57 都合のいい人形になんてしたくない

「もしあのとき、その気持ちは違うよって教えてあげられたら、百合には今頃沢山の友達ができてたかもしれない。私なんていなくても、寂しい思いはしなかったはずだった。……それこそ、今の百合のようにさ」


「そんなことない……そんなことないんだ、里梨」


 里梨からは見えていないだろうが、それでもかぶりを振って否定した。


「あれ以来さ、わかりやすいくらいに百合は寂しそうにしてるんだ」


「どんなときに?」


「放課後や土日とかさ、ふたりでずっとテスト勉強してきたんだけど……別れるときには、必ず寂しそうな顔を見せるんだ。今まではそんなことなかったのに。やっぱり里梨といられない穴は、百合にとっては大きすぎるんだ」


「でもそれってさ、マナヒーが側にいるときは寂しくないってことでしょう?」


 そんなことはない。そう言い切れずに、声が詰まった。


「今の百合はさ、私といられない時間が寂しいんじゃない。ひとりでいる時間が寂しいだけ。百合はもう、きっとそれに気づいてる。私がいない分の穴は、マナヒーさえいれば塞がるってさ」


「そんなこと――」


「絶対ない。心からそう言い切れる?」


 肩越しに振り返った里梨の横顔に、言い返すことはできなかった。


 あのバレンタイン以来、ずっと百合に寄り添ってきた。寂しそうな顔を見せるのはいつだって別れるときだ。それ以外はそんな顔を見せたことがないから……絶対にないなんて、自分でも信じていないことは口にできなかった。


「百合の寂しそうな顔なんて、友達だった頃からずっと見てきた。恋人になってからもそれは同じ。そんな百合が変わったのはね、マナヒーと友達になってからなんだよ?」


「……え」


 思ってもいないことを告げられ、目を丸くした。


「今までの百合はさ、一緒にいられなかった時間を埋めるようにくっついて、甘えてきたの。でもマナヒーと友達になってからは、それが控えめになってさ。この前は愛彦くんとこんなことを話したとか、愛彦くんと今日はこんなことをしたとか、私といられなかった時間はなにをしていたのか、嬉しそうに教えてくれるんだ」


 そのときの百合が目に浮かぶ。


 お昼休みにふたりでいるときは、この前里梨とこんなことをしたとか、昨日は里梨が泊まりにきてくれたとか、今度里梨とお出かけするんだって。里梨との過ごした時間を、楽しそうに話していた。


 いつも別れるときは、また明日って笑ってくれる。他にも一緒にいてくれる相手がいるから、今みたいに俺がいなくても寂しくないのだ。


 俺と友達となったことで、百合の興味が割かれたのではない。里梨ひとりに依存しなくても、寂しさを埋められる時間が増えたのだ。


 恋人さとりがいなくても友達おれがいる。男女の組み合わせだから不健全に見えるが、ひとりの相手に依存しない関係こそが本来健全なのだ。家族や友達、そして恋人。特定のひとりを大好きになるのはよくても、特定のひとりにだけ依存して、唯一の喜びにしてはいけない。


 依存先を失ったとき、それこそ死んでしまうような苦しみに苛まれるから。文字通りそのせいで、俺の三十三年の幕が閉じた。


「そんな私がいない時間を、楽しそうに語る百合を見てさ……私はこの笑顔を、ずっと奪ってきたんだなって後悔しちゃった」


 あのとき魔が差さなければ、もっと早くこうして笑っていたはずだった。それを見せつけられたと、里梨は自嘲気味に笑った。


「このまま私が離れたら、百合はどうすると思う?」


「どうするって……」


 その問いに言葉が詰まった。


 わからないのではない。むしろその逆。わざわざ口にしなくても、俺たちが考えている答えが同じ。わかりきっているからこそ、それを口にするのが憚れた。


「今の百合には、マナヒー以外側にいてくれる人はいない」


 俺の口からは言えないか、と言うように里梨は口を開いた。


「だから寂しさを埋めるため、マナヒーに側にいてほしくて、マナヒーを繋ぎ止めたくて……マナヒーが好きだって言う日が、必ず来るから」


 里梨は茜色の空を、黄昏るように見上げた。


「そのときはさ、その気持ちは依存心だって教えて上げて」


「それでもいい言ったら、どうすりゃいいんだ」


「そのときは百合を受け入れてあげて」


 受け入れろと言われて絶句した。


 百合と恋人になれと言われたのだ。その席は里梨が埋めているはずなのに。


「マナヒーは百合のこと、好きなんでしょ?」


「好きは……そうだけどさ。でもそれは、憧れであって」


「その憧れに、手を伸ばしていいんだよ。遠慮するものなんて、もうなにもないからさ」


「なにもないって……」


 その言葉が、ただ悲しかった。百合との関係が既に終わったものだと告げられたようで。ただ胸が苦しくなった。


 里梨が本当にその気だと言うのなら、きっとこの先、百合は必ず俺を好きだと言ってくるだろう。自惚れでもなんでもない。だって今の百合には俺しかいないから、必ずその寂しさを埋めたがる。


「そんなのダメだ。そんな風に百合を受け入れることはできない」


 その想いは恋でもなければ愛でもない。


 これで百合を受け入れたら、里梨がしてしまった後悔、同じことの繰り返しになってしまう。


 自分のためになんでもしてくれる女の子。自分のことが大好きで、自分を全肯定してくれる。自分のお願いだったら、なんでも喜んで引き受けてくれる。ほしいものはすべて差し出してくれる。


 妄想し続け、夢にまで見てきた都合のいいりそうのヒロイン。


 それを目の前に差し出されたが、


「俺は……百合を都合のいい人形になんてしたくない」


 手に取りたいなんて微塵も思えなかった。欲望のままに、百合を汚すような真似だけはしたくなかったのだ。


「それは絶対にならない」


 そんな俺に向かって、里梨は力強く言った。


「だってマナヒーは、私の失敗をちゃんをわかった上で、百合の幸せを考えてあげられる人だから。自分にだけ依存させるのはよくない。百合には友達が必要だってわかってる」


「わかってるのと、できるのはまた別だ。俺は女子に嫌われてるからさ。俺といると余計に、百合に友達ができなくなる」


「マナヒーには廣場さんがいるじゃん。百合を紹介してあげて」


 葉那を近づけると百合の純粋な心が汚れる。そんな軽口を叩けなかった。


 あいつはたしかに悪魔だけど、俺の大切なものに手をかけたりはしない。俺の大切にしたいものを大切にしてくれる。俺では足らない部分を補ってくれる、いい友人関係を築けるという確信すらあった。


「私とマナヒーの決定的な違いはね、大手を振って恋人でいられるってこと。私のときみたいに、コソコソする必要なんてない。堂々と恋人だって言える。そうしたら百合は、今よりもっと楽しい学園生活を送れる」


「そうだとしても、百合の想いはやっぱり依存心だから……」


「大丈夫。始まりは依存心だったかもしれないけど、マナヒーがマナヒーである限り、その想いは絶対に本物になるから」


 そんな未来が当たり前にくる。それを告げる占い師のような口ぶりだ。


「マナヒーの神様としての誤解はさ、私がひとりでも多く解けるように頑張るから。百合が自慢の恋人ですって言えるように」


「でも、その側には里梨がいないんだろ?」


「だって今更、友達になんて戻れないもん。今の私が側にいても、百合のためにならないからさ。遠巻きからその幸せを祈ってる」


 立ち止まった背中に追いつくと、里梨がいきなり振り返った。


 俯いているからどんな表情をしているかわからない。


「だからマナヒー、百合のことお願いね」


 俺の胸に頭を預けて、里梨は言った。


 里梨はまた振り返ると、そのまま駆け足気味に去っていく。そんな背中を追うことができず、呆然としたままその場から動けずにいた。


 ふと見下ろしたコンクリートが、一箇所だけ水滴が落ちたように濡れていた。

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