56 不穏な噂
あの一件以来、葉那はかつての活発さを取り戻し、毎日のように遊び回っていた。
なにせ葉那はクラスの一軍女子。夏休みに入ってからすべての誘いを断り、途中からは連絡すら返さなくなっていた。友人たちは散々心配していたようで、その申開きも兼ねて、人気者は引っ張りだこなのである。
だからうちではほとんど食事を食べていない。夜遊びまではしていないから、そこは安心してお目こぼしていた。
夏休みの宿題は大丈夫なのかと尋ねたときは、後でまとめて写す、と返ってきた。既に俺の宿題を写すのは、葉那の中で決定事項のようだ。
一方、俺は夏休みの過ごし方に変化を加えていた。
なにせ葉那の問題が発覚する前から、ずっと規則正しいだけの無味乾燥な日々を送っていた。夏の日中は暑いので、朝以外のジョギングはやる気が起きず、買い物以外家にこもりっぱなしであった。夏休みの思い出は今のところ、みつき先生の保健体育の授業と、マンションの自治会の清掃活動だけである。
折角の青春真っ只中の夏休みだ。このままではいけないと一念発起し、図書館へ通うようになったのだ。保健体育の授業後、みつき先生とお昼を食べているとき、西野圭太が好きだと聞いていたからだ。
西野圭太とは小説家だ。その名は弱者男性時代から知っていたが、俺はその作家の本を一度も見たことがない。ラノベしか読まないから、西野圭太が書くようなバンバン実写化する類の作品とは無縁だったのだ。
でも西野圭太の実写化作品といえば、ひとつくらいシリーズものとして知る作品があった。それは幸嶋が主演となった作品であり、被疑者Yの尽力といえば、テレビも見なくても知るものも多いだろう。
いい機会だから、みつき先生と語り合える話題を作るため、図書館で西野作品を読み漁っていたのだ。日中に部屋のエアコンをつけなくてもいいから、一石二鳥であった。
朝から図書館に通い、昼になったらご飯を食べに帰る。そしてその後、また夕食時まで図書館に籠もる。
そんな生活を繰り返していた俺は、今日もそのリズムを違わず、お昼のため家に帰ってきていた。
「あ、やっと帰ってきたのね」
リビングに入るなり、ソファー越しに葉那が振り返ってきた。
「なんだ、いたのか」
テレビに目を向けると、天河ヒメのライブが流れていた。アイドル時代のライブのDVDだろう。
実家どころか自室で寛ぐようなその有り様。お昼ご飯をうちで食べるために、一足先に上がっていたのではない。そのもっと前からおり、いつ帰るかもわからない俺を待つため、DVDを部屋から持ち出したのだろう。
「電話も出なければメールも返さないで。今までどこ行ってたのよ」
「図書館だ」
「図書館?」
奇行に走った友人を見るような目が、俺を捉えた。
ポケットからケータイを取り出すと、たしかに葉那からの着信履歴とメールが残っていた。サイレントモードにしていたから気が付かなかった。
葉那は納得いかなそうに言った。
「図書館になんて行って、なにしてたのよ」
「図書館なんだから、図書館の本を読んでたに決まってるだろ」
「料理の本でも見ていたの?」
それなら納得だというような口ぶりに、俺はキッチンへ向かいながら否定する。
「小説だよ、小説。ここのところ、西野圭太作品を読み漁ってるんだ」
「西野圭太? 誰それ」
「本を読まない人間でも名前くらいは知っている。そんな大御所にいずれなる作家だ」
「ふーん。ヒコにそこまで言わせるとか、そんなに面白いんだ、その人の本」
意外そうに葉那は目を瞬かせる。
あくまで客観的評価ではなく、俺の主観的評価で物を語っていると葉那は捉えたのだろう。そのくらい俺が西野圭太作品に惚れ込んでいる、と。
実際、読んでいて面白いのは間違いないが、あくまでくだした評価は客観的。大御所になるのは、いずれたどりつくと決定している未来である。
葉那は不思議そうな顔をした。
「またなんで、急にその人の本を読み始めたのよ。あんた今まで、小説とかって読んでたっけ?」
「みつき先生が好きな作家らしい。語り合える話題っていうのは、やっぱり自分で作っていかなきゃな」
「またみつき先生……」
辟易したように葉那は顔をしかめた。
「なんだよその顔。そこまで呆れられる覚えはないぞ」
「呆れもするわよ。またあんた、同じこと繰り返しているんだもの」
「同じこと?」
「ほら昨日、夜はいらないって言った理由、覚えてる?」
「友達と花火大会に行ったんだろ?」
葉那はご飯がいらないときは、予定が決まった時点でちゃんと報告してくる。その理由もしっかり添えているから、俺も母ちゃんも、回復してからの葉那を心配していないのだ。
楽しいイベントを満喫してきたとは思えない嘆息を葉那は漏らした。
「その花火大会でね、会ったのよ」
「会った? 誰とだ」
「永峰くんたちと」
「永峰たちと?」
ふと、嫌な予感を覚えた
「たちっていうのは……クラスメイトたちと、ってことか?」
葉那はゆっくりとかぶりを振った。
「4引く1人は?」
「それって……」
俺は言葉に詰まった。
4とはなにを指しているのか。その答えがわからないのではない。すぐに察してしまったからだ。
百合ヶ峰一軍男子四天王である。俺はその、引かれた1であった。
頭痛が痛すぎて頭を抱えた。そんな三段活用するくらい痛かったのだ。
たしかに三人とは連絡先を未だ交換していない。でも長城は、我が家の電話番号を登録してくれているのだ。
「なんでだ……なんで長城は、俺を誘ってくれなか――はっ!」
錆びついたブリキ人形のように、カクカクと顔を葉那へと向けた。ガッカリしたかのように、葉那は首を振った。
「ヒコ。あんた昨日も一日、図書館にいたでしょ?」
「もしかして長城……」
「朝から何度も電話したけど、誰も出なかったって」
「またこのパターンか!」
その場で崩れ落ちて、四つん這いとなった。
昨日母ちゃんは、婦人会的な集まりで朝から一日いなかった。俺も昼に一度だけ帰ってきただけで……、
「あ」
「な、なに、どうしたのよ?」
恐る恐る葉那は聞いてきた。
「そういえば昼、家を出るときに電話鳴ってた」
「もしかしてタッチの差で出られなかったの?」
「いや、もう靴履いてたからさ……そのまま」
「あんたねー……」
これでもかと葉那は肩を落とした。
ゴールデンウィークの再来。いや、それ以上の失敗であった。
あそこで電話を出ていれば、俺の夏休みに青春の二文字が刻まれたはずなのに。
ケータイを持ってから、母ちゃんも葉那もなにかあれば、必ずこちらにかける。だから家にかかってくる電話なんて、どうせ大したものではないと高をくくっていたのだ。長城の可能性を一切考慮していなかった。
「ただでさえ不穏な噂が女子の間に流れてるってときに、その体たらくでどうするのよ」
「不穏な噂?」
葉那がそんなことを言い出したので、四つん這いのまま顔を上げた。
「ほら、ヒコって一学期の間に、男子たちを助けてきたじゃない?」
「ワンクリ詐欺に引っかかった奴らのことか?」
「そうそう。それでヒコは百合ヶ峰の男子たちから、神のように扱われてるわよ。なにかあったら守純を頼れって、私の耳にも届いていたくらいにね」
「名実共に、俺は百合ヶ峰のナンバー1男子になったわけか。我ながら、中学時代の扱いから大躍進したな」
「あのね、私の耳にも届いているって言ったでしょ。それがどういう意味か、わからないの?」
得意げになっている俺に、葉那は呆れたように言った。
葉那の意図がわからず、しばらく考え込んだ。その答えにたどり着く前に、時間切れを促されるように葉那は口を開いた。
「女子の間にもね、あんたがどういう経緯で、男子たちから頼られるようになったのか。しっかり広まってるのよ」
「それって、もしかして……」
「中学のときと同じ空気が、女子の間で流れ始めてるわ」
「嘘だろ!?」
愕然とした。
中学時代の俺は、女子たちから汚物のように扱われてきた。理由は簡潔にまとめると、エロのスペシャリストと認定されているからだ。
俺に話しかけられた奴は、そういう話をしている奴ら。
俺に話しかけるやつは、そういう話を求める奴ら。
これが女子の共通認識であるからこそ、男子たちは俺を輪から迫害したのだ。まさに触れたら祟られる、そんな呪いを恐れるように。いつしか俺は中学校の中で、アンタッチャブルの存在として扱われるようになった。
その悲劇がまた、百合ヶ峰で繰り返されようとしている。
「でも、なんで……。夏休みに入る前は、そんな空気なかったろ?」
「夏休みに入ってから、噂が熟成されたようね。私も久しぶりに友達と会っとき、ヒコの噂が悪い方向に広がってたからビックリしたわよ。このままだと、中学時代と同じ末路をたどるわよ」
「……そんな。俺はただ、困った男たちに手を差し伸べてきただけなのに」
「今回ばかりは、そのとおりだから困るわね」
中学時代の失敗は、積極的に猥談に混ざる。そして無修正の手に入れ方を広めてきたことにある。それらすべてを反省し、同じ過ちは繰り返していない。ただ、騙されている自覚もなく、不幸のどん底で嘆いているものたちに手を差し伸べてきただけだ。
なのになぜ、こんなことになるのか。
「これがさ、誤った噂だったら、私も訂正できるんだけど……あんたのやってきたのは、否定しようのない功績という名の事実だから」
力不足を項垂れるように葉那は肩を落とした。
縋るような眼を葉那に向けた。
「もう、どうしようもないのか?」
「夏休みが明けるまでは、もう祈ることしかないわね」
「くそっ、どうしてこうなった!」
今の俺には、ただやりようのない嘆きを吐き出すことしかできなかった。
「まあ、でも」
よろよろと立ち上がりながら、この状況の救いを思い出した。
「今の俺は、クラスのナンバー2男子。長城とも上手くやってるし、永峰も俺を神と呼ぶほどに恩義を感じてくれてるんだ。それ以外の男子たちも助けてきたんだから、中学時代の繰り返しにはならんだろ」
「せめて男子が味方でいてくれることだけは救いね」
俺たちはそれだけは間違いないことだと信じていた。
――まさかその男子たちが、すぐに俺を神の座へと祀り上げて、距離を置くようになるとは。このときの俺たちは思いもしなかった。
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