような、間違う余地のない退屈なまでの常識だろう。
だからもうひとつ、奥へ踏み込んで聞こう。
大罪とはなにか?
国の法律などに照らし合わせた罪についてではない。
カトリック教会が伝統的に区分している罪ついてだ。
これに答えられるのは一握りの好事家か、敬虔なる信徒か、ウィキペディアを読み漁ってきた暇人くらいだろう。
大罪とは罪の区分のひとつである。
重要な事柄について、それを望み、意図的に行われた。その三つの条件が揃ったとき、罪は大罪と呼ばれるものとなるのだ。
ではその重要な事柄とはなにか。
それは神の御心に反する行い。神の戒めである。
マルコによる福音書の十章には、正しい人の言葉がこのように残されている。
『戒めはあなたの知るとおりである。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、百合の間に挟まるな』
この戒めについて、あのことかとピンとくるものもいるだろう。
モーセの十戒である。
人が神よりに与えられた十の戒律。その十戒の内容は人が考え出したものではなく、人が記したものではない。神自ら石版に、その意思を記したものとされる。
つまり百合の間に男が挟まることは、神の御心に反する行いなのだ。
他にも大罪は、ラテン語での元の意味をたどれば『死に至る罪』。神の恵みの状態を失い、地獄という永遠の死を招くという意味もある。
つまり百合の間に男が挟まることは、神の恵みを失い地獄を招くことに繋がる。逆説的に、百合こそが我ら人間にもたらされた、神の恵みなのである。
神の恵みを失えば、人は生きられない。
百合の間に男が挟まることで失う命があることを、俺は身に沁みて知っている。だから百合の間に男が挟まることだけは許せなかった。
百合の間に男が挟まって死ぬなんて悲劇は、後にも先にも俺だけで十分だ。
そう、守純愛彦は百合の間に男が挟まったことが原因で、命を落としてしまった過去がある。
かつての俺は、社会の歪みが生んだ弱者男性であった。
物心つく前に警察官の父親は殉職し、小学五年生のときに母親を事故で亡くした。引き取ってくれた親戚にはよくしてもらえていたと思う。それでもずっと居心地の悪さを感じており、高校卒業後就職し家を飛び出した。ブラック企業でこき使われること一年、ついに限界が来て退職。十年ほどアルバイトを転々として、三十手前で警備会社に就職した。
それまでの人生で、素晴らしい出会いはゼロ。女と手を繋ぐ機会にすら恵まれず、年を重ねるごとに童貞をこじらせ、性癖だけが歪んでいった。ついには結婚どころか女性と付き合うことすらも諦めていた。
金なし髪なし若さなし。溜まっているのはぽっこりお腹の脂肪くらい。最初は生きがいであったオタク趣味も、いつしか素直に楽しめなくなっていた。
自分に優しくしてくれるクラスの女の子に惚れても、結局イケメンに取られてしまう。本来感情移入すべき男主人公が、そんな強者男性にしか見えないのだ。どれだけヒロインに惚れ込んでも、主人公の幸せに惨めさを覚えてしまうようになっていた。
いつの間にか美少女が主人公以外の作品は、受け付けない身体になっていた。それすらも惰性となっている自分にもどかしさすら感じていた。
仕事にあるのはやりがいではなくストレスだけ。そのストレスを発散しようとスマ○ラでネット対戦に励もうと、一度でもボロ負けしたら感情を押さえきれずに爆発する。投げ続けたコントローラーを、年に二回のペースで買い替える生活だった。
なにもかもが虚しい現実から逃げるため、ストロングなロング缶を毎日三本接種するようになっていた。九パーセントでも誤魔化しきれない現実はあまりにも辛くて、そして苦しかった。
そして気づいたのだ。自分に必要なのは人の温かみだと。
俺には家族も友達も恋人もいない。かといって、飲みに行く同僚もいなければ、仮初を求めてキャバクラや風俗に手を出す勇気もなかった。
そんな俺が人の温かみを求めてなにに縋ったか。
Vチューバーである。
おすすめで出てきたVチューバーの切り抜き動画。軽い気持ちでクリックしたのが始まりだった。ソシャゲの周回のお供にながら見をしていたのだが、気づけば手が止まっていた。
見た目は二次元美少女なのに、そこには
魔法使いとなった俺は、ついに楽園を見つけたのだ。
時期もよかった。Vにハマり始めたときにデビューした娘がいたのだが、すぐに心は彼女に撃ち抜かれた。
彼女の名は、ヒィコ・ナーヴェ。ある日、トラックに轢かれたヒィコだったが、目が覚めると異世界転生していた。しかもその世界は、なによりも自分が愛したゲーム、
以上がヒィコというVチューバーの背景。ようはドはまりしたエロゲの世界に異世界転生したTS娘という設定である。
そんなヒィコになぜ俺が惹かれたのか。それは一緒にデビューしたもうひとりのVチューバーにあった。
ユリア・シュトレーメル。とある王国の人形姫と呼ばれる公爵令嬢。身勝手な王子から婚約破棄をされ、人質交換のように隣国の学園に交換留学生という形で送られ、闇落ちしてメインヒロインのライバルとなる。クラトワ屈指の人気キャラで、ヒィコの愛してやまない嫁キャラだ。
クラトワの世界に異世界転生したヒィコは、ユリアが闇落ちする原因となった最初の悲劇、婚約破棄騒動をひっくり返す。そして自分を魂の嫁と呼ぶヒィコに、ユリアは戸惑いながらも徐々に心を開いていくのだ。
という設定である。ようは異世界転生あるあるTS百合ものの世界観を、二人は共有しているのだ。
そう、彼女たちは百合営業前提のVチューバーなのだ。
ヒィコはTS設定だから男なんか眼中にない。コラボで男なんていらない。可愛い女の子だけいればいい。むしろユリアたん以外なにもいらない。そうやって百合キャラを全面に押し出していた。
だからなんの憂いもなく、俺はヒィコを推していた。寝ても覚めても頭はヒィコのことでいっぱいだった。帰れば彼女の配信が待っていると思うだけで、その日の仕事は頑張れた。日々に張り合いというものが生まれたのだ。
気づけば俺はヒィたんにガチ恋していた。
三十年必死に生きてきた結果がこれなのか? そう叫び出したいほどの灰色に満ちた世界に、ヒィたんが色をもたらしてくれたのだ。そんなヒィたんへの感謝はもちろん、いつだって
ヒィたんに一生ついていこう。
そう改めて心に誓った三十三歳の誕生日。悲劇が起きた。
残業で時間は押したが、今日のライブ配信には間に合う。いつもより軽い足取りで帰路につき電車を待っていた。
「せっかくの誕生日だしな。今日の感謝は特別な赤色で告げよう」
システムの上限。いつもの五倍の赤色で、ヒィたんに生きていてくれてありがとうと告げるつもりだった。
「ヒィたん、喜んでくれるかな」
ニヤつきそうになる口端を堪えながら、スマホに目を落としていた。
ヒィたんのASMRを聞きながら、
第六感だった。ヒィたんのことでなにかよくないことが起きたのだ。
見たくない。けど見なかったことにはできず、震える手でトレンドをタップした。
『人気Vチューバー、人気ゲーム配信者とのお家デートを誤配信』
悪夢のような記事が目に入った。
「嘘、だろ……」
放送機材を入れ替えたヒィたんが、昼間にテスト配信をしていたらしい。終了後放送を切り忘れたようで、ヒィたん早く気付いてとファンたちがヒヤヒヤしていると、その人気ゲーム配信者の男性はチャイムと共にやってきた。
相手は俺でも知っている登録者数百万超えの大物だ。一年、二年の付き合いではない。そのくらい親しげな二人の声が、配信に流れ続けていたのだ。
ヒィたんの家に男が上がった。それだけでも三日三晩寝込むレベルなのに、その現場にはユリアまで現れたようだ。
三人はとても仲睦まじい様子で、この会合は昨日今日に始まったものではない。気心知れた会話は、長年の積み重ねを感じたとのこと。
「ヒィ……たん、やだ」
受け入れがたい残酷な現実に、これ以上記事を読み進めることはできなかった。
吐き気がした。
めまいがした。
世界がぐわんぐわんと揺れている。
わかっていたのだ。Vチューバーとはいえ、アバターの向こう側にいるのは現実を営む人間であることを。放送で男と絡まないからとはいえ、その外ではいくらでも繋がることができる。
彼女たちだって人間だ。普通に生きていれば好きな人ができるだろうし、恋だってするだろう。恋人がいたっておかしくないし、ゆくゆくは結婚だってしたいはずだ。
それが俺たちには叶わない普通だからこそ、そんな現実を歩んでいるヒィたんだけは見たくなかった。
愛する人と共になることを諦めたのだから、せめて恋した人には夢を見させ続けてほしかった。あれだけ百合営業をしておいて、そこに男が挟まるなんて……考えうる限り残酷な仕打ちではないか。
色づいていた世界が、急速に灰色に染め上げられていく。
「うっ……頭がッ!」
万力に挟まれたかのような激しい頭痛に襲われた。あまりの痛みに立っていられず、その場で膝をついた。
頭に住んでいる小人が怒りを周囲に当たり散らかしているみたい。その小人にスマ○ラで発狂している俺の姿を幻視した。
頭が壊れそうなほどの痛みは激しくなるばかり。
これ以上の痛みはないのではないか。そこまで振り切った先で、ふと痛みが遠のいていくのを感じた。
「ヒィ、たん……」
意識もそのまま遠のいていく。
ああ、自分はこのまま死ぬんだという確信があった。
意識が落ちたら最後、二度と覚めることはない。でもそのほうがいいかもしれないという諦念もあった。
この世界にいいことなんてなにひとつない。
それでも、やはり思うことはあった。
――三十三年間、必死に生きてきた結果がこれなのか?
どうか神様。
こんな自分を哀れんでくれるのであれば、異世界転生させてください。そしてチート能力を授けてください。そしたらその力で、無辜たる奴隷に救いの手を差し伸べることを誓います。彼女たちと一緒の食卓につき、同じ食事を振る舞った先で、愛を育み幸せにすることをお約束します。
だから、神様……と最後の最後まで現実逃避をしながら、守純愛彦の三十三年の幕は閉じた。
そして次、目を覚ましたとき、俺は小さな子供になっていた。
ただし、広がっていた光景は異世界なんかではない。
過ぎ去りし過去。
百合の間に男が挟まり脳破壊された俺は、小学五年生にタイムリープしていたのだ。
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