61 このままじゃいけない

 その通りだ。


 俺にとって百合は、最初はただの特別な女の子だった。


 彼女に恋をしていたわけではない。真白百合ではなく、高嶺の白百合という誰もが憧れる偶像とくべつとして見ていたのだ。


 そんな百合の隣にいられるようになって、なにものにも代えがたい優越感を得られた。誰もが憧れる美少女の隣にいられるのは、それだけで自分の格が上がり、特別な人間になったような錯覚だった。


 まさにトロフィーを手にした、人生勝ち組にでもなったような気分である。


 でもいつの間にか、その優越感はなくなっていた。代わりにその隣にいられる喜びに変わっていた。高嶺の白百合ではなく、真白百合という女の子と過ごす時間が楽しかったのだ。


 始まりはみんなの偶像とくべつだからと尊んでいたものが、いつの間にか俺にとっての大切とくべつな女の子になっていたのだ。


 俺の幸せなんて二の次でいい。


 百合に幸せになってほしいと心から願うようになっていた。


 だからこそ、こうして悩んでいるのだ。


「このままじゃいけない。自分の中でそう答えは出てるけど行動に移せない。あんたはそれに悩んでるんだろ?」


「……母ちゃんには敵わないな」


 なにもかも見抜かれているのならと、上体を再び起こして情けない顔を晒した。


「そうだ、怖いんだ。このままじゃいけないってわかってるけど……それで動いた結果、今より一層酷い結果になるんじゃないかって」


「大切なものができた人生なんて、そんなことの繰り返しだよ」


 弱音を吐き出す俺に、母ちゃんそんなことかと軽快に笑った。


「父ちゃんを好きになってからも、付き合うようになってからも、結婚してからもずっとそうだった。自分がよかれと思ってやったことが、悪い結果を引き起こすんじゃないかって。悩みながらあれこれやってきた」


 思い出を見出すように、母ちゃんは顔を少し上げた。


「あんたを生んでからなんて、それが一層重くのしかかってきてね。父ちゃんが死んだときなんて、向こうの親族に色々と言われたもんだ」


「女ひとりで子供をまともに育てるなんて無理だ。自分たちが育ててやるってか?」


「なんだ、まるで見てきたみたいなことを言うね」


「それっぽいことは聞かされてきたからな」


 母ちゃんは苦いものを噛んだように眉をひそめた。子供にそんなことを聞かせるなんてと、呆れと怒りが混ざった顔だ。


 母ちゃんを亡くしてからは、父ちゃんの親族に引き取られた。よくしてもらいながらも、ずっと居心地の悪さを感じていたのは、母ちゃんに対しての言動が愉快ではなかったからだ。


 小さい子供がいる身で、入れ込んでる男のライブに行って死ぬなんて。最初から自分たちが引き取っていればよかった。


 悪しざまにこそ言わないが、棘がある言葉をチクチク放つ。自分たちに引き取られて幸せだろうという態度も気持ち悪い。母ちゃんっ子だっただけに、彼らのことが好きになれなかったのだ。


「そのときはね、ふざけるなって啖呵と一緒に縁を切ったけど……あんたの幸せを考えるなら、これは正しい選択だったのかってずっと悩んできた」


「……そんなこと、考えたんだ」


 そんなこと思いもしなかったと目を丸くした。


「今でも、そう悩んでるのか?」


「今は綺麗さっぱりさ」


 母ちゃんはあっさりとした表情を浮かべた。


「なにせ母ちゃんがいなくなると、あんたは悲惨な人生を歩むのがよくわかったからね。あんたが大人になるまで絶対死ねないって、改めて思ったよ」


「そうだった。俺、人生のネタバレしちまったもんな」


 おどけたように肩をすくめた。


「このままじゃいけない。そうわかってるのに行動に移せないなら、いつでも母ちゃんに相談しな。動きたくなるまで、そのケツはちゃんと叩き続けてやるからさ」


「痛い目にはあいたくねーな」


 あまりにも心強すぎて身体が震えた。


「ねえ、ヒコ」


 側にいる葉那が呼ばれ、顔を向けた。


「自分はなにもやってこなかったって、ヒコは勘違いしてるわ。ヒコの中にはちゃんと、誰にも負けないって気持ちで積み重ねてきたものがあるもの」


「思い当たらんな。教えてくれ」


「スマ◯ラよ」


 真面目な顔で言われるものだから、ついポカンとしてしまった。


「俺の三十三年の集大成がスマ◯ラかよ!」


 次の瞬間、吹き出さずにはいられなかった。


 滑稽すぎる自分に笑ってしまったのではない。たしかにそうだと納得してしまったのだ。


 こんな俺にも、誰にも負けたくない。てっぺんを目指したいと熱量を注いで、本気になってやってきたものがあった。それがゲームといえばくだらないかもしれない。でも大事なのは、今の自分にないものを掴もうとする努力は、嘘にならなかったということだ。


 努力の方向性さえ間違えなければ、あらゆる挑戦が必ず身になる。そのときの結果には繋がらなくても、過去の自分と比べて成長できる。それこそ次に繋がる自信になるほどに。


 これから挑戦するための最初の自信に、スマ◯ラはまさにお誂え向きだ。なにせ俺は世界を相手に戦ってきた。そこらのクソガキ共には絶対に負けない自信がある。


「それにね、このままじゃいけない。そう思って動き出したヒコの打率は、百パーセントなのよ」


「なにかやったっけ、俺は?」


「私が今こうしていられるのは、ヒコがこのままじゃいけない。そう思って動いてくれたからじゃない」


 自分がその証明だと忘れていることを、葉那はおかしそうにした。


 そうだった。あの夏祭りで死にたいと口にして、心が折れた葉那を見て、俺はこのままじゃいけないと思ったのだ。可哀想だと哀れんだからではない。苦しんでいる友人をどうにかしてやりたいと思うのは、人として当たり前の感情だからだ。


 葉那のためと同じくらいに、自分のためにこのままじゃいけない。そう思ったから、動かずにはいられなかったのだ。


「真白さんが脅迫されると知ったときだって同じ。最高の結果を、二回連続でホームランを叩き込んできたじゃない」


「俺はホームランバッターだったのか」


「ヒコがこのままじゃいけないって動いたなら、絶対に上手くいく。打ち損じた後が怖いっていうなら、敗戦処理は私が一緒にするから」


「そのときは頼むな」


「任せなさい」


 後顧の憂いが消えた俺の顔を、葉那は嬉しそうに見る。


「私たちは、どこまでも言っても友達よ。病めるときも健やかなるときも、共に支え合える人生のパートナーにはなれない」


「いつかお互い、そういった相手ができるはずだ。そっちを大切にするからこそ、今までのように会うことはなくなる。就いた仕事次第では、物理的な距離が開くかもしれない。もしかしたら、年に一回会えたら御の字になるかもな」


「もしその未来で困ったことがあって、それがパートナーに言えないことなら、いつでも頼ってね。それで会うのが一年ぶりでも、十年ぶりであってもいい。久しぶりのジャンプを手に取ったら、当たり前にこ◯亀がやってるように。私がヒコの友達でいることは、いつまでも変わらないから」


 変わらぬことが当たり前。それを疑わぬ満面の笑みで告げたのだ。


 それを見守っていた母ちゃんが、今度は口を開いた。


「母ちゃんも同じだよ。いつか子は親から離れて自立しなきゃならない。でもどれだけご無沙汰になろうと、母ちゃんにしか吐き出せない悩みや愚痴があれば、気兼ねなく聞かせに来な。それこそ平日の昼間にテレビをつけたら、当たり前にタモさんに会えるように。いつでもあんたを迎えてやるからさ」


 いつでも会えることが当たり前。それが絶対だという微笑みで告げたのだ。


 視界がまた滲んできた。今度はなにも持っていない自分への不甲斐なさからではない。その逆であった。


 三十三年間、誇れるものはなにひとつ積み重ねてこれなかった。自信に繋がるものがなにもないからこそ、自分に期待ができなかった。このままじゃいけないとわかっていながらも、流されるようにできることしかやってこなかった。


 やり直した今でも、その根っこはなにも変わっていない。


 このままじゃいけない。そうわかっていながらも、それを行動に移したせいでもっと酷いことになるかもしれない。里梨と別れてから、ずっとそれだけをうだうだと考えていた。


 今までの俺だったら、行動に移せずそのまま流され諦めていただろう。


 でも、今の俺にはかつてなかったものがある。


 家族や友人、ましてや恋人もいない人生を歩んできた。このままじゃいけないとわかっていながらも、行動に移さず流れるように生きて、気づけば若さを失い、取り返しのつかないところまで来てしまった。


 こんな社会の弱者が、親ガチャだなんだと不平不満を叫んだって、返ってくるのは自己責任論だけ。おまえたちは恵まれていると叫ぼうと、なにもやってこなかったおまえが悪いとロジハラを受けるのだ。


 それでも今の俺は、やはりそういったことを言える人間は恵まれている。その主張だけは曲げない。


 彼らがガチャに成功したからではない。


 俺自身が今、恵まれた環境にいるからだ。


 それがあって当たり前。そう思っている人間にはわからない感覚だろう。


 このままじゃいけない。それがわかりながら俯き続けているときに、その背中を押してくれる家族と友人がいることが、どれだけ恵まれていることなのか。


「ありがとう、ふたりとも」


 ずっとひとりで生きてきたからこそ、今の自分は幸せものだと思ったのだ。


 だからそんなふたりに倣いたいと、ようやく腹が決まった。


「でもさ」


 だがその前に言わなければいけないことがある。


「こ◯亀もい◯ともも、十年後には終わってるんだ」


「嘘でしょ!?」


「嘘だろ!?」


 ふたりの例えが不吉すぎたので、人生のネタバレしたのだ。

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