33 私にとってのヒーロー
「それじゃあ、愛彦くん。また明日」
「ああ、また明日、百合」
そういって俺たちは手を振りあう。扉が閉まり、電車が走り出して百合が見えなくなるまで、俺はその場に留まり続けた。
百合とは降りる駅こそ違うが、同じ電車である。おはようから始まった百合との一日は、ここでさよならとなるのが日常になっていた。
今日も昨日と変わらぬ充実した……いいや、昨日よりもずっと実りのある一日だった。
里梨というもうひとりの推しが、俺の存在を受け入れてくれた。百合の純粋さに付け込んだ所業を許してくれただけではなく、そのくらい別に構わない。このくらいの役得はあってしかるべきだとまで言ってくれたのだ。あまりの器の大きさに、尊敬の念まで抱いてしまった。
百合を守ったご褒美のように、恋人繋ぎでにぎにぎまで下賜してくれて……思わずガチ恋してしまった。
赤色で示した感謝は受け取って貰えなかったけれど、本当に素晴らしい体験であった。
感動を反芻していると、右肩がポンと叩かれた。
「やっ、ヒコ」
「おお、葉那か」
肩越しに振り返ると葉那がいた。同じマンションに居を構えているから帰り道は同じ。こうして遭遇するのはなんもおかしいことではない。
「同じ電車だったのか。まったく気づかんかったわ」
「あれだけ真白さんに夢中だったらそうかもね」
「なんだ、そっちは気づいていたのか」
「帰りの電車を待ってたときからね。いい雰囲気だったから、遠慮してあげたのよ」
「空気を読んで偉いぞ」
「でしょう? 私、空気読める系女子で通ってるから」
「その空気を読みすぎた結果が、俺の地位が最低二股野郎に落ちた件について」
「ごめーんね」
悪魔はあざとく頭をコツンとして、テヘペロひとつでことを済ました。
まあいい。一度許すと決めたことを蒸し返し追求するのは、俺の美学に反する。
どうにもならない後ろ向きの話なんてしても、楽しいことなんてなにもない。溜まった不幸ゲージを取り返そうと励むより、幸福ゲージ上昇に取り組んだほうが人生有意義というものだ。
「さっきさ、ついに里梨と対面を果たしたんだ」
改札を抜けながら、放課後にあったことを話題に出した。
里梨はあの後、部活に戻っていった。だから百合と同じ駅であるにも関わらず、一緒に帰ることは叶わなかった。
「お、どうだった? 金曜日にあったこと耳に入るだろうから、ちょっと心配だったのよね」
「実際、その件がキッカケで呼び出された。おまえに期待させるだけ期待させて、ずっと友達扱いだなんて酷い。そんな酷い人に百合の側にいてほしくないってな」
「反省してまーす」
「だから俺は、中途半端な気持ちで百合の側にいるんじゃない。彼女にガチ恋してるんだと言ったら、最後にはちゃんとわかってくれた」
「嘘でしょう!?」
まったく反省していなかった顔が、ギョッとこちらを振り向いた。
「里梨がいない間に起きたことを、包み隠さず全部話したからな。やはり人間、誠実に対応すれば気持ちは伝わるってことだ」
「土曜日は誠実じゃなかったようだけど」
「その件もちゃんと話してごめんなさいしたら、そのくらいの役得、あってしかるべきだって許してくれた」
「上透さん、どれだけ心が広いのよ……」
「彼女の器の大きさには、さすがに感動したな。まさにすべてを包み込む聖母のようだ」
里梨の手の感触を思い出しながら、胸元の高さで両手をわきわきさせた。
「ご褒美のつもりだったのかな。こうやって恋人繋ぎでにぎにぎまでしてくれてな。……つい、里梨にまでガチ恋しちまったよ」
「ほんとヒコってばチョロいわね」
葉那は呆れたように眉尻を下げた。
「明日への希望に繋がる、本当に幸せな一日だった」
「楽しそうでなによりね。こっちはこっちで、ひと悶着があったっていうのに」
苦笑する葉那を横目にしながら、俺たちは駅構内を出た。
「ひと悶着? どうせ金曜日の後始末だろ。自業自得だ」
「そっちの問題じゃないわ。今回の件は……まあ、私から首を突っ込んだっていうか、見過ごせなかったっていうか」
「なにがあったんだ」
「私に夢中の日陰者くんが、ちょっと女子に罵られていてね」
「それを助けることで、更に自分へ固執させようと狙ったわけか。まさに悪魔の所業だな」
「結果的にそうなったけど、そういうつもりじゃないわ。今回は完全な善意。相手が言ってることがあまりにも理不尽すぎて、黙って見てられなかったのよ」
前のめりになった葉那は、俺の顔を覗き込むように見上げてきた。
「ほら、小学生のとき、私不登校になったでしょ?」
「ああ、ウンコマン事件か」
「そ。家まで我慢できず、たかだか学校でうんこしただけで、なんであそこまでバカにされて笑いものにされなきゃいけないんだって。本当に悔しくて、家で泣いてたもの。そのときの自分と、なにも言い返せず俯いていた日陰者くんを重ねちゃってね」
タッタッタ、と俺の数歩先にいった葉那は、くるりとこちらを振り返った。
「だからね、あのとき私を助けてくれたヒコに倣って、相手の女を成敗してやったのよ。公衆の面前でケチョンケチョンにね」
ニカッ、と葉那は笑った。いつもの愛され系女子としてのものではない。我が盟友のマサとしての顔を覗かせたのだ。
ウンコマン事件とは、その名の通り葉那が学校でウンコをしたばかりに、ウンコマンとしてバカにされ、笑われて、不登校になってしまった事件である。
あれは小学五年生、タイムリープしてから一週間後の話だ。
強くてニューゲームを満喫し、これでもかと小学生を楽しんでいた俺は、あることに気づいた。そういえばクラスでひとり、休み続けている男子がいることを。
それが廣場花雅。まだ自分が男だと信じていた時代の葉那である。
クラスの男子になぜ廣場は学校に来ないんだ? なにが問題でもあったのか? と尋ねたら、おまえもその場にいただろという顔で教えてくれた。
俺がタイムリープする前日の話だ。わざわざ一階のトイレまで向かって、隠れて大便行為を及んでいた葉那だったが、それをクラスのお調子者、田中に嗅ぎつけられたのだ。わざわざ三人ほど引き連れて、葉那が大トイレから出てくるのを待ち伏せたのだ。
小学生は学校でウンコをするとバカにされるという、今思えば理解できぬ風潮がある。鬼の首を取った田中は、これでもかと葉那をバカにし、からかい、教室に戻ってからも葉那をウンコマンと笑いものしたのだ。
教師の見えないところで、それは放課後にまで及んでいた。教師に告げ口するのはダサいというレッテルを貼られるので、このことは教師の耳には入らなかったのだ。
親にはただ学校に行きたくないとだけ言って、葉那は次の日から不登校を決め込んだ。
たかだかウンコくらいで大げさだと思ったが、子供には子供なりのプライドがあるのを、やり直した人生で思い出したのだ。
葉那が可哀想半分、面白半分。大義名分があればなにをしても許されるという、インターネット正義マンとしての心が騒ぎ出し、田中を葉那と同じ目に合わせたのだ。
どうしておまえは、こそこそと出ていったはずの葉那がウンコをしに行くのがわかったのか。ここからスタートして、人のウンコを嗅ぎつけるヤバイ奴という印象を周囲に植え付け、ウンコ大好きスカトロマンという称号を与えたのだ。
小学生には早すぎる言葉だったが、ウンコを食べるのが大好きくらいには、クラスメイトに伝わったようだ。みんな大爆笑であった。
どれだけ田中が必死に弁明しようが、ひろ◯きの切り抜きで培った大人の論破力で詰めに詰めまくった。それこそ田中が泣き出すまで追い詰めたのだ。
次の日、田中が親同伴でやってきて、俺は担任に呼び出された。昨日したことをすべて認め、俺はあっさり土下座までして謝った。にまにまと満足そうにしている田中に、
「俺がこうして謝ったんだ。次はおまえが土下座する番だよな?」
と葉那のウンコマン事件の話を切り出したのだ。
自分に都合のいいことしか親に言っていなかったのだろう。びっくりした親と担任は、どういうことかと田中に詰め寄った。人を不登校にまで追い込んでおいて、いざ自分がやられたら被害者面。特に親は顔を真っ赤にして怒鳴りつけていた。
「俺は土下座までしたんだからな。同じ目に合わせた廣場と会ったとき、ただのごめんなさいで済むと思うなよ。明日、廣場を連れてくるから覚えてろ!」
担任にたしなめられこそしたが、言葉の矢は田中に深く突き刺さったようだ。みんなの前で土下座するような真似を、ちっぽけな子供のプライドが許さなかったのだろう。次の日から、田中は不登校を決め込んだ。
そんなことがあった日、俺は葉那の家を訪ねた。葉那の母親にことの次第を説明し、
「廣場。田中の土下座が見たいから、明日から学校に来いよな」
部屋にこもった葉那を説得したのだ。
かくして理不尽に泣くひとりのクラスメイトを、正義マンとして救ったのだ。
「あのときのヒコは、まさに私にとってヒーローだったわ」
「なに、一度はざまぁ系の主人公になってみたかっただけだ。この物語にタイトルを付けるなら、『タイムリープして小学生に戻った俺、クソガキに社会の厳しさを叩き込んでざまぁしたら、最高の親友ができた。そいつのことをずっと男だと信じていたのに、実は女だった件について』だ」
「なに、そのヘンテコなタイトル」
「覚えとけ。未来の小説のタイトルはな、こういうのが当たり前になるんだ」
「そんなあからさまな嘘には騙されないわよ」
くつくつと笑っている葉那。十年以上先の未来で『あの話、マジだったのね……』と言うことになるとは、このときの葉那は思ってもいない。
「それで、その理不尽女はどう理不尽だったんだ」
「下駄箱でその男子を捕まえて、『ちょっと優しくしてもらったからって、あんな女に夢中になっちゃって』『どうせあんたは裏で笑われてるのよ』『そんなことにも気づかないで鼻の下伸ばしちゃって、ほんとバッカみたい』ってね」
「ただの事実陳列罪だろ。おまえの悪魔としての顔に気づいて、その男子を心配してるだけじゃねーか。俺にはわかる。その子は絶対いい子だ」
「それだけだったらわかるけど……ちょっとここからが酷くてね」
葉那は憂えるようにため息をついた。
「『あんたのことなんて、本当はどうでもいいんだけど……あんたが泣きを見ておばさまたちに悲しまれると、わかっていて放っておいた私の責任みたいで寝覚めが悪くなるわ。だからあんな女のこと、さっさと諦めなさい。そもそもあんたみたいなダメ人間、わかってあげられるのなんて私くらいなものよ。あんたに関わるのなんて嫌で嫌で仕方ないけど、これも義理ってやつ。この私がここまで忠告して上げてるんだから、いい加減わかりなさい。ほんとバカでバカバカな救いようのないバカの介……!』って人前で罵倒してるのよ」
「え、えーとな、葉那――」
「『あんたは黙って、私に従っていればいいの。それが一番簡単に、あんたが幸せになる方法なんだから』とまで付け加えて。バカにするだけじゃ飽き足らず、相手を支配して玩具にしようとまでしてるんだから。いくらなんでもさ、ひとりの人間として、そんな理不尽に扱われる彼が許せなかったの」
「葉那。落ち着いて聞いて――」
「だから間に入って、日陰者くんに変わって色々と言い返してやったわ。最後には『たとえどんな理由があったとしても、人の心を踏みにじって、弄ぶような真似は決して許されることなんかじゃない!』って言ってやったわ」
「どの口が言ってるんだ」
なぜこいつは、ここまで我こそが正義だ面して、特大のブーメランを投げられるのだろうか。悪魔には恥という概念がないのだろうか。
「こうして涙目で逃げていった女を見て、彼はますます私に夢中になってしまった。めでたしめでたし、ってわけ」
「いいか、よく聞いてくれ葉那」
俺は清々しい顔をしている葉那の肩を掴んだ。
「その逃げていった子はな、悪い子じゃない。ただのツンデレなんだ」
「ツンデレ? なにそれ。ヒコったらまた、変な言葉使っちゃって」
「……え」
怪訝な顔をする葉那に、俺は面食らってしまった。
ツンデレの意味が通じない。どういうことだと狼狽えると、今は2006年であることを思い出した。
今年の四月からオタク社会に革命を引き起こし、大きく飛躍させるハレハレで愉快な憂鬱なアニメが始まるのだが……ツンデレを好んで使うのは、まだまだオタクたちだけだ。オタクではない一般層にとって、聞き馴染みのない単語。知っていたとしてもオタク臭い言葉として、日常用語として受け入れられるものではなかった。
きっと逃げていった少女は、日陰くんの幼馴染だったのだろう。好きで好きでたまらないけれど、その気持ちに正直になれず、つい強い言葉で当たってしまう。もしかしたらそれが原因ですれ違い、日陰者くんと距離が出来てしまったのかもしれない。
それでもいつかはこの想いが届くか、はたまた正直になれる日を信じて、日陰くんを想い続けてきたのだ。
そんな矢先、日陰者くんは他の女に惚れてしまった。これは不味いと慌てたツンデレちゃんは、彼を取られたくないと行動に移したのだ。
「いいことして人から好かれるのって、やっぱり気分がいいわね」
しかし相手が悪すぎた。そんな少女の恋心などつゆ知らず、この悪魔は日陰者くんのフラグごと木っ端微塵に叩きのめしたのだ。
やっぱりこいつは、始末をしかるべき悪魔である。
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