32 あの子は幸せ者

 買い物先に選ばれたのは、徒歩五分のコンビニではない。徒歩十分の二十四時間スーパーだ。店内に足を踏み入れると、丁度生鮮食品コーナーで値引きシールを貼る店員が、その場を後にしたところだった。俺は当初の目的を葉那に任せ、こちらに専念することにした。


 なにせ明日は休みである。お昼はなにを作ろうかと、思い馳せながら物色していると、


「あら、ヒコくんじゃない」


 思いがけない声をかけられた。


 顔を上げる前から、その声の主はわかっていた。


「あ、おばさん。こんばんは」


「こんばんは」


 上品な主婦の笑顔を拵えている、葉那の母親がいた。


 おばさんは食品棚に顔を向けた。


「こんな時間にお買い物?」


「そういうつもりで来たわけじゃないんですけど、この宝の山ですからね。折角だし、明日はなにを作ろうかなって」


「お休みはいつも、ヒコくんが作ってるんだっけ? ほんと偉いわよね。折角のお休みを、いつもお母さんのために頑張ってるんだから。大変じゃないの?」


「料理は嫌いじゃないし、休みにやるくらいなら苦じゃないですね。それに最近は、葉那もやってくれるから助かってるし」


「いい機会だから、お手伝いしながら教わってるとは聞いてたけど」


 おばさんはおずおずと訊ねてきた。


「実際のところ、どのくらいできるようになったの?」


「そうですね……家庭料理くらいなら、レシピ本があれば大抵いけるかな」


「え、そんなにできるようになったの、あの子?」


「元々あいつ、天才肌だからなー。真面目にやってればこのくらい、って感じでやってますね」


「そう……」


 少々面食らったような顔をしながら、おばさんは口元に手を置いた。知らないところで成長している子供に感じ入っているようだ。


「その内、作ってもらったらどうですか?」


「え……?」


「入学式前までろくに包丁触ってこなかった奴が、どのくらい成長したのか。そろそろ夏休みだし、昼飯あたりで試してみてもバチは当たらないですよ」


「そ……そうね。それも、いいわね」


 なんともいえない表情を浮かべながら、おばさんは眉尻を下げた。


 こちらの提案を、すんなり受け取っている様子ではない。その場ではいい案だと口にしながら、実行に移すつもりのない者の受け答えである。


 そんな釈然としないおばさんの態度に、首を傾げそうになった。


 おばさんの性格からして、『ヒコくんがそう言うなら、子供の成長を確認してみようかしら』くらいは返ってくると考えていたのだが。


 余計なお世話になるような言い方ではなかったよな?


 そこをツッコんでいいものか悩んでいると、


「あ、そうだヒコくん。元々なんの買い物に来たの?」


 おばさんは大げさな身振りで両手を合わせた。


 話をすり替えようとしているのは明らかだ。でもこういう風に出られたら、こちらも話を蒸し返すわけにはいかない。


「アイスですよ、アイス」


「もしかしてテレビを見て?」


「おばさんも?」


「フミくんがね。アイス買いに行くって言うから、付いてきちゃった。ま、ちょっと嫌な顔されたけどね」


「母親とふたりで買い物に行くのは、恥ずかしい年頃ですからね」


「男の子って、なんでそうなのかしらね? 他のお母さん方の話では、女の子はそうじゃないらしいのに」


「色んな感情がそこにはあるとして、一番は知り合いに見られたくないんですよ。ちょっとでもマザコンみたいに扱われるのが嫌なんです」


「男の子って、母親と一緒に買い物するくらいでそう思っちゃうの?」


「ガキなんですよ、男子って生き物は。なにせ学校のトイレで、大きい方を済ませるだけで笑いものになるような文化がありますから」


「あ、胸にストンと落ちたかも」


「フミもそういう文化圏で生きているから、嫌そうな顔は笑って流してあげてください」


「ええ。これからは笑って流せるわ」


 おばさんはクスクスと笑いながら、棚の向こう側に目を向けた。目にこそ入っていないが、アイスを選んでいるフミの情景が浮かんでいるのだろう。


「いいこと教えてもらったお礼に、アイスを買ってあげるわ。フミくんと一緒に選んできなさい」


「そういうことならありがたく。でも、選ぶ役目は託してるから」


「託してる? もしかしてマ……葉那ちゃんも、来てるの?」


 唾を飲み込みながら、おばさんは訊ねてきた。


「元々テレビを見て、アイスを買いに行くって言ったのはあいつのほうだから」


「そうだったの。……じゃあ、ヒコくんは」


「フミだったら気をつけろの一言でいいけど……こんな時間に、ひとりで歩かせるわけにはいかないなって」


「ヒコくん……」


 困ったように眉尻は下がっているのに、おばさんの口端は上がっていた。


「ありがとね。そうやって気を回してくれて。ヒコくんみたいな友達がいて、あの子は幸せものだわ」


「たしかにあいつは幸せものだ」


「そこは認めちゃうのね」


「素直さは美徳でしょ?」


 おばさんはおかしそうに一通り笑うと、左頬に手を添えた。


「ここで顔を合わせたら、小言を言わないわけにいけないから。今日のところはここで失礼するわ」


 小言というのは、夜道にひとりで出歩こうとしたことだ。男のときとは違うんだぞと自覚を促されるのは、葉那も楽しくないだろう。だから俺も、余計なことを言わずに付いてきたのだ。


 おばさんはアイスコーナーではなく、真っ直ぐとレジへと向かっていく。葉那と鉢合わせないように、レジ前でフミを待つつもりなのだろう。そんな背中を見送ると、陳列棚の陰からこちらの様子を伺う顔が覗いてきた。


「行った?」


「なにやってんだおまえ」


 葉那である。隣の通路からレジへ向かった母親を、陳列棚越しに目を向けていた。


「いつからそこにいた?」


「あら、ヒコくんのとこから」


「最初からじゃねーか」


「いやー、声かけようとしたら、いきなり母さんが見えたんだもん。ビビったわよ」


「なににビビってんだ」


「……ちょっとね」


 バツの悪そうに葉那は頬を掻いた。


「外じゃ、あんまり会いたくないからさ」


「会いたくない?」


 つい首を傾げてしまった。


 またどうしてと思ったが、真っ先に思い至った理由が口を動かした。


「気にしすぎじゃないのか?」


「気にしすぎ?」


「生まれ育った町だからな。おまえのことを知る奴は多いから、心配なのはわかるけどよ。隠れるのはさすがに、周りを気にしすぎだろ」


「あー、そういうことね」


 葉那はそんなこと考えてもいなかったような顔をする。


 思っていた反応とは違い、つい眉を下げてしまった。


「あれ、違ったか?」


「そうそう、そんな感じ!」


 葉那はどこか大げさな態度でそう言うと、買い物かごを押し付けるように差し出してきた。


「今なら母さんの奢りだから、会計頼むわね。私、外で待ってるから」


「お、おい」


 手を伸ばす暇もなく、葉那は逃げるように立ち去っていった。


 合流後も妙なテンションを押しつけてくるものだから、そのときの態度について、突っ込んで聞くことは叶わなかった。

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