04 写真

「あー、お腹がいっぱいですね」


「胃の中があっつーい」


 百合と里梨は店舗を出るなり、腹部に手を置きながら言った。そのニュアンスはネガティブなものではなく、はかとなく満たされた面持ちだ。


「んー、今日も満足したー!」


 葉那は大きな伸びをしながらふたりの背中に続いてく。とてもじゃないがふたりが一口味見しただけで悶え苦しんだものを、完食したとは思えないほどに満足げである。そしてこいつが食でここまで満たされたということは、そういう店で昼食会場に選んだのだ。


 麻婆タンメンを売りにしたラーメン店。初めて百合と里梨の三人でおでかけした日、帰りにした約束を果たしたのだ。


 店内に入る前から、百合はなにもかもが新鮮といった様子ではしゃいでいた。それこそ悪魔の誘いに乗って、血の池地獄の味見に挑戦してしまうほどに。


先に味見した里梨が、咳き込みながら『これはムリムリムリムリ!』と涙目になっている末路を目にしておいて、あえて口にしたのだ。それを愚かだなんて思わない。みんなと同じものを共有したいという共感は、微笑ましくはあっても笑うものではない。


だから苦しんでいるその姿すら可愛すぎて、あのときの百合の姿を撮って――


「しまった!」


 と、自らの失敗を思い出し叫んでしまった。


「わっ! いきなりどうしたのよ?」


 葉那のびっくりした顔がこちらを向いた。


 過ちを隠すように顔を両手で覆った。


「写真撮るの忘れてた……」


「写真ですか?」


 百合の言葉に無言で頷きなら、ボディバッグからデジカメを取り出した。


「ふたりの初めてのお店ラーメン、写真に残したかったのに」


 がっくしきている俺に、葉那が呆れたような声を出す。


「わざわざデジカメを用意したの? 写真なんて、ケータイでいいじゃない」


「いやー、あれはいにしえの端末だしな。ちゃんとした写真を撮るには心もとないだろ」


「あんたのケータイ、去年買ったばかりでしょうが」


 葉那がツッコんでくる横から、里梨がデジカメを覗き込んできた。


「なんか高そうなデジカメだね」


「お目が高い。これは八万超えの一品だ」


「八万!? マナヒーはお金持ちだね……」


「いや、金持ちなのはうちじゃなくてこいつの家だ」


 手を差し向けられた葉那が怪訝そうにする。次の瞬間、わっと声を出した。


「なんか見覚えあると思ったら、母さんのじゃない、それ!」


「昨日、おばさんに借りたんだ」


「好きな女を撮るために人の親からカメラ借りるとか、あんたも凄いわね……」


 葉那はヤバい奴を目撃したように眉を寄せた。


 胸元のデジカメに目を落とす。


「うちにも一応カメラはあるけどさ、折角の機会だから。百合のためにもいいカメラで、今日という日を写真に残したかったんだ」


「わたしのため、ですか?」


 急に名指しされた百合は、顎に人差し指を置きながら不思議そうにした。


「前に百合の部屋を見たとき、なんかモデルルームのようだなって思ったんだ」


「あ、それわかる」


 里梨は同意するように頷いた。


「物はあるんだけど、余計なものはないっていうか……」


「百合自身が見えてくるようなものが、まるでないんだよな」


「そうそう、それ。壁にはなにも貼ってないし、机には小物一つ置いてない。最近誰かさんがプレゼントした人形が、ようやくベッドに増えたくらいだね」


 どこか当てつけがましい口調で、里梨が横目でこちらを見てきた。恋人のベッドに男からプレゼントされた人形があることを、言下に皮肉っているのだ。これだけで許してくれる心の広さは、さすが里梨大明神である。


「人の部屋にケチつけるわけじゃないけど、思い出くらい部屋に足すのはいいんじゃないかって」


「思い出を部屋に足す?」


 まだピンときていない百合に、カメラを見せるように持ち上げた。


「恋人との楽しい思い出は、部屋に飾ってあったほうがいいんじゃないか?」


「愛彦くん……」


 百合はハッとしながら、口元を両手で覆った。


 二週間前くらいだろうか。おばさんから『インターネットが壊れた』と電話が来て、廣場家を訪れたとき、ふとリビングの写真立てが目についた。なんの変哲もない家族写真だ。そのときは気に止めなかったが、今度は家のリビングの写真立てが目に入った。亡くなった父ちゃんが写っている、家族三人で撮った写真だ。そして母ちゃんの部屋に、幸嶋の写真がコルクボードにいっぱい貼られているのを思い出した。


 そして百合の部屋をふと思い出した。百合の性格を考えたら、里梨との写真くらい飾ってあってもいいのに。そういった類のものはひとつもなかった。


 百合は家族にも、そして友達にも恵まれることなく生きてきた。一番の記録を残すことだけを頑張りながら、楽しい記憶を形に残してはこなかった。


部屋に飾りたい思い出が手元にひとつもない。もしかしたら百合には、写真を部屋に飾るという発想がないのではないか。


 俺の想像は当たっていた。弾むような百合の笑顔がそれを証明している。


「はい。わたし、思い出をいっぱい飾りたいです」


「任せてくれ。今日はふたりの可愛い写真、いっぱい撮ってやる」


 眼の前のシャッターチャンスを逃すことなく、早速百合の写真を撮った。


 早速撮った写真を確認する。そこにはこの世のものとは思えない美少女、まさに天使が映し出されていた。


 俺の推し、可愛すぎ!


「へー、いい写真じゃん」


 肩が触れ合う距離で、里梨が液晶を覗き込んできた。


「マナヒー、写真撮るのうまいね」


「いや、素材とカメラがいいだけだよ」


「百合とはプリをいっぱい撮ってきたけどさ。なんで写真を撮るなんて簡単なこと、思い浮かばなかったんだろ。マナヒーはさすが神様だね、ほんと凄い」


「そんな大したことないさ。俺だったら写真が欲しいなって、つい思ったんだ」


 大好きな人との顔は、いつも目に付くところに置いておきたい。そんな当たり前を思い出しただけだ。


「なるほど、そういうこと」


 ふと、得心したように葉那は呟いた。百合や里梨のような、尊敬や称賛の感情は微塵もこもっていない。見抜いた浅ましさを、嘆息と共にもたらした。


「あんた、撮った写真を自分の部屋に飾るつもりね」


「おまえのような勘のいいガキは嫌いだよ」


 余計なことに気づいた悪魔を睨めつけた。

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