31 別にいいよそのくらい
「そういうことだったの……」
自分がいない間に起きた出来事。
恋人に男友達ができたその流れ。
一通り説明を終えると、上透はすっと細めた目を落とした。そこには勘違いし、慌てふためいていた姿はない。瞳に憂えを溜め込みながらも、緊張の糸で結ばれていた口元がホッと緩んでいた。
ずっと説明者に向けられていたその顔が、百合を向いた。
「よかった……」
抑え込んでいたものを解き放つように、上透は百合に抱きついた。百合の頭に回されたその両手は、大切なものを抱え込むかのようだった。
「無事でよかった……百合」
「里梨……」
百合は唇を固く結ぶと、涙ぐんでいる上透を強く抱き締めた。
上透を心配させてしまい、そして無事を喜んでくれた。目頭を熱くしている理由はそれだけではない。
「あの日もそうだった。……なんで百合は、もっと自分を大事にできないの」
「里梨……わたし」
「わかってる。百合のことはよくわかってるけど……私のために、自分を犠牲にしようとしないで。そんな形で庇われたなんて知ったら、もう笑えなくなるよ……」
「ごめんなさい……ごめんなさい、里梨。もう……こんなことしないから」
自分に降り掛かった災いへの恐怖。そして自分が選ぼうとした道の愚かさ。それを改めて実感したのだろう。前者は仕方ないとしても、後者の選択はここまで上透を悲しませる行為であったことを。
なにはともあれ、百合は何事もなく助かった。その無事を喜び合うには、やはり涙なしでは終われない。号泣とはいかないが、すすり泣く音がこの世界を満たしている。
どれだけふたりがそうしていただろうか。
俺ですらも流れる時間を忘れるほどに、その光景は美しいものだった。このままふたりは幸せなキスをして終了、ハッピーエンド完を期待しているが、そうはならなかった。
「ありがとね、マナヒー」
百合から手を離した上透は、こちらに微笑を向けた。俺の存在を忘れるほどに、ふたりの世界に没頭していたわけではなさそうだ。
「屋上から、なんて言われたときは驚いたし、恥ずかしかったけど……マナヒーが見守っていてくれてよかった。百合のこと助けてくれて、本当にありがとう」
余韻で残っていた涙と共に、白い歯をこぼした笑顔。百合とはまた違う魅力を放っており、太陽のように眩しく、そして綺麗だった。
この推しの笑顔が俺の行いによって生まれたものなら、これ以上ない喜びだ。
ただ気になることがあったのは、
「マナヒー?」
耳馴染みのない呼び方が上透の口からこぼれたことだ。愛彦だからマナヒーなのはわかるが、まるで親しい友への呼び方であった。
「え、あ、ごめん……つい感極まっちゃったというか。ごめん守純くん、ちょっと馴れ馴れしかったよね」
言い訳するように上透は胸元で両手を振った。
恥ずかしそうに染まった顔があまりにも可愛らしくて、つい胸が弾んでしまった。
「いや、マナヒーでいい。むしろそう呼んでくれるなら嬉しいよ」
「そ、そう?」
「ああ。推しからあだ名をつけられるなんて、最高じゃないか」
推しに名前を認知してもらえるだけでもありがたいのに、あだ名を付けて貰えるなんて神対応ではないか。かつてヒィたんにあだ名をつけて貰おうとしたときは、必死に赤色でお願いしたものだ。
やはりこのふたりを推すと決めたのは間違いなかった。彼女たちから存在を認知してもらってから、ずっと神イベントの目白押しである。
「推し……って、どういうこと?」
理解できずに上透は小首を傾げる。
「君たちの愛の形、そのファンってところかな」
「ふぁ、ファン?」
上ずった声音で上透は目を見開く。
「もっとわかりやすく言うなら、ふたりは俺にとってのアイドルだ」
「あ、だからふたりでひとつの花って……」
上透は得心がいったような声を漏らすも、やはり腑に落ちない顔をする。
彼女の気持ちもわからないでもない。本物のアイドルでもないのに、自分のファンを称するものが現れたのだ。しかも百合と恋人関係としての自分が好きだと言い始めた。
推しという言葉が世間に広まり、浸透するまではこの気持ちの理解は難しいかもしれない。
「実際、君たちは百合ヶ峰の男たちにとっての憧れ。アイドルのようなものだ。それこそ三大花美として数えられるほどのとびきりだ」
「そ、その話は知ってるけど……私なんて全然だから」
上透は恥ずかしそうに両手と共にかぶりを振った。
「百合や廣場さんと比べたら、私なんて絶対見劣りするし。なんでふたりと一緒に並べて数えられてるか、意味わかんないよ」
「そんなことないですよ。里梨の笑顔はこの学園で誰よりも眩しくて、綺麗なんですから。ね、愛彦くん?」
「百合のそれは、ただの身内贔屓だから」
困ったように上透は縮こまり、百合をたしなめようとする。
どうやら上透はただ謙虚なのではなく、本気でふたりより格下だと信じているようだ。葉那くらい客観的に自分を見るべきだとは言わないが、自分を卑下しすぎるのも問題である。
「そんなことないよ上透さん。百合と比べて遜色ない美人だよ、君は」
「ま、マナヒーまで……そんなに持ち上げてもなにも出ないよ」
「心からの本音だ。百合が名前の通りの美しい花だというのなら、君はスカシユリのような魅力を持つ花だ。そこに十人十色の好みはあっても、絶対的な美しさの差なんてない」
「う……うん、ありがと」
顔を真っ赤にした上透は、モジモジとしながら顔を俯かせた。
「で、でもマナヒーは……百合のこと、本気で好きなんだよね?」
「あぁ、ガチ恋してる」
上透の上目遣いは複雑そうに揺れた。
一方、ガチ恋していると言われた百合はニコニコしたままだ。俺のことを友達だと信じている証である。
「けどこの好きは、アイドルへの憧れ、その上位互換的な感情だ。恋人になりたいほどアイドルに入れ込んでる奴なんて、珍しくもなんともないだろ?」
「言わんとしていることはわかるけど……それは絶対に手が届かない相手だから、ただの憧れで終わるわけで。こんな側にいる相手をそこまで好きになっちゃってるなら、それはもう憧れじゃない。本物の恋だよ」
「それでも俺は、ふたりの世界を壊してまでこの想いが報われたいなんて思ってないし、ワンチャンあるかもなんて期待もしていない。友人として側にいられるだけでも、俺には過ぎた幸せだ。君たちにはいつまでも末永く幸せでいてもらいたい。それこそが君たちに望む、俺の心からの願いだ」
「愛彦くん……」
感極まったように百合は喜びを満面に描いた。
そう、推しへのガチ恋をしたからには、俺は一切の自我を捨てた。ただ、彼女たちから与えられるものを感謝し、尊く頂く。それこそが最高の幸せである。
彼女たちにはいつだって、誠実にあろうと決めたから。ガチ恋する前に犯した罪、その清算しなければならない。
「だからごめん、上透さん。そして百合。俺、君たちに謝らなければいけないことがあるんだ」
「謝る、ですか?」
「マナヒーがなにを謝るの?」
謝られる理由が思い当たらないと、ふたりは首を傾げた。
「土曜日……葉那の問題に巻き込んだ件について、百合に説明するため街へ出たんだけど……恋人がいる身の百合を、お昼ごはんに誘っちゃったんだ」
「別にいいよそのくらい」
肩透かしを食らったように、上透は口をあんぐりさせた。
なんて懐の深い子だと感動したが、それでもこんなのは序の口だ。たとえ嫌われることになったとしても、推しには誠実でありたかった。
「それだけじゃない。その後、一緒に街をぶらぶらしちゃったんだ。恋人がいる身の百合と……!」
「それはわたしが悪いの里梨! わたしが愛彦くんと……折角できたお友達と、お出かけしたいって思っちゃったから。わたしからお誘いしたの」
「まあ、そのくらい別にいいよ」
まったく表情を変えずに、上透は許してくれた。
なんて……なんて器の大きい子だ。さすが百合の選んだパートナーだ。彼女の器に驚嘆したからこそ、たとえビンタを貰うことになっても誠実であり続けたかった。
「それだけじゃないんだ! お昼ごはんであーんし合ったり、肩を寄せ合ってゲームしたり、腕を組んでプリまで撮っちゃったり……百合の純粋さにつけ込んで、つい流されるがまま受け入れてしまったんだ」
「つけ込むって……どういうことですか愛彦くん」
「百合、君は上透さんから学んだ友達との接し方を、俺にそのまま当てはめたのかもしれない。でもあれは、女友達だからこそ許される行為。男友達相手にやっていいことじゃない。恋人がいる身ならなおさらだ。あれはもう、友達とのお出かけでもなんでもない。恋仲の男女の振る舞いだ」
「そう、だったんですか……? わたし、なにも知らなくて……ついはしゃいじゃって」
「君はなにも悪くない。悪いのは君の純粋さに流されてしまった俺のほうだ。そのくらい、百合と過ごしたあの時間は楽しかった。こんな幸せがこの世にあるのかって……あの日、君にガチ恋してしまったんだ」
「それでも……愛彦くんは、わたしの友達でいてくれるって、選んでくれたんですよね?」
「ああ。この想いに嘘はないからこそ、初めて友達になりたいと言ってくれた君の想いを、最後まで裏切らずにまっとうしたい」
「愛彦くん……ありがとう。わたし、騙されたなんて思ってませんから。そこまでわたしたちを大切にしてくれているその想いが、なによりも嬉しい」
「ありがとう、百合。たとえ君が許してくれても、恋人の上透さんからしたら面白くないことに変わりないんだ。ごめん、本当にごめん、上透さん……!」
「里梨、愛彦くんを責めないであげて! 全部わたしが悪いの! わたしがなにも知らないばっかりに……!」
「いや、別にいいよそのくらいだったら」
なにも変わらない声音でかけられた言葉に、上透さんを仰ぎ見てしまった。
これだけのことを、そのくらいだって……?
なぜその一言で済ませることができるのか。俺には理解が及ばなかった。
彼女の心は雄大かつ広大で、すべてを許し包み込む、まさに聖母のようだった。
さすが百合の灰色の世界を照らした太陽。その心の広さは俺のようなちっぽけな人間に推し量れるものではなかった。
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