32 感謝は赤色

 上透は感動に震えている俺に、ふっと微笑みかけてきた。


「マナヒーがいなかったら、今頃百合は酷い目にあってたでしょ。そのピンチを察しただけで進んで助けてくれた。それだけでもありがたいのに、その様子じゃろくに見返りも求めてないんじゃない?」


「そうなの、愛彦くんはわたしになにも求めなかったの!」


 百合は前のめりに上透へ迫った。


「本当はわたし、今回のこと里梨に隠そうとして……約束してくれるなら、一回だけ愛彦くんの恋人になるって頼んだの。でも愛彦くんは小さく収まったことを、取り返しのつかないもので隠そうとするなんてどうかしてる。ちゃんと全部話すべきだって諭してくれたの」


「百合ー、そのことについて後でお説教ね」


「あぅ!」


 どこか圧力ある笑顔を浮かべながら、上透さんは百合の頬を引っ張った。


 呆れたように息をついた上透は、改まった微笑を俺に向けた。


「百合にガチ恋してる、恋人にしたい、なんて本気で思ってるのに、これだけの大事件を解決して見返りひとつ求めないなんて。ここまで誠実に対応されちゃったら、そのくらいの役得はあってしかるべきだなって。百合も楽しかったようだし、そのくらいのことで流していいよ」


 上透は俺に向かって両手を伸ばすと、


「改めて、百合のこと助けてくれてありがとね、マナヒー」


 ギュッと俺の右手を握った。


 あまりの眩しい笑顔に目が眩んで、この手に宿った温度に気づくのが遅れた。気づいた瞬間、つい振り払ってしまった。


「あ、ごめん……こういうの、嫌だった?」


 悲しそうな顔をする上透に、慌ててかぶりを振った。


「嫌なわけない! それどころか感謝感涙ものだ!」


「で、でも、手振り払ったし……」


「それは慌てたっていうか、ビックリしたっていうか……そんな風に手を握られたら、上透さんにまでガチ恋、しちゃうから」


「マナヒー、さすがにそれはチョロすぎない?」


 悲しげに沈んだ顔が一気に呆れたものに変容した。


 推しに手を握られる。その価値を俺と共感できないあまりに、上透は自分の手を安売りしすぎているようだ。またあんな気軽に握られたら、今度こそ上透にガチ恋してしまうかもしれない。


 上透は思い出したように、胸元を叩いた。


「後、私のことは里梨でいいよ、マナヒー」


 急なイベント発生に、俺は目を丸くした。心の準備ができないまま、俺は喉を震わせた。


「えっと……じゃ、じゃあ……里梨、さん?」


「なんで恐る恐るなの……後、さんはいらないから。百合みたいに、友達へ接するようにして」


「それなら……さ、里梨?」


「うん、まだぎこちないけど、それでオッケー。はい、手を上げて」


 里梨は警察に銃を向けられたかのように、顔の高さで手を上げた。


 言われるがまま手を上げた。


 推しとのタッチ会でも行われるのかとワクワクしていると、案の定里梨の手はこちらの手に向かってきた。


 パン、と乾いた音が鳴ることはない。代わりに両の手には温度が宿った。扇状的なまでに柔らかく、そして滑らかな感触であった。


「にぎにぎ」


 里梨はそんな効果音を口にする。


 両手が恋人繋ぎで握られたのだ。しかも加えられている力は、緩急がついている。まるでお互いの手の感触を確かめ、楽しむかのように。


 ポンプのように脈動し、幸せが注ぎ込まれているかのような錯覚だ。


 推しへ禁じたはずの想い。そのタガは既に、土曜日に外れてしまっている。芽生えるこの気持ちに、抗う気なんて微塵も起きなかった。


「だから言っただろ。こんなことされたら好きになるって。案の定、ガチ恋しちゃったじゃないか……」


「マナヒー……冗談じゃなくて、本気の顔だねそれ。いくらなんでもチョロすぎるよ」


「でも勘違いはしないし、期待もしてないから安心してくれ。ただ君たちの側にこうしていられるだけで、俺はもう満足だから」


 しょうがないな、と里梨は苦笑した。


「ほんと、マナヒーって変わってるね。私たちのこと大好きで、これだけ気を持たせるようなことしちゃってるのに、それ以上は望んでないなんて」


「だって愛彦くんは、私たちの大好きを認めてくれて、大切にしてくれる人ですから。これからずっと仲良くしたい、わたしの一番のお友達です」


 俺と里梨がこうして仲良くなったことが、余程嬉しかったのか。手を合わせた百合は嬉しそうだ。


「へー、百合の一番はマナヒーなんだー……その一番は、ずっと私のものだと思ってたのに」


「だって里梨は、もうお友達じゃありませんから」


 里梨は尖らせた口を百合に向けた。嫉妬したようでありながら、その姿はあまりにもわざとらしい。百合はそんな里梨の様子に、慌てることなく楽しそうで。その満面に最高の幸せを描いていた。


「わたしの一番大切で、大好きな恋人です」


「もー、百合ったらー! 私も百合が大好きー!」


 感極まったように里梨は、百合に抱きついた。お互いの頬を擦り合わせながら、愛を確かめあっている。


 こんなものを見せられたら、自然とこの手は合掌していた。


 尊い、尊い……。


 あまりの尊さに、心から込み上がってくるものがあった。


「尊いものを見させてくれてありがとうふたりとも。あの日、この場所にいる君たちを見つけて、この世界に本物の百合あいがあることを知ったんだ。それ以来友達ひとりしかいなかった僕の学園生活は、毎日が楽しくて、張り合いがあるものになったよ。ふたりの愛からしか得られない栄養は、それほどまでに尊いものだったから。屋上からずっと見守るだけだった僕が、こんな特等席に座れるようになるなんて……感謝感激雨あられ。ふたりの愛を手折ろうとするものがいれば、君たちのナイトが必ず守るから安心してね。これからもずっと愛しているよ、ふたりとも!」


 彼女たちへの感謝である。


 やはり推しへのガチ恋とはいいものだ。感謝を示しただけで、こんなにも幸せな気持ちになれるのだから。


 感謝の先にこそ幸せは生まれる。


 人生をやり直して気づいた、俺の座右の銘だ。


「ま、マナヒー……?」


 当惑したように里梨は顔を引きつらせた。


「そ、それは……一体なにかな?」


「ああ、気づいたらつい心からの感謝の言葉が溢れ出してしまった」


「いや、そっちじゃなくて……いや、それもアレっちゃアレなんだけど」


 里梨は恐る恐る指先を、俺の差し出している右手に向けた。


「その手にしてるものは、なんなのかな?」


「推しに感謝を告げるときは、絶対赤色って決めてるんだ、俺」


「意味がわからない……」


 里梨は怖いものを見る目をした。


 なにかおかしいことがあっただろうか。もしかして差し出すものを間違えたかと思って、手元に目を落とした。


 その札に描かれているのは、夏目漱石でもなければ新渡戸稲造でもない。間違いなく福沢諭吉である。


 ヒィたんに感謝を告げるときは、いつだって俺は一万円あかいろで示してきた。それは推し変したからといって、感謝の色を変えるつもりはない。


 そして気づいてしまった。推しへ直接感謝を投げられるということは、一切の中抜きがないということ。たしかユーチューブのショバ代が三割だったはず。ヒィたんは事務所に所属しているから、さらにそこから引かれることを考えると……最低でも二万円以上投げたときの同等の額が推しの懐に入る。


 あまりのコスパのよさに愕然としてしまった。


 こんなの実質、タダで赤色を捧げているようなものじゃないか。


 このふたりを推してよかった。心からそう思ったのだ。


「さあ、受け取ってくれ、俺の感謝の気持ちを」


「怖い怖い怖い怖い! お願いだから、それしまってマナヒー!」 


 初の赤スパにビビった推しの声は、この寒空に飲み込まれていった。

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