60 トロフィー

「愛彦」


 ふいに、母ちゃんが俺の名を呼んだ。


「あんたはさ、ずっとトロフィーが欲しかったんだろ?」


「……は? 急になに言ってるんだ、母ちゃん」


 脈絡のないことを問われて、ついソファーから上体を起こした。


「ずっとね、考えてきたんだ。母ちゃんが死んだ世界で、あんたは一体どんな大人になっていたのかって」


 母ちゃんの口ぶりはいつもと変わらない。


「俺は弱者男性だった。ネットアイドルにガチ恋してた。卒業後勤めた会社を辞めてからは、ふらふらしながら食いつないできた。うつ病を疑ったらただのアル中だった。口を開けばそんなことばかりだ」


 今までしてきた葉那とのやり取りは聞こえていたはずだ。そこに口を挟むということは、なにかしらの意図があるはず。だから黙って傾聴の姿勢を取った。


「子供に欲情していたとか言われたときは、母ちゃん泣きたくなったよ」


 一貫した口調だった母ちゃんが、ここにきて呆れた感情を込めた。


「あんたは深刻ぶらずに、自虐ネタみたいに披露するもんだから流してきたけど……最近、やっとあんたが抱えてる問題に気づいたよ」


「俺が抱える問題?」


「心の闇って言っても差し支えないね」


「心の闇って……」


 いきなりそんなことを言われるもんだから、困惑してしまった。


 たしかにネット民から、ガチ恋勢は闇が深いと揶揄されているのは承知の上だ。でも母ちゃんの口から心の闇と出るほどに、大それたものは抱えている覚えはない。


 母ちゃんは夕食の準備を止め、キッチンからこちらの顔を見据えてきた。


「今から厳しいことを言うよ、愛彦」


「な、なんだよ」


 つい怯んでしまったが、目を逸らすことはできなかった。


「あんたは自分のことを大人だと思ってるかもしれないけど、母ちゃんから言わせればあんたは大人なんかじゃない。若さを失っただけの子供だよ」


 ハッキリと母ちゃんは言った。それこそ否定の余地などない答えを差し出すように。


「は、ははっ」


 思わず笑ってしまった。まるでくだらない冗談を聞かされたように。


 三十三年間、結局なにものにもなれずに人生を終えた。母ちゃんのような親たちや、学校の先生方が子供たちに願う、立派な大人とは程遠い。悪い見本そのものだ。それこそこの社会で立派と呼ばれている大人たちの輪に入れないほどに。


 それでも、自分は大人であるという最低限の自覚はあった。それが自信に繋がることもなければ、縋りたいわけでもない。


 だけど、若さを失っただけの子供扱いはあんまりだと思ったのだ。


「……弱者男性は大人じゃないとか、差別はやめてくれ。こんなのネットで呟けば、一発で炎上するぞ」


「あんたがレッテルとして自分に張ってる、その変な言葉がどんな意味を持つのか母ちゃんさっぱりだけどさ。今回はいつもの自虐じゃなくて、ただ主語を大きくして盾に使いたいだけなのはよくわかるよ」


 お見通しだと言うように、母ちゃんは鼻で笑った。


 その通りだからこそ言い返せなかった。


 自分を弱者男性というジャンルに括って、守りに入ったのだ。自分を責めることは、多数の人間を貶めることになる。逆にこいつは差別主義者だと、それを火種にして反撃に転じられる技だ。


 俺が一番嫌いだったはずのやり口である。


「母ちゃんはね、その手の人たちのことをとやかく言いたいんじゃない。守純愛彦という人間について話してるんだ」


 話を逸らすのは許さない。そんな力強い口ぶりだった。


「じゃあさ、聞かせてくれよ」


 嫌いだったやり口を無意識で使ってしまった自己嫌悪が、自分を苛立たせた。


「母ちゃんの言う大人って、なんなんだよ。立派な仕事につくことか? それとも結婚することか? 子供さえ持てば、それだけで大人になれるって言いたいのか?」


 大人であるという自負こそないが自覚はある。


 子供になんて戻れないから、未来に展望を望めないまま大人として生きてきた。


「だったら、誰でもすぐになれるような仕事で食いつないだり、異性に縁がない独身貴族の内は、大人になれないってことなのか? ……そうやって生きてくしかなかった奴は、若さを失っただけの子供だってさ」


 好きでそんな風に生きてきたわけでもないのに、おまえは大人ではないと否定された。


 つい熱くなって矢継早に、それこそ攻撃的に声を荒らげた。


 こんな姿を母ちゃんの前に晒したのは、それこそ初めてだ。


 母ちゃんは見たこともない姿を見せた息子に、怯むでもなければ戸惑うでもない。


「大人になるのはどういうことか。パッて出てくるのがそんなものな辺り、やっぱりあんたは子供だね」


 受け止めるように笑ったのだ。それこそ物を知らない子供の主張を、微笑ましく眺めるように。


 八つ当たりのように言い放ったものがまるで通じない。それで勢いを失いながらも、なお問うのは止めれなかった。


「……じゃあ、大人になるってなんなんだよ」


「そうだね……たとえばトロフィーを得ようと頑張ってきた。けどそれを得られるのはたったひとりだ。トロフィーを手にすることができなかった人たちの努力は、無駄だったって思うかい?」


「それは……」


 かけられた問いかけに、言い淀んでしまった。


 母ちゃんがどんな答えを用意しているのか。それが想像できないからではない。


「たしかにトロフィーは、努力してきたわかりやすい証だ。でもね、それを得られなかった人間になにも残らないわけじゃない」


 つい最近、似たような問答をしたからだ。


「トロフィーを得ようと情熱を捧げて、それまでしてきた努力は、必ず身になっている。そのときの結果には繋がらなくても、過去の自分と比べて成長してるんだ。それが次に繋がる自信になるほどにね」


 かつてその相手は、こう言っていた。


『思うような結果は出せなくても、一位になろうと走り続けて得たものは、必ず自分の糧になる』


 彼女は負け惜しみでもなんでもなく、心からそう思っている顔だった。


「それは仕事でも、恋愛でも、趣味でも、子育てだって同じだよ。今の自分にないものを得ようと努力してきた経験は、必ず自分の中に積み重なっていくんだ」


 また、思い出した。


『今の自分にないものを掴もうとする努力は、絶対に嘘はつかない』


 太陽のように爛漫な笑顔が、そう教えてくれたことを。


「その道のプロと比べれば、ちっぽけなものかもしれない。でも、過去の自分より成長したって誇れるものがあれば、自分に自信を持てる。自信さえあれば自分に期待できる。人はね、自分に期待さえできれば、いくらでも新しいことに挑戦できるんだよ」


 自分にないものを得ようと頑張ってきた人間は、どうやら同じような考えにたどり着くようだ。


『たとえほしかったものが掴めなかったとしても、必ず次に繋がる糧になるからさ』


 三十八年の時間をかけて、一度も考えつかなかった人生論である。


「そしてある日、気づくんだ。過去を振り返って、今の自分にないものを得ようと積み重ねてきたものを見て……ああ、自分は大人になったんだなって」


 母ちゃんがなにを言いたいのかが、なんとなく見えてきた。


「愛彦。あんたには年齢以外のもので、自分は大人になったって思えるものがあるかい?」


 母ちゃんの口調は優しくありながら、しかし嘘を許さぬ厳しさがこもっていた。


 その嘘は、母ちゃんに対して嘘をつくなというわけではない。自分に嘘をつくなと言下に告げてきたのだ。


 三十三年間、食いつなぐように大人の社会を生きてきた。大人にだけ許される経験もした。大人になったからこそ見えてくるものがあった。


 けど、母ちゃんの指し示す大人とは、胸を張って言えなかった。


 立派な仕事に就いたことがないからではない。


 年相応の恋愛をしてこなかったからでもない。


 まして子供を持ったことがないからではない。 


 空っぽなのだ。大人社会で学んできた知識はあるし経験もあれば、暗い部屋に閉じこもって過ごしてきたわけでもないのに。だけど母ちゃんの言うような、今の自分にはないもの得ようという頑張ってきた積み重ねがなかった。これだけのことをやってきたという、過去の自分より成長したって誇れるものがない。


 自分の自信に繋がる、期待をかけられるものがなにもなかったのだ。


「若い内はね、それでもいいんだ。若者特有の万能感、悪くいえばものを知らない浅はかさが、未来の自分に期待をかけてくれるからね。けど……あんたは嫌ってほど身に沁みてるかもしれないけど、いい年になると現実ってものがわかってくる。現実を知って、万能感を失ったら、なにに縋って自分に期待をかければいいと思う?」


「それまでなにかを得ようと……積み重ねてきたもの、か」


「もう一度聞くよ。あんたにはそれがあるかい?」


「……ない。なんにも、ない」


 どうしようもないほどに、自分の中にはなにもなかった。


 若さを失っただけの子供。


 その言葉が今、苦しいほどに胸に刺さった。


「だからあんたは、なにもしてないくせにトロフィーを欲しがるようになった。それを持ってるだけで、特別になれるようなもの。自分だけしかできない役目であったり、誰もが羨むような女の子だったりね」


 ああ、そうだ。俺はずっとそれを望んできた。


「このままじゃいけないってわかっていながらも、どうせ頑張っても無駄だ。そうやって自分に期待できず、なにかを得ようと戦うちょうせんすることができなくなった。そうやって負け犬になる土俵にすら立てなくなった」


 母ちゃんは容赦なく、


「そういう意味では、たしかにあんたは弱者だね」


 俺という人間の根っこを暴き立てた。


 人生勝ち組負け組。モニターの前で面白おかしく、他人を揶揄してきた土俵にすら上がれていなかった。


 これが守純愛彦の三十三年の集大成だ。


「こうして人生をやり直してる今でも、あんたは弱者根性を引きずってる。新しいことに挑戦しようとしないで、自分にできるとわかっていることしかやらない。他人と比べ合う場から逃げ続けてるんだ」


「……ほんと、事実陳列罪って罪だよな。マジで取り締まるべきだ」


 自分のどうしようもない現実を突きつけられて、乾いた笑いしか出てこなかった。


 人生二週目。どれだけ学校という箱庭で一番を取っても、俺は凡人だと弁えてきた。大海を知っているからこそ、井の中の蛙になれなかったのだ。


 自分になんの期待もしていないから、新しいことを始めようとしないで、できるとわかっていることしかやってこなかった。


 伝統ある名門校、百合ヶ峰一の優等生男子とは言うが、やってくることは男子の中で一番点数を取っているだけ。みなが部活を、趣味を、友達と過ごす時間のほとんどを、勉強に費やした成果。教師の信頼や成績なんて、それに付随して生まれただけだ。


 日景たちと比べれば運動能力はあるかもしれない。でも本気で取り組んでいる運動部には敵わない。日景たちを相手にしたのは、ただの雑魚狩りでしかなかった。


 結局やり直してきた人生でやってきたのは、子供を想定したゲーム大会で、いい年をした人間が荒したようなものである。


 タイムリープして、子供の世界はこんなもんだというアドバンテージはあるかもしれない。でもその代わり、今の自分には子供特有の、未来に夢見て、挑戦しようという万能感は失っている。


 今だからこそわかる。子供の万能感は、本当に可能性に満ちている。


 里梨の陸上への思い、その精神は今更語るまでもない。


 ハルやんは俺の自分に酔ったポエムもどきを信じて奇跡を掴んだ。


 日景たちもそうだ。憧れのまま終わらせたくないという葉那への思い。横に並べる男になりたいと願ったからこそ、イケメン化した。その先で努力の方向性を間違ってしまったが、それでも昨日の自分より、マシな自分になりたいと努力しているのは立派である。


 一方、俺はできるとわかっていることしかやらない。自分に期待できないから、挑戦することから今でも逃げ続けている。


 彼らと比べて大人なのかと問われたら、もう首を縦に振ることはできない。


 どうしようもないほどに自分という人間の正体を知ってしまった。


 視界が滲んだ。


「母ちゃんの、言う通りだ」


 ソファーに倒れ込み、両腕で顔を覆った。


 目元から溢れてきたものが、こめかみを濡らしながら伝っていった。


「俺はずっと……トロフィーが欲しかったんだ」


 なにもしてこなかった人生の一発逆転が欲しかった。


 異世界転生してチート能力を授かって、奴隷ハーレムを作りたいという、現実逃避のような夢ばかりを見てきた。


 自分には吊りあわないはずの美少女が、自分だけを慕ってくれる。三十三年も生きてきて、年相応の相手ではなくJK美少女を望んできた。


 人生このままじゃいけないとわかっていながらも、なにかを変えようと努力もしないで、ラノベの主人公になれるような特別な奇跡だけを願い続けてきた。自分に期待できずに努力できないのなら、それを手放したくないと努力できるものが欲しかった。


 人生をやり直している今でもまだ、自分に期待ができないから、トロフィーを望み続けているのだ。


 そりゃ言われるわけだ。重症患者だって。


「だからね、愛彦。あんたが今抱えている悩みは、その弱者根性がマシになったっていう証だよ」


 母ちゃんが子供の成長を喜ぶように、言い聞かせてきた。


「なにせあんたが今伸ばしたいのは、トロフィーを掴むための手なんかじゃない。あんたが大切にしたい特別な子たちのために、その手を差し伸べたいと思ってるんだ」

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