08 導かねばならない
里梨とふたりきりだというのに、下ネタをお漏らししてしまった。しかも身近な人間をオナネタにしているのを、聞き咎められたかのような大失敗だ。今日一日葉那が同行していたから、男同士のノリが出てしまったのだ。
なりを潜めぬ里梨のジト目に焦りながら、『失敗の取り戻し方』と必死に脳内検索をかけていると、
「あれ、守純じゃねーか」
親しげとは無縁の軽薄なまでの声がかけられた。俺を軽んじている人間性が伝わるその音が、今は救いの音として耳朶を打つ。
顔を向けると、そこには軽薄な笑いを浮かべている男がひとり。かつては喉元までしか出てこなかった名前が、もう忘れることはないと自然と溢れ出した。
「おう、高井じゃんか」
「酒井だ!」
唾を撒き散らしながら酒井は怒鳴った。
「悪い悪い。棚瀬と混じっちまった」
場をはぐらかすキッカケをくれた恩人に、心からの詫びを告げる。
酒井の後ろを覗き込むように見る。
「棚瀬たちは……いないようだが、今日はひとりか?」
「はぁ、なんだよ! ひとりで買い物に来ちゃ悪ぃかよ!」
「い、いや……別に悪くはないが……」
熱り立った酒井に、つい気圧されながらも唖然とした。いきなりのことに里梨もびっくりしている。
なにをそんなに過剰反応しているのか。なにか変なことを言ってしまったのかと直前の発言を精査する。
いきなり棚瀬の名前を出したのが、自分を蔑ろにされたようで気に入らなかったのか。グループ内では自分を中心にしたそうな顔をしているから、なきしもあらずだが……それにしてもここまで鼻息荒くすることかと疑問もある。
中学時代、クラスメイトとは関わってこなかったから、酒井がどんな奴だったかもわからない。二月に邂逅したときの僅かな時間からしか、その人間性を伺いしれない。
あのときなにがあったか。
「あ」
すぐに思い至り、おずおずと問いかける。
「もしかして……前回の件で仲良しパーティーから追放された、とか?」
「あぁ!? 誰が追放されただよ!」
鼻息を荒くした酒井が、これでもかと憤った。
この反応が酒井の態度のすべてを物語る。どうやら『ひとり』という言葉に怒りの……いや年頃の少年の恥が込められていたのだ。突いたつもりのない図星が、酒井のはらわたを煮たのだろう。
自業自得といえば自業自得だが、ざまぁもの主人公になる気は起きなかった。そこに悪意があれ、侮辱もあれ、俺の世界ランクを吸収しようとした目論見はあれど、酒井はまだ子供なのだ。
込み上がるのは嘲笑ではなく同情の念。なるべく傷つけないよう、酒井をフォローしてやりたくなったくらいだ。
「ま、まあパーティーを追放されたからって落ち込むなって。酒井のような存在がいなくなった途端、元のパーティーが瓦解するなんてよくあることだ。自分を蔑ろにしたパーティーに未練は持つな。この先おまえを必要としてくれる、本当の仲間と必ず出会えるからさ。その内元のパーティーから戻ってこいと救援要請が来るかもしれんが、そのときにはこう言ってやれ。『今更戻ってくれと言われてももう遅い。俺はこのパーティーで真の友情を築く』ってさ。酒井、おまえが追放者の主人公になるんだよ!」
「バカにしてんのか!?」
今日一番の怒声を酒井は張り上げた。フォローしたつもりが酒井の勘に触ってしまったようだ。
それにしても俺がなに言う度に、今日の酒井は怒ってばかりだ。こっちは穏便にコミュニケーションを取っているつもりなのに。やはり精神年齢が高すぎる弊害か、今どきの若者の気持ちがマジでわからない。
鼻息が聞こえるほどに荒げている酒井に、「どうどう」と馬を落ち着かせるように平手を向ける。それがまた癪に障ったように歯を食いしばり、今にも『ぐぬぬ』という三文字を吐き出しそうだ。
「っていうかよ!」
声量の加減ができていない上ずった声を出しながら、
「この前とは違う女連れてるじゃんか!?」
酒井はそんなことを聞いてきた。その必死な問いかけの熱量は、一体どこから湧いてくるのだろうか。
「お、おう」
気の利いたセリフも出なければ、スマートに里梨を紹介することもできず、ただ狼狽えるしかできずにいた。
ふと、酒井の口端はつり上がった。
「前の女はどうしたんだよ。愛彦くーんって呼ばれて、腕まで組んでただろ。あの女、彼女じゃなかったのかよ」
まるでイニシアチブを取り戻したように、真っ赤なその顔にはいつもの軽薄さを取り戻している。
あれだけ怒らせてしまったのも忘れ、世間話に興じてくれるのはいいが、女子を女、女と呼び方が乱暴だ。
里梨が気を悪くしないか心配で、そっと横目で伺う。眉をしかめながら『どういうこと?(どうせろくでもないことだと思うけど)』と無言で問いかけてきている。
説明しようと開きかけた口を閉ざしてしまった。あの日のことを語るのは簡単だが、酒井にも名誉がある。当事者の前でパーティーから追放された経緯を語ろうものなら、また憤りかねない。プライドの高い多感な少年の扱い方は、実に難しいのである。
説明を求める里梨のジト目と、ニヤニヤしている酒井の名誉。板挟みになりながら言い淀んでいると、
「説明が必要のようね」
見計らったよう葉那が戻ってきた。その後ろで百合がそわそわした顔を覗かせている。
「なっ……!」
葉那の登場に、これでもかと目を剥きながら大口を上げている。まるで夜道でバッタリ幽霊と遭遇したかのような驚きようだ。魑魅魍魎の類という意味では、こいつは似たようなものであるが。
哀れな子羊を前にして、悪魔はこれでもかとニタニタと笑む。まるで捕食物を前にして舌なめずりしているかのようだ。
「そいつが『おまえ高校でもボッチなのかよ』って、みんなの前でヒコをバカにしてたから、私が『愛彦くーん』って腕に抱きついたのよ。私と自陣の女子を比べて悔しそうにするもんだから、向こうの女子が切れちゃってさ。それがキッカケで、こうしてハブられたってわけね」
「またマナヒーとラブラブカップルを演じたの?」
わかっていたけど呆れずにはいられない。そんな顔をする里梨に、葉那は顎に手を置きながらこれでもかと得意げにする。
「私ほどの女と比べれば、向こうは塵芥みたいなものだからね。量より質だと、力の差を思い知らせてやったのよ」
「塵芥って……それはさすがに、性格悪いんじゃない?」
「いいのよ。向こうの女たちは全員、ヒコを笑ってたから」
一切の悪気なく言い切る葉那に、里梨もそれならと納得した顔をする。
「しかしあんたも懲りないわね」
葉那は顎を上げると、酒井を見下すように鼻で笑った。
「あれだけやられておいて、まだヒコに突っかかるなんて」
「突っかかる?」
「……まさか今のやり取り、なにも気づいてなかったの?」
どういうことだという眉をひそめると、葉那は嘘でしょと口端を歪めた。
今回は向こうにギャラリーがいない上に、こちらには里梨が最初からいる。この状況でマウントバトルを挑んでくるなど、世界ランクを上げる糧にしてくれといっているようなものだ。勝負をしかけてくるなんて微塵も考えていなかった。
「私たちに不和が起きてほしかったんだよ、この人」
「俺と里梨の? ……あ、そういうことか!」
里梨に説明されて、ようやく酒井の思惑を知った。
俺が浮気か二股していると思ったから、葉那の存在を里梨にほのめかし、『彼女ってどういうこと!?』って修羅場を作り上げようとしたのだ。
前回がマウントを取って世界ランクの糧としようとしたのなら、今回は純粋に俺の世界ランクの失墜を狙ったのだ。
そんなことをしても、酒井の世界ランクに影響がない。なんの意味があってそんなことを、と疑問には思わない。
たとえ自分の世界ランクが上がらずとも、世界ランク強者は少しでも堕ちてほしいのは
だからこそ亡者がどれだけ哀れで、救われない存在であるか身に沁みるほどにわかっている。だけど恥ずかしながら、こういうときどんな言葉をかければいいかわからない。
「その……なんというか、悪いな、気づいてやれないで」
ただただ申し訳なく、謝るしかなかった。
「ぐっ……」
酒井はこれでもかと悔しそうに顔を歪め、下唇を噛んだ。
「最初から相手にもされてないわね、ざぁこ、ざぁこ」
葉那が口元に手を置くと、語尾にハートがつきそうな嘲る声を出す。
「見てたわよぉー、あんたがヒコを見つけた途端、これでもかって悔しそうにしちゃってさぁ。でも急に、気持ち悪ーい顔でニヤニヤして……あ、これやるなって思って、遠目から見てたら案の定ね。ばーか、ばーか」
「やめろ葉那」
呆れながら制すると、イキっていたメスガキは不満そうに唇を尖らせた。
「なんでよ。ここは二度と弓を引いてこないよう、再起不能に追い込むところじゃない」
「その弓を今か今かと引くのを待ってのは誰だ」
「だって逆恨みの弓なんだもん。最初の弓は元々こいつから引いたんだから、ヒコはやり返しても許されるわよ。むしろ徹底的にやるべきなのに、なんでこいつの肩を持つのよ」
葉那は不貞腐れたように眉尻を下げた。
「まあ、おまえの気持ちもわかるし、俺のために怒ってくれるのは素直に嬉しい。だけどここでおまえに乗っかったら、それはもうただのイジメだ」
「それでも私は、最初に弓を引いた奴の自業自得だって主張するわ。本人は人を笑いものに仕立てて楽しいだろうけど、やられたほうがたまったものじゃないわ」
頑なに主張を曲げない葉那。卒業まで田中は顔を見せなかったのに、未だにウンコマンの件を許す気にはなれないのだろう。
でも今回は、イジりのつもりがイジメとか、それを最終的に許すのが偉くて、許さないのが悪いとか。そういう話をしたいわけではない。
「あのなー、俺の立場になって考えてみろ」
「ヒコの立場?」
「いい歳なんだ。俺が子供を虐めるのは、さすがにみっともないだろ」
「あー」
あれだけ主張を翻す気のなかった葉那は、得心したのか剣呑さを失った。
俺も今年で人生三十九年目。葉那たちと比べて大人だと胸を張ることはできないが、それでもいい歳の自覚は残っている。タイムリープしたての頃はイキって田中を不登校に追い込んでしまったが、今思えばやりすぎたと反省している。
相手が子供だからとなんでもかんでも許すは言わないが、酒井の逆恨みの弓なんて可愛いものだ。なにせ最初に仕掛けられたマウントバトルは、圧倒的な勝利を収め、世界ランク上昇の糧にしたのだから。
持たざる子供からこれ以上取り上げるなんて、さすがに気が引ける。
「最近な、身に沁みて思うことがあるんだ。よき行いにはよい結果がついて回る。それ以上に悪い行いには悪い結果がついて回るってさ。虐めるのは誰が見たって、悪い行いだろ?」
あの夏の日、葉那とラブラブカップルを演じて、マウントバトルを自分たちから仕掛けた。あれは間違いなく、悪い行いだった。そのせいで百合に後ろめたさを持たず、里梨と恋人になれたはずの世界線を失うという結果をもたらした。
今はなんとかいい結末にたどり着くことはできたが、それもこれも、よき行いの結果だと信じている。百合の恋人になれた世界線こそ手放したが、推し活が捗っている俺はとても幸せだ。
自分の世界ランクを上げるのに、他人の世界ランクを糧にしたいなどもう思わない。自らの世界ランクを慰め、ときには目を背けるような強者の不幸も必要ない。いや、自分の幸せのためにそんなものは求めてはいけなかったのだと今ならわかる。
酒井がパーティーから追放されてしまったのは、こいつは楽に狩れるとマウントバトルを挑んできた結果。弱者から世界ランクの糧を巻き上げようとした、カツアゲと変わらない悪い行いなのだ。
天網恢恢疎として漏らさずとは言わないが、よき行いも悪しき行いも、誰が見ているかわからない。こうして悪魔が弓を引くのを、今か今かと待ち受けている場合だってある。
だから世界ランクを上げるのに、誰かをマウントの餌食にしてはいけない。
今回の件を通して酒井にそれをわかってほしいが、最近になってようやく俺が悟った境地である。まだまだ子どもの酒井に、それを悟れというのは難しいかもしれない。それを諭してやれる大人がいれば……。
――ああ、そうか。こういうときこそ子供には大人が必要なのか。
子供は何度も転びながら、歩き方を学んでいく。それを見守ることはもちろん大切かもしれないが、明らかに間違った方法を続けているのなら、大人が指摘してやらねばならない。
今の酒井には、靴のかかとを踏んだまま歩くからすぐ躓くんだ、と教えてあげる大人が必要だ。そして靴のかかとを踏んでいるのを知って、教えてやれる人生の先達者は俺しかいない。
酒井を導かねばならない。
そんな使命感にこみ上げてきた。
「なあ酒井、世界ランクを上げたいと思ったとき、なんで人はマウントを取らずにはいられないかわかるか?」
「世界ランク? マウント? なにいきなりふざけたこと言ってんだ!?」
怒りと羞恥と敗北感で百面相していた酒井が、困惑しながら叫び散らかした。
まるで自分はマウントなど取ったことがない。世界ランクなど気にしていないと、必死に誤魔化しているのだ。なぜならそれは恥ずべき行いなど自覚しているからだ。
わざわざ自覚を口に出させなくても、自分のやっていることは自分で一番がわかっているはずだ。だから今はそれでいい。
「じゃあ万引きの常習犯が、何度も捕まって散々警察に絞られながらも、ついつい物を盗んでしまう。なぜだと思う?」
「知らねーよ、そんなの!」
「そこに物があるからだ。どれだけ痛い目にあっても、落ちているものは拾わずにはいられない、手にしないと損だと思ってしまう浅ましさが、人間を安易な悪徳に導くんだ。マウントもそれと同じ。なぜマウントを取ってしまうのか、もうわかるな?」
「だからなんだよマウントって……!」
「そこに世界ランクの糧があるからだ」
幼子を相手にするように、優しくいい含めた。
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