55 お腹へった
そんな天河ヒメとの邂逅から、そろそろ二年が経とうとしている。
宣言したように一切テレビを見ていなかった俺は、年明け早々母ちゃんから、
「天河ヒメ、アイドル引退するんだってね」
世間話として聞かされた。
「は、嘘だろ!?」
「わ、ビックリした! ……あんた、そんな驚くくらい、天河ヒメのこと好きだったっけ?」
「い、いや……興味はないけどさ。えー……」
しばらくは放心状態だった。
キャリアハイでアイドルを引退して、次のステージに進む宣言は聞いていたが、こんなスピード感をもって行動するとは思わなかった。というか会社や取引先とのしがらみもあるはずなのに、そんな簡単にできるものなのかと驚いた。
俺のせいで天河ヒメ信者たちが、最悪の正月を迎えてしまった。
でも、天河ヒメの真意を聞いて、信者たちはすぐに地獄から舞い戻ってきた。引退ライブまで話題は途絶えることなく、盛り上がり続け、最高の形で天河ヒメはアイドルから身を引いた。
それからの活躍も言わずがな。テレビには出ずっぱりのようで、天河ヒメはアイドルから引退した後も、その人気は陰りをみせるどころかうなぎ登りのようだ。
他人の人生を大きく変えてしまったが、不幸にしたわけではない。むしろ幸嶋と結婚するまで世間から忘れられていたような存在が、未だ全盛期のように活躍しているのだ。もしかしたらここまでスムーズにアイドルを引退し、マルチタレントとして飛躍したのは、『俺が与えた情報×幸嶋との出会い』の科学反応が起きた結果かもしれない。
いずれ天河ヒメが幸嶋と結婚したとき、日本中の女性だけではなく、男性もが地獄に堕ちる結婚報道になるなと。そういう意味では、人の不幸を生み出す未来改変をしてしまったと、他人事のように笑ってしまった。
――あの日、天河ヒメの抱えていた悩みを幸嶋とは違う形で解決したせいで、ふたりが結婚する未来が潰えていた。それを知ったのは、来年の六月。テレビの撮影で百合ヶ峰に訪れた天河ヒメと再会したときの話である。
そんな天河ヒメから貰ったサインを、棚奥にしまったまま忘れていた。いつか正式にマサの死を告げられたとき、墓前に供えてやろうとしたのだが、マサは生きていた。
墓前に供えてやってくれと送られたものを、本人に直接渡すのもあれだが、今はこれがあって心からよかったと天河ヒメに感謝した。
「私の名前……嘘、嘘、嘘!」
あれだけ精神的に沈んでいた葉那が、一気に元気になった。いや、この場合はただ動転しているだけだ。でも叫べる元気があるのなら、それが一番だ。
「もしかして……ヒコが、書いたの?」
「そんな悪質なドッキリ、今仕掛けるとか俺は悪魔か。天河ヒメが直々に、廣場花雅という存在を認知した上で、書いてくれたものだ。ほら」
俺はサイン色紙と一緒に天河ヒメが映っているプリントシールを渡した。
それを手にした葉那は、
「あ、あ、あ、あ、え、え、え、え」
最早人語を介さぬ野人にまで堕ちてしまった。
人は大きすぎる幸福を一度に与えると、逆に現実を受け入れられないようだ。糠喜びを避けるための、コケる前の準備のようにも見えた。
五分もの間、忙しく色紙とプリントシールを見比べている葉那は、ようやくこれが現実と受け入れたようだ。
「なんで……ヒメちゃん、こんなイベントやったことないわよ」
「イベントじゃなくてプライベートだからな。しかも俺が書いてくれって頼んだんじゃないぞ。廣場花雅に届けてほしいって、天河ヒメが自発的に申し出て送ってくれたんだ。色紙とプリ代は、向こう持ちだからな」
「……ほんと、なにがあったの?」
「中二の十月だったっけな。おまえはもうこの世にいないと確信したから、その死を偲ぼうと思ってな。あの激辛ラーメンを食いに行ったんだが、たまたまプライベートの天河ヒメを見かけたんだ。困ってるところを助けたら飯に誘われて……まあ、色々あって、墓前に供えてやってくれって貰ったんだ」
「人を勝手に殺すんじゃないわよ! っていうか、助けた? ご飯に誘われた? 色々ってほんとなにがあったのよ!?」
突っ込みたい疑問が多すぎて、葉那は混乱している。痛めた頭を押さえたそうな顔をしているが、両手にお宝を持っているからそれもできない。
数時間前の今にも死にそうな姿はどこへやら。それがおかしくて、ホッとして、ふと思い出した。
「そういえば、おまえが一番好きな天河ヒメの曲、引退ライブで歌われたのか?」
「当然よ。あれは三本指に入るヒットソングなんだから。あのときは一番好きな曲が、トリを飾ったから嬉しかったわ」
「おー、マジで約束果たしてくれたのか」
「約束?」
「おまえが一番好きだった曲を聞かれてな。引退するときは、天国の花雅くんのためにラストで歌ってあげるって」
「え、いや、いくらなんでもその約束で、曲を編成したわけじゃ……あ」
「どうした?」
「最後の曲を歌う前に、言ってた」
「なにをだ?」
「この曲を最後に決めたのは、とある子のためだって。この歌、天国まで届けって……」
「天国どころか会場にいたな」
「じゃあ……本当に、あれは私のために……?」
放心したようなその顔。瞳から流れたものが頬を伝った。
ポタポタと流れていく雫。葉那が遅れてそれに気づくと、取り繕うように慌てて拭った。
「ち、違うの、これ。違うから」
「なにが違うんだ」
「……とにかく、そういうんじゃないから」
葉那は涙声ではぐらかそうとする。次から次へと溢れていくそれを恥じいってるのだ。
「なに変なところで強がってんだよ。最推しからここまでのファンサービを受けてるんだぞ。俺だったら感涙ものだ」
「そ、そうよね……こんなの奇跡なようなもの与えられたら、こうなって当然よね」
俺の顔色を伺うような態度なので、「当たり前だ」と言い切った。
もう取り繕う必要がなくなったと、葉那は嗚咽を漏らしながら涙を零し始めた。
胸元にサインとプリントシールを抱えながら、「ヒメちゃん、ヒメちゃん」と、何度も最推しの名前を繰り返した。
多分、普通に渡してもここまでの反応はなかっただろう。狂喜乱舞するかもしれないが、それでもボロボと泣くようなことにはならない。
夏休みに入ってからずっと、溜め込んでいた感情が、丸ごと溢れ出たのだろう。
男同士だからこそ、友達に泣いてる姿なんて見られたない。そうやって我慢していたものを、一気に吐き出させたいと考えたのだ。
十分くらいそうしていると、ぐぅー、という深く重くそして長い腹の音が、室内に響き渡った。
普通の女子だったら赤面ものだが、
「あー、急にお腹空いてきた」
葉那は恥じらいもなくそう言ってのけた。
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、少年のように笑った。
「今日のご飯、なに?」
「カレーだ。しかも二日目のな」
「お代わりするかも」
「今回はカレー粉からルゥを作ったからな、めっちゃ美味いぞ」
こうして夏休みが始まって以来、初めて葉那と食卓を囲んだ。四月から毎日のように共にしてきたからこそ、その時間がとても久しく覚えた。
ずっと塞ぎ込み、酷い精神状態から葉那は脱した。でもそれは、マイナスになったものがゼロに近づいただけ。振り出しにすらもどっていない。終業式に起きたことを、お互い触れないようにしているだけだ。
でも、今はそれでいい。焦る必要はない。
俺たちの関係に改めて向き合うのは、葉那が完全に回復してから。それが落ち着いてから時を見て、いずれ話し合うつもりだった。
でも、その計画は叶うことはない。
終業式の日と同じく、亀裂が入るのはいつだって突然なのだから。
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