56 ◯◯◯さんヒロイン
「ふたりの出会いについては、百合に惚気けられたよ」
「それなら話は早いね。……じゃあ、百合の家族のことは?」
里梨は声をワントーン落としながら、鞄を掴んだ後ろ手に力を入れた。
「なーにが、誰の特別にもならない高嶺の白百合だ、ってなる話だった」
あのときの里梨の気持ちがわかった。それを告げるように言った。
「百合は、誰の特別にもならないんじゃない」
人は生まれたら、真っ先に自分を特別扱いしてくれる相手がいる。それは里梨にも、葉那にも、そして弱者男性として生きてきた俺にすらいた。でも、百合にはその相手がいなかった。
自分を産み落とした相手には先立たれ、その種を植えたものからは相手にされず……そして母親だと信じてきた相手の特別ではなかった。最初からなる余地などなかったと知ったのだ。
母親の気を引くことだけを目的に頑張ってきたから、友人を作ることもしてこなかった。だから百合は――
「誰の特別にもなれなかったんだ」
誰の特別にもなれなかった孤独の白百合だったのだ。
百合のキャッチコピーを考えた奴は、そんな気はなかったかもしれない。でもその真実を知ると、そんな百合の人生を揶揄するようにしか聞こえなくなっていた。
「なんかさ、ムカついちゃうよね」
言葉とは裏腹に、里梨の声は少し弾んでいた。そのときの自分の気持ちの理解者、百合のことを想う仲間が増えたと喜ぶかのようだ。
「自分を大事にしてくれる人がいなかった。だから百合は自分を大事にできない。あんないい子がさ、そんな風に生きてるんだよ?」
百合は豪雨に打たれながら、急くわけでもなく帰路に着いていた。それを目撃した里梨は、微笑みながら百合にこう言われたのだ。
『この雨で濡れて困るものがありませんから』
それは自分自身を含めての言葉だった。
目的を失った百合は、自分を大事にすることができなくなっていたのだ。
「あんなに頑張ってきたのに、これからも幸せを知らないまま、未来に期待もできずに、貴重な青春を送るんだと思ったら……それが、許せなかったんだ」
「だから、絶対に笑わせてやるって決めたのか」
「うん。あれはもう、一種の意地だね。百合は報われなきゃ、絶対に嘘じゃんって」
ずっと上向きだった里梨の顔が、ふと地面を見るように落ちた。
「……今思えばさ、自分より可哀想な子を救うことで、胸の穴を埋めようとしただけなんだよ。私はただの、百合の不幸を利用しただけの偽善者なんだ」
自嘲気味に百合は言った。
「なんでそんな風に、自分を卑下するんだ」
なぜ里梨が、自分を責めるのかがわからなかった。
「報われなきゃ絶対に嘘だ。その感情が、そのときの里梨を突き動かした。その思いが百合を幸せにしたんなら、それでいいじゃないか。今思えばって反省するのはさ、やらかしたときだけで十分だろ」
「たしかに私は、百合に幸せを教えてあげることはできたよ。それこそ幸せの中で抱いた感情を、百合が勘違いしちゃうくらいには」
「勘違い?」
「百合に生まれた私への想いはね、恋でもなければ愛でもない。ただの依存心なの」
里梨はふいに立ち止まった。
「雛鳥が始めて見たものを親鳥だと思うように、初めて幸せを与えてくれた人への想いを、恋愛感情だと誤解しちゃっただけなの」
「そんなこと……」
ない、と言い切ることができなかった。気休めみたいな適当な言葉は、今この場に相応しくなかったからだ。
百合が今日までしてきた、友人としての俺への接し方。あれはもう、男を誤解させても仕方ないものばかり。恋人がいる女の子が取っていい距離感ではない。
それもこれも、里梨から学んだものをそのまま実践したせいだ。
自分を持っていないのではない。ただ、学校というコミュニティで生きていれば、当たり前に獲得すると
恋愛弱者の男がちょっと女に優しくされただけで、相手が自分を好きなのだと思い込む。まるで幼子のまま、身体だけが大きくなってしまったかのように。百合は純粋すぎるところがあるのだ。
それが今よりもっと、純粋だったと考えると……たしかに里梨の言うことは間違いないことかもしれない。
その人の側にいるだけでこんなにも幸せでいられる。だから好きになってしまった。もっと側にいたい、自分に繋ぎ止めたいと思ってしまっただろう。経験が足らない子供もなりに、その気持ちについて沢山考えた。
こんなにも相手のことを想ってしまうのだから、これこそが恋だ。里梨を愛しているのだ、と。
「百合に好きだって、ずっと側にいたいって言われたとき……そんなのはわかってたんだ」
恋愛と友愛の違いが、百合にはわからなかったのだ。
「百合に、その気持ちは違うよ。百合は私しかいないから、友達への好きを勘違いしてるんだよって、ちゃんと教えてあげようとしたんだけど……魔がね、差しちゃったんだ」
「魔が差した?」
「こんなにも純粋で、真っ直ぐないい子がさ、私にだけ大好きを向けてくれる。私といることが人生の幸せだって思ってるほどに……それがね、嬉しかったんだ」
里梨は声を震わせた。
「ぽっかり空いた穴が、なんか満たされちゃってさ。もう女の子同士でもいいやって、思っちゃったの」
胸がえぐれるように痛かった。その穴を空いたのは、俺たちのせいだから。
「それで恋人になったのはいいけど……百合って友達との付き合い方とか、全然だったから。私で慣れならみんなに紹介して、もっと沢山の友達を作ってあげようって思ってたのに……私たちの関係がバレたくなくて、今まで以上に人目から隠れちゃってさ。私といられない百合の時間を、ますます寂しいものにしちゃったの」
知っている。俺はずっとそんなふたりを覗き見してきたのだ。
周りの目を隠れての逢瀬。その後ろめたさが背徳感になるなんていうのは、ただの他人事だから言えること。そういうのは退屈な日常にもたらすスパイスだからいいのだ。この空の下で、堂々と手を繋ぎたかったに決まっている。
「私には家族や友達がいる。でも百合には私しかいない。だから私だけを見て、私だけを愛してくれる。私の言うことはなんでも聞いてくれるし、私のためならなんでもしたいって思ってくれる。……百合をそんな、私だけのお人形さんにしちゃったの」
悔いるように、里梨は強い握りこぶしを作った。
ああ、たしかにそれは健全な関係とは言えないだろう。里梨の気を引くために頑張る女の子。里梨のためならなんでもする。里梨を全肯定してくれる。里梨を守るためなら、その身を差し出すことさえ厭わない。
百合のような女の子はまさに、かつて俺がほしいと夢見てきた存在。
主人公に尽くすため用意された、都合のいいお人形さんヒロインである。
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