36 コノカンジョウ……コレが……ヒトノココロ
里梨にガチ恋してからも幸せな日々が続いていた。推しとの関係に大きな変化はないけれど、大きな事件も起きていない。ずっとこんな日が続いていけばいいなと思える毎日だった。
二月に入って、中頃に差し掛かろうとした日。久しぶりに里梨を含めた三人で、ランチを楽しんでいた。こうして三人で食べるのは、里梨の誤解が解けて以来だ。何度も誘われてはいたのだが、ふたりの逢瀬を邪魔したくないと辞してきた。気にしなくてもいいと言われていたが、遠慮していたのだ。
おかず交換なんてしながら、推しとの楽しい時間を噛み締めていると、
「そういえばマナヒー、明日って暇だったりする?」
里梨が明日の予定を尋ねてきた。
明日といえば土曜日。
「明日か。一応、葉那の買い物に付き合う予定だけど」
基本葉那との予定がなければ、俺の休みは勉強に費やされる。百合ヶ峰一の優等生男子の座を守るためではない。それが以外やることがない、無趣味人間だからだ
なにせこの時代の流行りはすべて過去の産物。好みのマンガやアニメは既に見尽くしている。グラフィックが超綺麗と持て囃されるゲームだって、俺から見れば荒すぎるし、なによりロード時間長すぎてやる気が起きない。
外で遊ぼうにも、葉那以外誘ってくれる友達がいない。部活は決められた時間が奪われるのが嫌で入っておらず、高校生に戻ってまで働きたくないからバイトもしていなかった。
まさにタイムリープの弊害、後遺症とも言える無趣味人間になっていたのだ。
唯一向かい合って続けられるのが、勉強というだけだ。モチベーションの秘訣は、みつき先生の好感度である。
「そっかー。それは残念」
里梨が諦めたように言った。
「残念って、なにが?」
「明日、里梨とお出かけするんですけど、愛彦くんも一緒にどうかなって思ったんですけど……予定が入ってるなら仕方ないですね」
少し残念そうに百合は微笑んだ。
俺も一緒にどうかなって……それは、ふたりのデートに同行できるということか?
学校外での育まれるふたりの愛。そんな神の恵みを、俺に与えたいとふたりは願ってくれたのだ。
そんなの絶対に行きたいに決まってる。
「予定はたった今空いた。是非ふたりのお出かけに同行させてほしい」
「でも、廣場さんと約束してるんじゃ……」
「なに、あいつならわかってくれる」
心配そうに目を細める百合に、問題ないと自信満々に言った
「でも、やっぱり廣場さんに悪いし……」
「大丈夫だって。むしろ葉那は、よかったじゃないって自分ごとのように喜んでくれるから」
後ろめたそうに眉尻を下げる里梨に、確信を込めた目を向けた。
それだったら、ということで明日に推したちとのお出かけイベントが発生したのだ。
というわけだから、と葉那にメールを送ったら、案の定よかったじゃないと返ってきた。その代わりというように、だったら放課後に行きましょう、と予定が繰り上がったのだった。
今日は母ちゃんがママ友たちと出かけるから帰りが遅い。夕飯は自分たちでどうにかする予定だったからタイミングもよかった。
買い物に付き合うといっても、意見を求められたり、荷物持ちになるほど買い込むわけではない。むしろ終わった後が本命であった。
目的の店に足を踏み入れた葉那は、
「あー、いい匂い」
淑女たちが集まるお茶会会場へやってきたお姫様のような顔をした。ただし広がるのは、店舗独特の雰囲気からして辛い熱気であった。
ここは麻婆タンメンを売りにした、ラーメン店である。
葉那が迷いなく俺の分まで食券を買うと、店員にテーブル席へと案内された。
コートを脱いだ葉那は、早くも紙エプロンを着けている。今か今かと待ち遠しそうに、厨房に輝いた瞳を向けていた。
「ほんと、おまえはこの店が好きだよな」
「ここは私のオアシスだからね」
「出てくるものは、血の池地獄のようなものだがな」
頬杖をつきながら、うきうきしている葉那を眺める。
「まあ、この店を教えたかいはあったな」
「こんな美味しいものがこの世にあったなんて、とあのときは感動したわ。こんな店を知ってるヒコを尊敬したくらい」
「一時期の趣味は、ラーメンの食い歩きだったからな」
ラーメンはどんぶりひとつで完成する、芸術品といっても過言ではない。満足度の高さに対して、千円もかからないというバグった価格設定。なにより素晴らしいのは、ひとりで入っても寂しい奴とは思われないところだ。肩身の狭い独り身には最高の外食であった。
かつて食い歩いた知識を使って、中一の夏休みに葉那をここへ連れてきた。葉那は絶対ここが好きになると。案の定、こうしてハマっている。
「あー、一ヶ月ぶり。早く食べたい」
「そんなに好きなら、ひとりでちょくちょく来ればいいじゃねーか」
「こういう場所に、ひとりで来るのはさすがにねー」
「そんなの気にするタマかよ」
「ほら、私って美少女高校生だから。ひとりでこういう店に通ってるところは、学校の人たちに見られたくないの」
「なら、友達でも誘ったらどうだ」
「なおさら無理よ。おしゃれ女子としては、こういうところが好きなんだって思われたくないから」
「その割には、毎回写真撮ってるだろ。それを見せたら、結局そう思われるじゃないのか?」
「それは大丈夫。ヒコと一緒に行ったんだけど、って名目さえあれば、『こんなの食べたのー、すごーい』って話のタネになるから」
「俺がいないと好きな店にも入れないとか大変だな」
「そう、女子って大変なのよ」
その口の綻びを見ると、まったく大変そうには見えない。
「ひとりで大変なのはここだけじゃないわ。男避けがいないと、ナンパされて鬱陶しいんだから」
「なんだ、買い物の役には立ってたのか。なんの意見も言えないし、持つほどの荷物もないから、ずっとついて回ってるだけだと思ってた」
「それだけで下着売り場まで堂々とついて来るんだから、ヒコってばメンタル強すぎない?」
「こんな可愛い子と下着売り場に入る俺、というアピールチャンスだからな」
「誰にしてるのよ」
「こんな俺たちを見ている男共にだ。そういった奴らの目を見るとさ、俺の世界ランクが上がる音がするんだ」
「……その気持ち、わかるから困るわね」
「さっき『これ、可愛くない? 似合うかな』とか聞いてきたが、絶対こいつ、彼氏と下着を選んでいるアピールしてるだろって思ってた」
「正直、周りの視線が気持ちよくてしょうがないわ」
一緒に下着を選ぶほどの幸せラブラブオーラを出すことによって、喪の人たちの嫉妬を煽っていたのだろう。
「そのために『ヒコが好きそうだからこれにしよ』とか言って、三着も無駄に買いやがって。女の下着って、意外と高くてビックリしたわ」
「元々そのくらい買うつもりだったのよ。最近きつくなってきて測ったら、案の定ひとつ上がってたわ」
葉那はうんざりしたようにため息をついた。
一方俺は、葉那の胸に目を奪われていた。ひとつ上がっていたというのは、アルファベットを意味したのがわかったから。
「なーに、気になるの?」
そんな俺の視線に気づいたのか、葉那はニヤニヤと見てくる。
「めっちゃ気になるな。ひとつ上がったってことは、EからFになったってことだろ?」
「それは当たってるけど……こういうときのヒコ、ほんとデリカシーゼロね」
「なんだ、女扱いしてほしいのか?」
「ううん、そのままでいい」
葉那は嬉しそうにかぶりを振った。
「でも、私って魅力的な身体だから。ヒコの理性を揺さぶらないか心配だわ」
「たしかにその大きさに目を奪われたが、俺が思い馳せてるのはその服の下じゃない。真白の胸だ」
「……どういうこと?」
葉那は怪訝そうに眉をひそめた。
「俺はずっと、おまえと比べて百合の大きさがDだと思ってきた。だがそれがFだということは、ユリはEくらいになる。相対的に、里梨の大きさがDくらいだと判明したわけだ。まさに実りのある話だ」
「人の胸でそこまで話を膨らますとか……ここまでいくとさすがよね」
呆れたように葉那は息をついた。
「やはり、大きいものは素晴らしいな」
「こんなの大きくなったって、いいことなんてなにもないわよ。運動の邪魔だし、肩だってこるし」
「女子あるあるの三大反感買う台詞を、マジ顔ではく奴なんて初めて見たわ。ちょっと感動した」
「後のふたつはなんなのよ」
「私いくら食べても太らないから、と、私天然だから、だ」
「ソースは?」
「俺の脳内」
葉那はくだらないものを見るような目を向けてきた。
「おまえが本気で悩んでるのは知ってるが……さすがに、同じことを周りには言ってないよな」
「羨まれる度に言ってるわよ。そしたら毎回必ず揉みくちゃにされるわ」
「なぜそれがわかってて言ってしまうのか」
「考えてもみなさい。同じことを言うだけで、真白さんや上透さんに抱きつかれて、身体中を弄られる自分を」
言われるがまま想像してみた。そこはまさに楽園が広がっていた。
出てくる言葉はただひとつ。
「……葉那、おまえ天才かよ」
「まあね」
葉那は得意げな顔をした。
「そしてやられた後は必ずやり返してるわ。ちなみにこの前は、みんなでシャワーを浴びてるときにやったわ」
「セクハラをセクハラと思わせず、好みの女たちと戯れるとか。おまえはもう、天才なんて言葉で収まる器じゃない」
よく考えれば、葉那は昔から凄いやつだった。テスト前にちょっとしか勉強してないのに、必ず学年一桁第だ。今もそんなに勉強をしているわけでもないのに、テストの結果が掲示板に張り出されたときは、必ず葉那の名前が乗っている。
まさに葉那は天才だ。俺のような凡人とはまるで違う。存分にその才能を、自分の欲望を満たすために発揮していた。
「お待たせしましたー」
「あ、きたきた!」
そんな男同士ですらもできないバカ話をしていると、ラーメンが到着し葉那がはしゃいだ。
葉那の前に置かれたのは、麻婆豆腐が乗ったハーフサイズのタンメン。そして俺の前には血の池地獄のように真っ赤なスープのラーメンが差し出された。そんな俺たちの中間地点に、煮込み野菜と麻婆豆腐が乗った旨辛丼が遅れてやってきた。
湯気だけで目が痛くなりそうな一品。こんなもの絶対食えたものじゃない。そんなのは最初からわかっていた。これは俺が頼んだものではないのだ。
北極の名を関するこのラーメンは、辛いもの大好きな葉那が選んだのである。そしてハーフサイズは俺のもの。サイズだけで店員が誤解したのだ。
葉那は卓上に並んだ品をケータイで撮影すると、互いの丼を交換した。
「いただきまーす」
葉那は地獄の釜からそれを啜り上げ、満足そうに喉を鳴らした。
「あー、これよこれ。この味。ほんと美味しい」
まるでパフェを食べて喜んでいる女子高生のような顔だ。ただし食しているのは、俺が一口すするだけで全身の毛穴から汗が吹き出す、悪魔のような辛さの物体Xだ。血のような真っ赤な液体をすすって喜んでいるのは、悪魔に相応しい絵面である。
「はー……炭水化物と炭水化物。ほんとこの組み合わせって、背徳的に最高よね」
俺がハーフサイズのラーメンを啜っている前で、葉那は旨辛丼に口にしていた。旨辛丼を真っ赤なスープで流し込む様は、見ているだけで咳き込みそうになる。
「絶対その組み合わせを頼むよな」
「月に一回の楽しみだもの。両方食べたいじゃない」
「そんなに食ったら太るぞ」
「そのためのヒコじゃない。旨辛丼欲を満たしたら、後は片付けてくれるから助かるわ」
葉那が満足して、もういいと残した旨辛丼を食べるのが俺の役目。半分で満足することもあれば、四分の一も食べずによこしてくることもある。葉那の体調と気分によるものなので、食べてみるまでわからない。だから俺はハーフサイズのラーメンを食べているのだ。その代わり葉那の奢りだから、文句自体はないのである。
「この前家族で行った激辛中華もよかったけど、やっぱりこの味が一番よね。ジャンクすぎず、かといって上品でもないから気取らず食べれる。もし死ぬ前になにが食べたいって言われたら、私は絶対これね」
悪魔はその最後まで、血の池地獄をすすりたいようだ。
そして激辛中華で思い出した。
「家族揃って激辛を食いにいくとか、ほんと廣場家って辛党の一家だな」
「辛いもの巡りするサークルで出会ったふたりから生まれたのが、私たち兄弟だからね」
「そういやこの前、そのまま泊まって帰ってきたな」
葉那とは小学校が同じである。葉那は同じマンションに住んでいるが、実家自体は徒歩圏内だ。家族で食事に行ったとしても、家には寄らず必ずマンションに帰ってくる。
「その身体になってから、初めてなんじゃないか」
そう尋ねると、葉那は食べる手を止めた。真っ赤なスープに目を奪われたかのように、そのままジッとしていた。
「うん。なんかね、そういう気分だった」
「どうだった、久しぶりに自分の部屋で寝た気分は」
「寝るときに天井を見上げるとね、ああ……そういえばこんな部屋で育ったんだな、って。離れてからまだ三年も経ってないのに、遠い昔のように感じたわ」
「おじさんたちはどうだった?」
「ご飯を食べてるときは、あまり気にならなくなったんだけど。……家ではやっぱりね、色々と見えてくるところがあるわけ。以前と同じように振る舞おうとしてくれてるけど、やっぱり男ふたりはギクシャクしちゃってる」
「息子や兄が、こんなナイスバディになっちまったからな。今まで通りにはいかんだろ」
「うん。なにで私が傷つくかわからないから、身体のこと触れないよう意識してるの。それがあからさますぎるから、申し訳ないって思っちゃって……そこに以前になかった、溝を感じてさ。久しぶりの我が家は、なんだか居心地悪かったかな」
葉那はスープを口にして、レンゲを置いた。
「でもさ、居心地が悪いからって、その溝からいつまでも目を背けるわけにもいかない。ふたりの息子や兄にはもう戻れないけど、今の自分らしさでちゃんと溝を埋めたいの。だって私たちは、血の分けた家族なんだから」
そう言って葉那は笑った。どこかぎこちない、無理をして作られたものだ。
そんな葉那に、無理をするなと言おうとは思わなかった。きっとその無理は、葉那にとって前向きなものだから。なにかを求めるのなら、無理をしなければ得られないものは沢山ある。
葉那にとってそれが、家族との間にできた溝を埋めることだ。
家族で思い出した。
「そうだ、おばさんには改めて礼を言っといてくれたか?」
「菓子折りなんていらないのに、ヒコってば律儀ねって笑ってたわ」
おばさんには百合の件で、代理人として学園長に話をしてもらった。廣場家はいいところの家系であり、学園長とは遠縁だ。葉那の身体のことについて話を通しているくらいには親しい繋がりがあるらしい。
「母さん、なにかあったらいつでも頼ってくれって。ヒコのためならなんでもするって言ってるから、なにかあったら頼ってあげて」
「そのときはまた、甘えさせてもらう」
「……ヒコ」
「なんだ?」
「……母さんにね、やっと謝れた」
真っ赤なスープを覗き込んだまま、葉那は小さく口端を上げた。それは苦いものを口にしたようでありながら、喜ばしいものを目にしたような、曖昧な顔であった。
「そしたらさ、いきなり泣かれちゃって。母さんが泣いてるところなんて、初めて見て狼狽えちゃったわ」
「俺なんて何回も見てるぞ。なんなら先月、道端で会ったときも泣かれたくらいだ」
ちょっと世間話のつもりが、葉那の話になると必ず泣かれてしまう。
そんな母親の姿が意外だったのだろう。面食らったように葉那は驚いている。
「嘘でしょ……私がなにを言っても、泣いたことなんて一回もなかったのよ」
「そりゃ、サンドバックが殴られて泣いたら、おまえだって殴りづらいだろう。一番辛いのは葉那だから、少しでも気が晴れるならってさ」
やはりというか、当然というか、実はおまえは女なんだと告げられたときは、葉那はだいぶ荒れたらしい。取り返しの付かない、そして行き場のない怒りを、散々葉那はおばさんにぶつけてきた。
なんでこんな身体に産んだんだ、と。それこそ令和の時代だったら、親ガチャ大爆死みたいなことを言っていたのかもしれない。
どんな言葉をぶつけられても、おばさんは受け止め耐えてきた。葉那をこんな風に産んでしまった自分を責めながら、それでも葉那の前では泣くことはしなかったのだ。
だからこそ葉那が立ち直ったことに、ありがとう、と感謝される度に泣かれている。
そんな母親の一面を知らなかった葉那は、後ろめたそうに顔を歪めた。
「なんか今更、罪悪感が湧いてきたんだけど」
「罪悪感? 悪魔にもそんな感情が芽生えるなんだな」
「そうなのよ、これでも学園ではお姫様だから、私」
「コノカンジョウ……コレガ……ヒトノココロ」
とロボットの真似をすると、葉那は吹き出した。
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