55 勝手な期待
バトンを落とした子は、俺のことが好きになって、今でもその初恋を大事にしていると言っていた。それこそもし覚えていたら、その子と付き合えたかもしれないと。
その子が里梨だったと、今明かされた。
嬉しいとか、感動したとか、そういうものをすべて通り越して、そういうことだったのかと納得してしまった。
かつて百合が語った、里梨との出会い。
『私ね、ちょっと今、傷心中なんだ』
その意味が、繋がってしまったのだ。
「どう、思い出してくれた?」
「……ごめん。小四以前の記憶は、ほとんど覚えてないんだ」
「はぁ……がっかり」
最後の希望が打ち砕かれたように、里梨はため息をついた。
母ちゃんが亡くなってから、輝いていた時期なんてひとつもない人生だった。昔の話をする相手もおらず、かつ母ちゃんの喪失があまりにも大きすぎて、子供時代を懐かしむことすらしなくなっていた。
だからかもしれない。里梨にとっては六年前の思い出かもしれないが、俺にとっては二十九年前の出来事。小四以前のクラスメイトとの思い出は、俺の中にはもう残っていなかった。
それこそ里梨が大事にしてくれている思い出すらも、未だにピンときていない。
ただ、それが申し訳なかった。
「どんな思い出だったか、聞かせて貰えないか?」
「そしたら思い出せそう?」
「いや、多分思い出せない」
「じゃあ意味ないじゃん」
「それでも、ちゃんと知っておきたいんだ。里梨が大事にしてきてくれた、俺の思い出を」
「……わかった」
しょうがないなと言うような口ぶりで、後ろ手を組んだ。
「でも、大筋は前に話したとおりだよ」
その場で身を翻し、里梨は歩き始めた。
「私ね、クラスの友達が大好きだったから、引っ越さなきゃいけないって言われたときは、凄いショックだったの。だから最後の運動会で……クラスリレーだけは絶対に勝って、いい思い出を残したかったの。クラスのみんなもね、私のために絶対に一番になるぞ、ってムードでさ。みんなと別れなきゃいけないのは辛かったけど、同じくらいそれが嬉しかった」
懐かしむように里梨は空を見上げた。
「そうやってみんなが私のために頑張って、一番で繋いでくれたバトンを……よりにもよって私が落としちゃってさ。ビリになったバトンをマナヒーに渡したときは、半泣きになっちゃったんだから」
「でも俺が全員抜き去って、華麗にゴールテープを切ったってわけか」
「ぷっ……ふふっ」
里梨が吹き出すのを堪えながら、肩越しに振り返った。
「マナヒー、ほんとなんにも覚えてないんだね」
「違ったのか?」
「あれを覚えてたら、華麗にゴールテープを切ったなんてとてもじゃないけど言えないね。マナヒーはゴールテープを切るとき、大ゴケしたんだから」
「最後の最後でピエロったのか、俺は」
ビリからゴボウ抜きして、調子に乗ってゴールを迎えたところ転倒した。会場中が爆笑の渦に包まれた、そんな光景が目に浮かぶ。
「ううん、マナヒーはピエロなんかじゃなかったよ」
俺の妄想を振り払うように、里梨はかぶりを振った。
「最後の最後で先頭に追いついて、ついに並んで、絶対勝ってやるって前のめりになった分の僅差で、マナヒーは一位を掴み取ったんだから。たしかに大ゴケしたけどさ」
振り返った里梨は、右手の人差し指を振り上げ空へと向けた。
「真っ先に私に向かってこうやってくれたときは……なんかもう、胸が一杯だった」
幼き想いが心に蘇ったのか、
「あの瞬間、私はマナヒーに恋をしたんだ」
その満面には爛漫な花が咲いていた。
俺にだけ向けられる、特別な笑顔。夕焼けが差し込んだその姿はただ綺麗で、息をするのを忘れるほどに見惚れてしまった。
「なんで私が、マナヒーって呼び始めたか……覚えてるわけないか」
「ごめん」
ここまで思い出を語られても、やはりそのときのことは思い出せなかった。もしかしたら盛大にコケたから、俺の中では恥ずかしい思い出だったのかもしれない。小学生なんて、そういうお年頃だから。
「好きになっちゃったからさ、愛彦くんって呼びたくなったんだけど……本人を前に『まなひ』まで口にして恥ずかしくなっちゃってさ。そのまま勢い余って、マナヒーって呼んじゃったの」
「それで、俺はどんな反応したんだ?」
「なに言ってるんだこいつ、みたいな顔されたから慌てちゃってさ。昨日テレビでマナティー見たからごっちゃになっちゃった、って言い訳したの」
「まさに小学生の言い訳だな」
「うん。それを面白がったみんなが、マナヒーマナヒー呼び始めたから、ほんと小学生だったね」
「そうやって人に変なあだ名だけ残して、そのままバイバイしたのか。当時の守純少年が可哀想だ」
「ごめんね」
「可愛いから許す」
両手を合わせて首を傾けた里梨を、俺はあっさりと許した。
守純少年としての記憶はないので、正直他人事ですらあったからだ。
「転校先でもマナヒーのことを……一位を掴み取ってくれた思い出を忘れられなくてさ。その思い出を追いかけるように陸上を始めたの」
「百合ヶ峰のエースが陸上を始めたのは、俺がキッカケだったのか」
「私もあんな風に走りたい。最初はマナヒーに憧れて始めた陸上だったけど、走り抜ける度に次は絶対に負けたくない。必ず一番になりたい。一番であり続けたいって、本気のものになってたんだ」
「里梨とって走ることは、気づけば特別なものになってたのか」
「うん。そして特別なものを始めるキッカケになった人が、同じ高校だったって夏休み前に知ったんだ」
嬉しそうに里梨は笑った。
「知るのがちょっと遅すぎないか。始めての中間のときも、俺の名前は載ってたはずだが?」
「どうせ私の名前は載ってないから見なかったの」
「なら、期末テストでは載ったわけか」
「ギリギリね。そしたら二番目にマナヒーの名前が載ってたからビックリしちゃった」
面映そうな顔を浮かべると、里梨は再び背を向けて歩き出した。
「小学生の初恋だからさ、年相応の恋愛感情を抱いてるわけじゃなかったよ。でも、私のことを覚えていてくれて、昔の思い出で盛り上がって、それをキッカケに仲良くなって……その先でまた、マナヒーに恋したら素敵だなって。思っちゃったの」
この話は百合の口から一度聞いた。
あのときはまさか、その相手が俺だとは思わなかった。今こうして里梨の口から語られて、後悔と罪悪感に襲われた。
「あのときの私は、まさに恋に恋する乙女だったな。日が経つごとにどんどん自分の中で盛り上がって、そんな未来が当たり前にやってくる。気づけば勝手な期待までしちゃってさ」
悪い行いには悪い結果がついて回る。
「だからそれが打ち砕かれたときは、ほんとにへこんじゃった」
「葉那といたところを見たからか」
俺たちが取ったかつての行動が、今に繋がっていたのだ。
「だって私がその隣にいたかった……自分がこうなりたかったって、夢に見てきた理想的な光景だったんだもん。……いや、参ったね。あれが周りの嫉妬を煽る遊びだって言うんだから」
里梨の声音は苦々しいものだった。
「その企みは大成功だったよ。だって胸が苦しくなるほどに嫉妬しちゃったもん。それこそ枕を濡らすほどにね」
「まさか俺が、知らない内に色男みたいに女を泣かせてたなんてな。マジで罪深いな」
「ほんと罪深い男だよ、マナヒーは」
肩越しに見せた里梨の顔は、呆れたように笑っていた。
「幼い頃の初恋だし、まぁそんなものだよねって自分を誤魔化したけど……胸にぽっかり穴が空いちゃってさ。こんなこと誰にも話せないし、しばらく引きずるしかないかなって受け入れたとき……百合と出会ったんだ」
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