50 俺のために争わないでくれ その2

「えっと……」


 ようやく里梨の変化に気づいたのか、百合はキョトンとした表情を浮かべた。変化にこそ気づいても、その原因に思い至らないのだ。


「ないって、なにがですか?」


「なにがって……百合は私の、恋人だよね?」


「はい。わたしは里梨の恋人ですよ」


 恋人という言葉を口にされたのが嬉しかったのだろう。里梨の雰囲気とは程遠い、調子外れの微笑みを浮かべた。


 それが癇に障ったとでも言うように、里梨は引きつった顔を歪めた。


「だったら、なんで当たり前のように男を家に泊めたりするの? それもなんの悪びれもせずにさ」


「なんでって……愛彦くんはお友達ですし。別に悪いことなんて――」


「それがおかしいって言ってるの!」


 遮るように里梨は声を荒らげた。


 百合はビクリとした。こんな里梨を見るのは初めてなのか、怯えたように狼狽えている。


 そんな百合の出方を待つかのように、里梨の眼光は睨めつけるかのように鋭かった。


「そ、それがおかしいって言うなら……」


 顔を俯かせながらも、百合は振り絞るように口を開いた。


「里梨だって恋人になってからも、友達の家に泊まりに行くじゃないですか」


「いやいや。友達って言っても、相手は女だよ? マナヒーを泊めるのとわけが違うじゃん」


「里梨の言ってることは、恋愛対象になるような性別の相手を、家に泊めるのは不味いってことですよね? だったらなにが違うんですか? わたしたちは女同士ですよ?」


「全然違うよ! 私は……廣場さんと違うから。好きになった相手が百合だったってだけで、女が好きだとか……友達をそういう風に思ったことなんてないから」


「廣場さんの話を出すなら、それこそなおさらじゃないですか。愛彦くんと廣場さんは、たとえ異性であっても、同性の友達のような関係を築けてますよ? わたしは愛彦くんと、そういうお友達になりたいだけなんです」


「無理だってそんなの……だってマナヒー、憧れなんて言葉で線は引いてくれてるけど、私たちのこと女の子として好きなんだよ? その時点で廣場さんとのような関係は築けないよ」


「そんなのわからないじゃないですか」


「わからないとか、わかるとかじゃなくてさ。マナヒーが私たちを女の子として見ているんだから、最低限の線引きってあるじゃん。なんでわからないかな……?」


「……わからないですよ。なんでそんなに里梨が怒るのか……わたしには、わからない」


 お互いの主張のぶつかりあいは、どんどんエスカレートしていく。


 里梨は顔を真っ赤にしながら、鞄や紙袋を掴むその手が強い握りこぶしを作っていた。


 一方百合はなぜこんな風に責められなければならないのか。まるで理不尽に晒されているかのような面持ちだ。


 深刻なまでの空気感がこの場を包み込んでいた。


 このままでは不味い。決定的ななにかが終わるかもしれない。


 今この場でそれをどうにかできるのは、俺だけだ。なにをしたらこの空気が覆るのかわからず、それでもこのまま黙っていることはできなかった。


「お願いだ……」


 ふたりの間に割って入ると、


「俺のために争わないでくれ!」


 ずっと練習してきたものが自然と出てきたのだ。


 なぜ俺のせいで大切な人たちが争わなければならないのか。その悲しみを背負いながらも、逃げ出すことなくその間に立つ覚悟。ふたりが争うくらいなら、俺を殴ってくれと示したのだ。


「そうだよ……」


 パン、という乾いた打音が二月の空に響いた。


 あらぬ方向に向いた顔は、里梨が持っていた紙袋が飛んでいくのを見届けた。


 一体なにが起きたのか。


「そもそもマナヒーが悪いんじゃん! 私がなんでもかんでも許すと思って、調子に乗ってさ!」


 諸悪の根源を責め立てる里梨の怒声。


 ジンジンとした熱が右頬に宿ったところで、なにが起きたのか気づいた。


 里梨にビンタされたのだ。


 そして俺は思い出した。


 そうだった。このふたりは俺のせいで争っているのだと。


「なにしてるんですか里梨!」


 そして俺が注いだ油は、勢いよく燃え盛った。


「手を上げるなんて、いくらなんでもどうかしてます!」


 今にも詰め寄らんほどの剣幕で、百合は里梨を責め立てた。


「そもそも愛彦くんを家に呼んだのはわたしですよ? 怒る相手が筋違いじゃないですか!」


「筋違いでもなんでもない! いくら呼ばれたからって、恋人がいる相手の家に泊まるなんて調子に乗ってる証だよ! マナヒーはそのくらい、弁えてるって信じてたのに……!」


「里梨は愛彦くんが泊まったことに怒ってるんですか? だったら元々愛彦くんは、泊まる予定じゃなかったんです。あの雨に降られて、電車も止まって、帰ろうにも帰れなかった。愛彦くんは最後まで帰る手段を探していたけど、どうしようもなかったんです。仕方……ないじゃないですか。それでも里梨は、愛彦くんを泊めるべきじゃなかったって言うんですか!?」


「……っ! そもそも百合の家に上がること自体、おかしいんだよ。それが不味いことくらい、普通はわかるでしょ!?」


 百合の剣幕に押された里梨は、その怒りをそのまま俺にぶつけてきた。


 理不尽でもなんでもない、正当な怒りである。一番悪いのは俺だ。


 なんでもかんでも里梨が許してくれるものだから、気づかぬ内に調子に乗っていたのだ。百合が里梨のために頑張っているから、それを手伝うという免罪符にして浮かれていたのだ。


 百合の家に上がるのが不味いのを忘れるなんて、本当にどうかしている。だって俺は、誰よりもその苦しみをわかっている。文字通りそれが死ぬほど辛いことだと、身をもって体験しているというのに。


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 推しの家に男が上がり込んだのを知って、俺は脳破壊されたではないか。恋人という立場ならなおさら許せないだろう。


「愛彦くんはなにも悪くありません! 愛彦くんに手を上げたことを謝ってください!」


 こんなどうしようもない俺を、百合は精一杯かばってくれる。それこそ噛みつかんばかりに味方してくれる。


 その心は嬉しいが、それだけはダメだ。


 百合はそれをわかっていない。そんなことをしたら、ますます里梨の立つ瀬がなくなる。この流れはますます悪い方向へとしか向かわないのだ。


「そうやって……愛彦くん愛彦くんって……百合もおかしいよ」


 今度は里梨が顔を俯かせた。頬を伝った雫が、ポツポツと地面を濡らした。


 里梨は間違っていない。おかしいのは俺たちのほうだ。


 俺は調子に乗って浮かれたから。


 百合は年相応の常識が噛み合わない。


 間違っているのは俺たちのはずなのに、それでも勢いに押されてしまった。


「もしかして百合ってさ――」


 常識もなにも通じないのなら、感情に任せて走るしかない。


 どちらが悪いとか、悪くないとか、そういう話ですらなくなって、たとえそれが傷つけるだけの言葉であっても、責められずにはいられないのだ。


「私なんかよりマナヒーほうが好きなんじゃないの?」


 そんな言葉を真に受ける相手だということも忘れて。


 地面になにかが落ちる音がした。


『明日のバレンタイン、里梨の顔が楽しみだな」


『はい。本当に楽しみです』


 その楽しみが詰め込まれた紙袋が、力を失った手から落ちたのだ。


「……里梨、それ、本気で言ってるんですか?」


「あ……」


 悲しいとか、辛いとか、怒りとか、そんな感情すら浮かんでいない呆然とした百合を見て、里梨はハッとしたように震えた。


 自分の吐き出した言葉の意味を、今になってわかったのだ。本気で言ったつもりではないなによりの態度あかしである。それでも今の里梨には、その言葉を撤回し、謝る余裕がなかった。


 言葉を探すようにゆっくりとかぶりを振りながら、一歩、二歩と下がって、ついに居たたまれなくなった里梨はその場から逃げ出した。


 そんな背中を追う百合の顔は、呆然としたまま変わらず。しかしその瞳からは涙を零していた。


 本来交換されるはずだったふたつの紙袋が、虚しく地面に転がっていた。




     ◆




 最悪な形で終わりを迎えてしまったバレンタイン。


 ふたりが廊下ですれ違ったときは、どちらともなく気まずそうに顔を逸らしていた。ただ日々を重ねるに連れて、気まずさは薄れていったのか、ついにはその顔を向けることすら互いになくなっていた。


 里梨との仲を取り持たないといけないとわかっていても、その術はわからないし、今の百合には俺しかいない。離れてしまった里梨との時間を埋めるように、百合といる時間は増えていた。それこそ放課後も、土日も百合の側にあり続けていた。


 ただし家に上がることもなければ、家に呼ぶこともない。学年末テストが近いこともあり、学校や図書館などで一緒に勉強しているのだ。


 そうやって一週間、二週間、そして月が変わってもふたりの仲はこじれたまま、変わることなく日々だけを重ねていた。


 テストが終われば、百合となにをすればいいのだろうか。里梨との関係をこのままにして、仲良くするわけにもいかない。かといって、いつまでも一緒にお勉強というわけにもいかないだろう。


 どうしたらいいか。


 そんな悩みを抱えたまま、ついにテストは終わりを迎え、


「守純、俺たちはおまえに決闘を申し込む」


 放課後に呼び出された俺は決闘を申し込まれていた。


 その原因はなぜか。


「お願い……」


 それはもちろん、


「私のために争わないで……!」


 この悪魔が原因である。

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