02 純愛警察

「なん、で……」


 変わらぬ明日が訪れる。そう疑うことすらしなかった世界に激震が走った。


 揺れる視界にふらつきながら、崩れ落ちそうな足元をなんとか踏みしめる。


 自分は立っていることがやっとだというのに、目の前の男は平然としていた。


 そう、世界は揺れてなんていない。揺さぶられた心が身体を震わしているのだ。


 放課後、呼び出された生徒指導室で見せられた携帯電話。そこに映し出されている幸福の一幕が、今ある幸福をひっくり返してしまったのだ。


「真白、残念だよ」


 心にも思ってもいない声に、百合は現実に引き戻された。


 愛するものと唇を交わした写真。それをなかったことにできないかと、百合は携帯電話へと手を伸ばす。


「おっと」


 すんでのところで、携帯電話は持ち主の胸ポケットへとしまわれた。


 相手は長テーブルを挟んだ向こう側。携帯電話を奪おうと飛びかかることは難しい。そもそも百合の中では、そんな選択肢など浮かんでいない。


 なにせ相手はクラスの副担任の伊藤。自分より二十センチも高い男性教師である。力の差は歴然だった。


「あの優等生のおまえが、校内でふしだらな真似をしているとは。先生、悲しいぞ」


 伊藤の顔に浮かんでいるのは、口にした言葉とは真逆の感情。今にも吊り上がりそうな口角を、必死に抑え込んでいた。


 無力さに打ちひしがれるようにして、百合は顔を下に背けた。


「申し訳ありません……」


「謝って済む問題じゃないだろう。よりにもよって神聖な学び舎で不純異性交遊を……いいや、そっちのほうがまだマシだったな」


 嘲るような声音をかけられ、百合の顔はカッと熱くなった。


 自分たちの愛が世間から認められないことくらいはわかっていた。でも『不純異性交遊のほうがマシだった』と言われたことが悔しかった。そう口にすることがなにより百合を辱められる、そう思われたことが悔しかった。


「立場上、こういうことは上に報告しなければならないんだが……」


「お願いします……もう、しませんから」


 なによりもそれを言い返せず、


「なんでもしますから……それだけは、許してください」


 下から請うことすらできない自分が悔しかった。


 伊藤の顔にはその言葉を待っていたと書かれていた。


「今、なんでもって言ったな?」


「はい……なんでも、します」


「なら、それが本当か試させてもらおうか」


 言うなり伊藤はベルトを外し、重力に任せてスラックスを下ろした。


 初めて目にする下着を晒した男の姿。百合の顔は赤らむどころか真っ青になった。覚えたのは恥じらいではなく怖気である。これから求められるおぞましい行為が、百合にはわかってしまったのだ。


「ほら、こっちに来なさい」


 形だけの優しい声で伊藤は呼んだ。


 これはお願いではなく命令である。そこに拒否権なんてものはなく、従う道しか残されていない。


 それでも百合の身体は一歩も動かない。その場で身体を震えることしかできずにいた。


「いいか、真白」


 焦れた伊藤は、そんな百合を動かす呪文を唱えた。


「先生はな、上透でもいいんだぞ?」


「……っ! それだけは止めて!」


 テーブル越しに迫りながら、百合は叫んだ。


「里梨にだけは……手を出さないで」


「なら、わかっているな」


「はい……」


「うんうん。物わかりのいい生徒は、先生大好きだぞ」


 ニタニタとする伊藤から百合は顔を逸らした。


 もう逃げられないと諦め、この身可愛さを捨て一歩踏み出したのは、愛する人の笑顔のため。あの眩しくて温かい笑顔が曇るくらいなら、この身体が汚れるほうはずっとマシだ。


 自分さえ我慢すれば、それだけで里梨の変わらぬ明日えがおが守られる。


 ここで起きるすべてを胸の内に秘めてさえいれば、明日も変わらぬ日常がやってくる。


 ……いや、これが一回きりで終わるわけがない。これから何度だって繰り返し求められることだろう。


 積み重ねていくうちに、胸に秘めたものが澱みのように溜まっていく。その澱みが感情を蝕み、いつしか表に現れる日が来るだろう。


 無理に笑っていると里梨に感づかれたときが最後。もう隠し通すことなんてできないだろう。


 このことを知ったとき、里梨はどんな顔をするだろうか。


 ――ずっと笑っていてほしかっただけなのに……嫌だな。


 もう綺麗な未来がこの先に残されていないことが、ただただ虚しくて。


 里梨がもたらしてくれた世界の彩りが失われていく。


 ああ、幸せが壊れる音が――




 ガン、と。突如響いた金属音によってかき消された。


 百合だけではなく伊藤も混乱したように、音の方角に振り向いた。


 それは指導室の奥。ロッカーが開け放たれており、そこから飛び出してきたであろう何者かが既に伊藤との距離を詰めていた。


「ぐぎゃああぁ!」


 悲鳴が上がると共に、百合の前から伊藤の姿が消えた。代わりにそこへ佇んでいるのは、百合ヶ峰の男子生徒がひとり。百合はその顔に覚えがあった。


 守純愛彦。後ろの席のクラスメイトだった。


 なぜ彼がここに? 百合は戸惑いながらも、愛彦がやったことだけはわかった。


 ロッカーから飛び出すなり、手にしたそのスプレー缶を伊藤に吹きかけたのだ。それを受けた伊藤は苦しみ暴れ、下ろしたズボンが足かせとなり倒れ込んだ。


 もがき苦しみながら顔を抑える伊藤は、なんとか声を絞り出す。


「だ、誰だ……!?」


「純愛警察だ」


「じゅ、じゅん……?」


「伊藤。貴様を脳破壊防止法違反及び、寝取られ取締法違反で拘束する」


 その場にしゃがみ込んだ愛彦は、伊藤の髪を掴み上げた。


「覚えておけクソ野郎。可哀想なのが抜けるのはな、二次元とAVだけなんだよ」


 愛彦は髪から手を離すと、伊藤は床に頭を打ち付けた。その痛みに苦しむ声を無視した愛彦は、伊藤の下着を上に摘んだ。


 スプレー缶の吹き出し口が下着内に向けられ、


「百合の間に挟まるな!」


 全開に放出されたのであった。

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