39 自我を持つな

「そ、そういえばハルやん。夢、叶えたんだろ? どうだった?」


 これ以上守純の教えに関わりたくないので、ハルやん個人の話に逸らした。


 するとハルやんは、胸の底から込み上がってくる感情を、グッと堪えながらも頬が緩んでしまったようだ。


「……最高でした。ただただ、夢のようなひとときでした」


「そうか、よかったな。ハルやん」


 どうやら無事、お宅訪問企画であかりんと交わったようだ。そのことについては、素直に祝福してあげたかった。


「推し続けてきたかいがあったな。二度目はさすがに選ばれないだろうから、その思い出をずっと大切にして、これからも推し続けていくといいさ」


「そ、それなんですが、神……その後、信じられない奇跡が起きたんです」


「なにが起きた」


 起きた奇跡が未だに信じられないというように震えるハルやん。気になりすぎてそれを聞かずに解散することはできなかった。


 あかりんと交わる以上の奇跡とは、一体なんなのか。


「あかりん、俺のこと覚えていてくれたようで」


 覚えていてくれたというのはきっと、握手会に行ったときのことだろう。


「これからもずっとずっとファンだって伝えたら……あかりんが、連絡先を交換してくれたんです」


「マジか!?」


 たった一度交わるという奇跡の先に、そんな奇跡が起こったとは。こんなカルトサークルを立ち上げ百人も集めたことといい、ハルやんはどれだけの潜在能力を秘めてるんだ。


「それで明日の夜……あかりんと、食事に行くことになりました」


「たった一度で終わるはずだった奇跡の先に、次へ繋がる奇跡を掴んだのか。すげーじゃねーか。それもこれも、ハルやんが一筋に推し続けた結果だ。胸を張って行って来い」


「ありがとうございます、神ッ!」


 ハルやんの胸をポンと叩くと、感無量とばかりに顔をクシャッとさせた。


 これでめでたしめでたしで終わったらよかったが、


「……これって期待して、いいんですよね?」


「ハルやん!」


 それだけは聞き捨てならず、つい叫んでしまった。


 俺の剣幕に狼狽えるハルやんにこう言った。


「期待だけは絶対するな」


「神……それはなぜですか?」


 たとえ神の言葉でも、ハルやんはすんなり受け入れず。ただただ疑問を呈した。


 かつての俺の過ち。推し方を間違えたゆえに起きた不幸。このままハルやんを送り出せば、同じ過ちが繰り返されるかもしれない。折角推しとの食事までかこつけたハルやんを、このまま見捨てるわけにはいかなかった。


「いいか。もし勝手な期待をして、食事の後になにもなかったら……ハルやんはがっかりするだろ?」


「それは……たしかに」


「けど期待さえしなければ、食事だけで終わったとしても、推しと夢のような時間を過ごせたで終われるんだ。あー、楽しかった、って幸せな気持ちでな」


 言っていることはわかる、という表情こそしているハルやんだが、期待をすることがそこまで悪いことなのかと納得がいかない様子だ。


 ハルやんもまだまだ若いから、それは仕方のないこと。やはり大人として、ハルやんが不幸にならないためにも導いてやらねば。


「ハルやん、君は今、一人暮しか?」


「ええ。大学進学を機に」


「そっか。だったら飯の用意とか大変だろう」


「最初は張り切ってはいたんですが、用意から片付けまで毎日するのは大変で……恥ずかしい話、すぐに弁当や外食に逃げてしまいました」


「そうか。なら、実家に帰ったときに出てくる飯はどうだ?」


「親の偉大さを実感しました。こんな美味いものが勝手に出てきて、片付けまでしてくれるなんて。俺は恵まれた環境で育ったんだなって、つい感謝を言葉にしました」


「そうだろうそうだろう。でもな、ハルやん。与えられるのが当たり前になって、感謝の気持ちを忘れると、人っていうのはどこまでも身勝手になるんだ。目玉焼きが半熟じゃないとか、味噌汁は豆腐がよかったとか、二日連続カレーかよとか。そうやって不満不平を覚えて食う飯のなにが美味い。そこに幸せは絶対に生まれない。感謝して食べる飯こそが、人を幸せな気持ちにさせるんだ」


 ハルやんは大きく頷いた。


「推しへの勝手な期待も、それと同じだ。それが叶わず不満不平を募らせば、いつしか憎しみすら覚えてしまう。あかりんにそんな感情を覚えるのは嫌だろ?」


「絶対に嫌だ……! あかりんを憎む自分になんて、俺はなりたくない!」


「だったらあかりんに勝手な期待はするな。あかりんから与えられる恵みに、感謝の心を忘れるな。そうしたらあかりんとの時間は、すべて幸せなものになる」


 俺はハルやんの目をまっすぐと見据えた。


「感謝の先にこそ幸せは生まれる。これは俺の人生経験から得た、座右の銘だ」


 かつて推し活していた俺は、赤色で感謝を告げたとき、ヒィたんに読み上げてもらえず落ち込んだことが多々あった。ヒィたんだって人間だ。あれだけ沢山の赤スパを飛ばされたら、少しくらい見落としても仕方ないのこと。ヒィたんだって好きで見落としたわけではないのだ。


 そんなただのヒューマンエラーを、俺の感謝だけを読み上げてくれなかった。それ以上の想像を働かせなかったのは、赤スパは読み上げてもらって当たり前。そんな勝手な期待をかけていたからだ。


 勝手な期待をして、それを当たり前だと思い込む。その愚かさこそが、負の感情を招き寄せてしまう。


 たとえばヒィたんの年越し配信が行われなかったときのことだ。その日に配信をやるって明言していなかったのに、最近の発言から勝手に配信するものだと信じ込んでいた俺たちヒィたん(ヒィたんファンの名称)は、各々の年越しの食事を用意して、ずっと画面の前で待機していたのだ。あるものは鍋、あるものはおせち、そしてあるものは寿司。そして俺は蕎麦を用意していた。


 年越しカウントダウンが近づいても、それでも配信があると信じて、茹でた蕎麦に手を着けずに待っていた。結局、配信はなく新たな年を迎えた俺は、掲示板のヒィたんのスレッドに一言こう書き込んだ。


『お蕎麦伸びちゃった』


 なにがお蕎麦伸びちゃっただ。伸びたならまた作り直せばいいだろと、あのときの自分を叱咤したい。


 そもそも俺が食べたかったのは、美味しいお蕎麦なんかではない。ヒィたんと一緒にお蕎麦を食べたかっただけである。特別な人と過ごす時間こそが、お蕎麦をいつもと違う特別なものにしてくれる。そんなお蕎麦なんて、次の放送でいくらでも食べられるではないか。


 年越し放送をやらなかった理由も、ヒィたんは年始にちゃんと配信で語ってくれた。そこに文句をつける余地はなかったし、なるほどと納得できる理由はあった。そもそも年越し配信があるなんて、俺たちの勘違いでしかなかったのだ。


 それをやらないなら、告知してくれなんて甘えでしかない。してもらって当たり前なんていうのは、ヒィたんへの感謝が足りない証だ。勘違いで配信がなかった不安はあったとしても、ヒィたんに何事もなくてよかったね。それだけで終わらせるべきだったのだ。それを勝手に引きずったって、一番辛いのは自分である。


 推しは家族や友達、ましてや恋人なんかではない。心を豊かにしてくれる憧れアイドル。恵みをもたらしてくれる現人神といっても過言ではない。


 神から恵みを与えられて当たり前、なんて思い込むのは人間の傲慢である。七つの大罪に挙げられるほどの罪である。もたらしてくれる神の恵みを、ありがたく頂戴しますという心がけこそが、人間の正しいあるべき姿だ。


 推しへの勝手な期待は不幸しか生まない。だから推し活に自我なんてものは不要だ。与えられる恵みに黙って感謝さえしてればいい。そうしたらいつまでも幸せにいられるのだから。


「だからハルやん。幸せになりたいのなら――」


 俺はハルやんの両肩を強く掴んだ。


「自我を持つな」


 あかりんの前ではそれだけは持ってはいけないと戒めた。


「神……俺、危うく道を間違えるところでした」


 目が覚めたようにハルやんは、目端に雫を滲ませた。


「ここぞというときに、今必要なお言葉を授けてくださる。やはり守純さんは、俺にとって偉大なる神です」


 ハルやんが感動の涙を拭っていると、後ろがなにやら騒がしくなった。


「凄い……かつて会長は、こうして神託を賜ったのか」


「神がお言葉を授けてくださる瞬間に立ち会えるなんて感動だ!」


「神。そのお言葉は一字一句違わず、ここに刻ませて頂きました」


「我らが守純の教えに、新たな教義が生まれた……!」


 狂信者たちは感動に打ち震え、中には涙すら流しているものもいた。文字通り今言った言葉を刻んだと、そのノートを見せつけてくる。


 こいつら……俺が発した言葉をなんでもかんでも、神託だと無心に受け入れやがって。こいつらには自分で考える頭、自我ってものがないのか。


 そんな狂信者たちの姿を見て、周囲からますますヤバイ奴を見る目が送られてくる。まるで人を洗脳している瞬間を、目撃してしまったかのように恐れられた。ナイフを向けられたときだって、ここまで人は離れていかなかったのに。


「愛彦くん、すごい人気者ですね」


「な、なんか……うん、凄いね、マナヒー」


 ぽわぽわと素直に褒めてくる百合とは対照的に、里梨は引きつった顔でドン引きしている。もう無事だと思って近寄ってきたら、もっとヤバイ現場を目撃したかのようだ。


「こちらの御方とは、前回お会いしましたが……」


 百合たちに気づいたハルやんは、ふたりに目を向けた。


「もしかしてもうお一方も神の?」


「ああ。彼女たちは俺が愛でている、ふたり揃ってひとつの美しい花だ」


「神ほどになると、ふたり一緒にお出かけができるんですね。羨ましい」


 ハルやんが社交辞令を述べる後ろで、「さすが神!」「ふたり同時なんて!」「やはり俺たちなんかとは次元が違う!」などと尊敬の念を向けてきた。


 いやいや、学園のアイドルと付き合ったり、妹の手術費用を宝くじで当てたり、生き別れの兄弟と再会したり、義理の妹と両思いだったり、そんな奇跡を掴んでるおまえらのほうがよっぽど凄いだろ。俺なんて、マジでただのお出かけだぞ。


 ハルやんは親指で後ろを指した。


「この不届き者は俺たちにお任せください。どうかおふたりと、楽しい時間をお過ごしください」


「ああ、助けてくれてありがとうなハルやん。マジで助かった」


「いえ、こちらこそ。新たな道を示してくださり、ありがとうございました。新たな神の教えを広めるため、俺、今まで以上に頑張ります」


「お、おう。頑張るのもほどほどにな」


 ハルやんに手を振って、狂信者たちから逃げるようにこの場を離れていった。


 厨二病のポエムもどきひとつで俺を神だと盲信する狂信者たち。そんなものは恐怖以外なにものでもない。このまま二度と関わり合いになりなくなかった。


 新たな教義が増えたこのカルトサークルが、夏には千人規模にまで膨れ上がる。自らを神と崇めさせるカルト宗教を立ち上げたヤバイ奴、という噂が学園に広まることになるとは、このときの俺は思いもしなかった。

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