58 バタフライエフェクト

「ただいまー」


 勝手知ったる友人の家。


 我が家の鍵を持っている葉那が帰ってきた。


「お帰り葉那ちゃん。テストはどうだった?」


「ヒコの下とはいかないけど、一緒に名前が載るくらいの出来ですね」


 夕食の準備をしている母ちゃんのほうへ、葉那の足音は向かっていく。


「今日のご飯はなんですか?」


「チキン南蛮だよ」


「やったー! おばさんのチキン南蛮、昔から大好き」


「テストも終わって、お疲れ様だからね。今日は沢山揚げるから、楽しみにしてな」


 母ちゃんのチキン南蛮は、葉那だけではなく俺の好物だ。南蛮酢につけるのは一枚肉ではなく、大ぶりに切った唐揚げ。それを大皿に乗せ、各自取った肉にタルタルソースを好きにかけるのが我が家のスタイルだ。


「手伝いますけど、まだやること残ってますか?」


「手伝ってくれるのは助かるけど……」


 母ちゃんは次の瞬間、呆れた声音を出した。


「今はこっちより、そこで寝っ転がってるのをなんとかしてほしいね」


「そこで――わ、ヒコいたの!?」


 振り返った気配を見せた葉那は、ソファーで横になっている俺に気づいて驚いた。


「帰ってきたときからずっと上の空。着替えもせずに寝っ転がって、なにを言っても生返事でね。テストで大きなミスをした……わけでもないんだろ?」


「真白さんより上なのは確定だって言ってたくらいだから、それはまずないですね」


「かといって、前に気持ち悪い言葉を使ってたときとは様子が違うし」


 気持ち悪い言葉を使ってたときとは、百合にガチ恋した日のことだろう。


「とりあえず葉那ちゃんが帰ってくるまで、放っておいたんだけど。これがこんな風になった心当たりはあるかい?」


「下駄箱で別れたときは、『あー、楽しかった』ってくらいの様子でしたから……」


 足音がこちらに近づいてくる。


「どうしたのよ、ヒコ」


 ソファーの背もたれ側から、葉那が覗き込んできた。


 帰ってきてからずっと、シャワーどころか着替えすらやる気が起きなかった。だが心配そうにかけられた声を無視する気までは起きなかった。


「帰りにさ、里梨と会ったんだ」


「上透さんと?」


 声こそ疑問形であるが、葉那は得心がいった顔をした。


 バレンタインに起きたことについては、葉那にはすべて話している。俺のせいでふたりが仲違いしたと説明したときは、バカにすることもなければ呆れることもしなかった。ただ、『私にできることがあったら頼ってね』と言ってくれたのだ。


「その様子だと、散々言われたようね」


「いや、むしろその逆だった」


「逆?」


「あれはしょうがないことだった。ついカッとなった自分が悪かったって、謝られた」


「上透さん、人間できてるわね」


 葉那の口ぶりはしみじみとしたものだ。


 あれはしょうがないことだった。でも里梨の怒るのも無理はない。それが葉那の考えだ。当事者である里梨が許すどころか謝ってきたことに、器の大きさに敬服したようである。


「晴れてふたりは元鞘に戻る……って感じの顔じゃないようね」


「自分が側にいたら、百合のためにならない。……これからは遠巻きから、その幸せを祈ってるってさ」


「ためにならないって……どういう意味?」


 さすがの葉那もこの言葉だけで、里梨がなにを思ったのかは通じなかったようだ。だから里梨がそう決断するに至った経緯を、ぽつりぽつりと語った。


 百合がどのように育ってきたのか。その家族のこと。


 当時傷心中だったら里梨が、どのように百合と出会い、どんな思いで友達になろうと決めたか。百合の想いはただの依存心。それを知りながらも、魔が差したばかりに百合の気持ちを受け入れてしまったこと。


 友達から恋人になってしまったことで、隠れるようにしか一緒にいられなくなった。俺という友達ができたことで、里梨ひとりに依存せずとも、百合は楽しい時間を築けるようになった。それを見た里梨は、この笑顔をずっと奪ってきたと後悔したこと。


 だからこのまま自分は百合から離れる。そしたら今度は俺ひとりに依存するかもしれない。その先で百合がどうするかわかった上で、


『だからマナヒー、百合のことお願いね』


 すべて俺に託したことを、かいつまんで葉那に話した。


 それを聞き届けた葉那は、すぐになにかを言うことはなかった。


 百合と付き合えるかもしれないなんて、よかったじゃない。そんな軽口すら叩かないのは、俺が真剣に悩んでいるとわかっているから。茶化すことをせず、真面目に向き合おうとしてくれているのだ。


「やっぱり、百合の世界に男が絡むとろくなことにならんな」


 そんな間に耐えきれなかったのは俺のほうだった。自嘲気味に声を上げた。


「俺がいなけりゃ今頃、ふたりは仲良く幸せでいられたはずなのに……」


「それは違うわ」


 語気こそ穏やかなものだが、強くたしなめるように葉那は言った。


「ヒコがいなかったら、真白さんはあの男のせいで不幸になっていた。ヒコがしたことは正しいことよ」


 それを忘れてはいけないと、葉那は言ってくれた。


 たしかに伊藤の件については、俺が動かなければ百合は酷い目にあっていた。それは間違いない。間違いないのだが、


「違うんだ……俺がいなかったらそもそも、あのクソ野郎に目をつけられるどころか、ふたりは付き合うことなく、友達のままでいられたんだ」


 そもそも俺がいなければあんなことも起きなかったのだ。


 その意味を理解できずに、葉那は目をパチパチとさせた。


「……どういう、こと?」


「小四の運動会、クラスリレーをやったときのことは覚えてるか?」


「ええ。最後にヒコが盛大にずっこけて、一位になったやつでしょ?」


 急に話が変わったことに戸惑いながらも葉那は答えた。


「俺は覚えてないんだけどさ、そのときはクラスで一致団結ムードだったんだろ?」


「転校する子のために絶対に一位になるぞ、って。その子の名前は忘れたけど、盛り上がったのはよく覚えてるわ」


「その転校した子が、里梨なんだ」


「そうなの!?」


 目が飛び出そうなほどに葉那は驚愕した。


 当時の葉那はマサという男子だ。女子のことはやはり、思い出に薄かったようだ。


「里梨がさ、俺に渡すバトンを落としたんだろ?」


「あのときは可哀想すぎて、クラスメイトたちの雰囲気はあれだったけど……ヒコが一発逆転して、大盛りあがりだったわ」


「そのときにさ、俺のことを好きになったって。ずっと大切にしてきた、初恋の思い出だってさ」


「へー。あの上透さんがね」


 微笑ましそうな葉那は口端を上げた。


「夏休み前に、俺が百合ヶ峰にいるって知ったとき、びっくりしたようだ」


「ヒコのこと、今でも好きだったんだ」


「いや、小学生の初恋だからさ、今も恋愛感情を抱いてたわけじゃない。でも俺が里梨のことを覚えていて、昔の話をキッカケに仲良くなった先で、俺に恋をしたら素敵だなって思ってたらしい」


「まさに恋に恋する乙女ね。そういうロマンチックなの、女の子は好きだからね。気持ちが盛り上がっちゃうのも仕方ないか」


「盛り上がりすぎたのが問題だったんだ。勝手な期待をしたせいで……それを打ち砕かれたときのダメージがでかかった。それで負った心の傷のせいで、魔が差したらしい」


「心の傷って……ヒコ、知らないうちに何をやらかしたのよ?」


 俺が進んで人を、それも女の子を傷つけるような人間ではないのは、葉那もわかってくれている。だからこそ里梨にそこまでの傷を負わせたことが、信じられないと驚いている。


「言っとくがな。半分はおまえの責任だからな」


 自分は絶対に関わってないと他人事の顔をしているから、ハッキリと言ってやった。


 途端、不意打ちを食らったように葉那は眉をひそめた。


「は? なんでそこで私が出てくるのよ」


「夏祭りのとき、開き直ったおまえが真っ先にやったことは忘れてないよな?」


「もちろん。ヒコを馬鹿にしてきた連中に、私という美少女とラブラブしてるところを見せつけて、嫉妬を煽ったことでしょ?」


 直前の話も忘れて、ニヤニヤと葉那はほくそ笑んだ。


「あんときのあいつら、顔を真っ赤にさせて傑作だった。嫉妬全開で、大成功だったわね」


「そうだな、あの嫉妬を煽る遊びは大成功だった。……それこそ、あいつら以外の嫉妬を買うほどにな」


「あいつら以外って……まさか」


 ここまで言わて、ようやく気づいてくれたようだ。


「あの日、俺たちがラブラブカップルを演じていたのを、里梨も見ていたんだ。それこそ自分がこうなりたかった光景だったって……嫉妬で枕を濡らしたとまで言われた」


「それで傷心中で、魔が差したってことは……」


 葉那の顔がどんどん引きつっていく。それこそ深い責任に苛まれていくように。


「そうだ。俺たちが嫉妬を煽る遊びに興じたせいで、あの百合カップルが生まれたんだ」


「嘘でしょ……」


 人の人生を狂わせた。その責任が重くのしかかったように葉那は肩を落とした。


 悪魔でもそんな責任を感じるのかと、それはそれで驚いた。できればその人間らしい善良性を、日景たちにも向けてもらいたいものだ。


「待って」


 なにかに気づいたように、葉那はピクピクと痙攣した目で覗き込んできた。


「もしあんなことをしなかったら……今頃ヒコは、上透さんと付き合えてたかもしれないってこと?」


「くそっ、どうしてこうなった!」


 痛すぎる頭痛に頭を抱えてしまった。一粒で二度痛い。


 やはり悪い行いには悪い結果がついて回る。


 タイムリープの醍醐味とばかりに、起こしてしまったバタフライエフェクト。自分の浅はかな行動のせいで、人の人生を狂わせてしまう。シ◯タゲの主人公オ◯リンの苦悩が、痛いほどにわかってしまった。

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