09 マウント

 俺からマウントを取って、世界ランクを上げようとしたことことを酒井は認めない。それどころか、そんな言葉を知らないだなんて嘯き始めた。


 だけど俺は絶対、酒井を見捨てたりはしない。酒井を導けるのは、俺だけなのだから。


「チャンスがあればマウントを取られずにはいられない。マウントを取られるような隙を見せるのが悪い。率先して止めるべき大人たちが、そうやってマウントを取るのを止められずにいるんだ。なにせマウントが上手くキマったときは、最高に気持ちいいからな。そりゃ子供だって世界ランクを手っ取り早く上げるのに、悪気なくマウントを取っちまうよな」


「もしかして薬物の話か?」


「だからこそ今一度、マウントがもたらす負の側面について思い出さなきゃならない。酒井、なんでマウントを取るのはいけない行為だと咎められるか、ちゃんとわかっているか?」


「知るかよ。ほんとなんのことだよマウントって……」


 これは深刻だ。マウントがなぜ忌避されているかわからないどころか、マウントを取っている自覚症状すらないなんて。


 ここで酒井を見捨てたら、この先悲惨な人生しか待っていない。世界ランクを上げるのにマウントを取る以外のやり方を知らない人生は、それほど酷いものなのだ。


 やはり酒井を救えるのは俺しかいない。俺は絶対に酒井を見捨てない。


「マウントはな、相手が嫌な思いをすることで成り立ってるからだ。マウントを取った相手の気持ちを傷つけ、貶め、ときには辱める。まさに尊厳を奪い取るような行いなんだ。おまえが今日まで上り詰めてきた世界ランクは、そうやって奪い取った尊厳の上に成り立っている。どうだ、酒井。ここまで言われて、おまえはまだマウントで上り詰めた自分の世界ランクを誇れるか?」


「いい加減、宇宙語を話すのは止めてくれ……」


「ようは人から奪うような真似はしてはいけないって話だ。聖書にはこんな言葉が残されている。『戒めはあなたの知るとおりである。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、百合の間に挟まるな』。たとえ世界ランクのためとはいえ、糧は糧。人の糧を奪い取るような真似だけはしてはいけないんだ。それは神の戒めに背いた、地獄を招く悪い行いだからな」


「……ん?」


 百合がふと不思議そうな顔をした。まるでよく知る言葉の中に、耳馴染みのない音が混ざっていたかのようだ。


「世の中には世界ランクを上げるのに、マウントを取る以外のやり方をわからない可哀想な人間が大勢いる。でもな、マウントなんて取らなくても、よい行いを心がけていれば、よい結果はついて回るように世界はできているんだ」


 あえてここは、酒井の名を出さない。名指しでおまえは可哀想な奴だと言われて、プライドが傷つかない人間はいないだろう。


 俺は酒井を傷つけたいのではない。人生の先達者として導きたいだけなのだ。


「中学のときの俺は、知っての通りだ。卒業時、友達なんてひとりもいなかった。高校に入って、友達の数がようやくひとりに戻った。だけどそこから中学の時と同じ道をたどって、そこにる葉那以外全員から俺は避けられ続けてきた」


 里梨、そして百合という順に目を向ける。


「このふたりと仲良くなったのは最近のことでな。高校一年目でできた友達はここにいるのが全員。男友達はゼロだ」


 苦笑しながらやれやれと両手を広げた。


「クラスの男子からは神として崇められ、女子からは穢れ神として避けられている。誰も俺に近寄ろうとしない。それでも俺はこれ以上なく幸せだ。友達が女子三人だけかよとマウントを取られようと、俺の世界ランクは微動だにしない。なにせ友達は多ければ多いなんて思わないからな。大切なのは周りの評価に流されず、どんなときも離れないでいてくれる。そうやって自分のことを大切に思ってくれる友達こそが、人生には一番大事なんだ。たった三人に見えるかもしれないが、俺は誰よりも友達に恵まれているって胸を張れるぞ。なにせ人から奪わなくて、世界ランクは高めあえるって教えてもらったからな。


 だから酒井、これだけは覚えておいてくれ。上を目指す方法はマウントだけがすべてじゃない。よい行いを心がけていれば、必ずいつか報われる日がくる」


 ポン、と酒井の肩に手を置いた。


「今の俺にこんな素敵な友達ができたようにな」


「はっ、結局女を自慢したかっただけかよ、うぜっ!」


 酒井は俺の手を払うと、憎々しげに舌打ちだけを残して駆けていった。


 すると葉那が顎を摘むように手を起きながら、感心したように唸っていた。


「さすがねヒコ。まさかこういう追い込み方があるなんて」


「え、追い込み方?」


 心外なことを言われるも、なんのことかわからず憤りより戸惑いのほうが先に出た。


「俺は酒井を導きたかっただけで、追い込むつもりとかそんなことは……」


「うーん……どう思う、葉那?」


「あー、これ本気の顔だわ。悪気はゼロね」


 判断がつかぬという里梨の問いかけに、葉那は呆れたように眉をひそめた。


 百合は下唇を持ち上げるように人差し指を添えると、不思議そうな目を向けてきた。


「導くって、どういうことですか?」


「えっと、酒井となにがあったのかは、今の話の流れでわかったか?」


「葉那からも聞きました。あの人、前に愛彦くんを笑いものにしようとしたって」


「そうそう。世界ランクを上げ……仲間内のウケを狙うのに、マウントを取られたんだよ。そのマウントを葉那が返り討ちにしたんだけど、見ての通り逆恨みされた。そのことについては気にしてないんだが、それってマウントを取ったことについては懲りてないってことだろ? マウント――」


「あ、あの愛彦くん……?」


「ん、なんだ?」


「マウントってなんですか?」


「ずっとその言葉を繰り返してるけど、意味がわからないんだけど」


 不勉強を恥じるように小さく手を上げた百合。里梨もまた腕を組みながらうんうんと頷いている。


「え?」


 俺は眉をひそめた。


 百合がマウントという言葉以前に、マウントの文化にすら触れたことがなくてもおかしくない。でも里梨まで知らないのは不思議だった。


 なにせ里梨は陽キャ女子。マウントを取る取らないの世界にいなくても、言葉くらい知っていて当然のはず。


 訝しげにしていると、葉那は嘆息を漏らした。


「ほんと、どんな未来語よと思いながら聞いてたわ」


「あ」


 葉那の比喩ではない言葉をそのまま受け取り、ようやく俺は合点がいった。


 そうか。この時代はまだ、マウントに込められた意味について、言語化されていないのだ。三人がマウントの意味がわからなくても仕方ない。


「で、結局なんなの、マウントって?」


「マウントっていうのはな……いや、説明するほどのことじゃない。パパ活みたいな低俗でくだらん言葉だ」


「そうだと思った」


 すぐに興味を失った葉那は肩を揺らした。


 説明を面倒くさがったわけではない。こればかりは言葉を尽くすより、体験させたほうが早いと思ったのだ。


「ところで葉那。実はずっと隠してたことがあるんだが」


「なによ急に?」


「天河ヒメのサインを上げたとき、おまえ凄い喜んでたからさ……あ、これは言えないやつだと思って、ずっと隠してたんだ」


「サインは……本物よね。プリもあるんだし本物本物」


 サインが偽物であるかを疑った葉那は、自らにそう言い聞かせた。


「そのプリを撮ったときなんだが、実は俺、一緒に撮ったんだ」


「……え、誰と」


「天河ヒメと」


「嘘でしょ!?」


 こちらを掴みかかる勢いで、葉那が叫びながら迫ってくる。そのなにかを掴まんと宙に浮いた手は、今にも俺の喉元に食いかかってきそうだ。


「うそ……嘘、嘘よね?」


「ほら」


 ボディバッグから生徒手帳を取り出した。カバーの差し込み口から、折りたたんだ用紙を取り出し開いた。その用紙に貼られている天河ヒメと撮ったプリントシールが姿を表す。特に感動を表すことのない俺の腕を、向こうが強引に取ってピースしている。


 夏休み明け前に、クラスメイトたちと話の種になればと思って挟んでいたのが、丁度神様に祀り上げられた時期なので誰にも見せる機会がなかった。


 俺の首を締める代わりに、葉那の両手は用紙を引ったくった。


「わ、ほんとだ! いいなー、マナヒー」


「すごい、愛彦くんが芸能人と映ってます」


 無言で肩を震わす葉那の後ろから、ふたりが用紙を覗き込んだ。


「最初は断ったんだが、強引にプリ台に引き込まれてな。おまえへのサインを貰った手前もあるし、渋々撮ったんだ」


 ちょっと得意げな調子を出す。


「でも、やっぱりトップアイドルだな。手がすっげースベスベしてて、なんかめっちゃいい匂いがしたし、まあなんか、色々と凄かった」


「あ……あぁ」


「俺自身は天河ヒメには興味ないが……ま、貴重な体験だったよ。だからサインくらいで喜んでるおまえには、さすがに言えなくてな」


「ぁ……あ、あ、あ」


 引きつった音を喉で鳴らし続ける葉那。まるでバイオハザードのゾンビのようだ。


 これ以上はもういいだろう。さすがに酷だ。


「これがマウントだ、葉那」


「……え?」


「おまえは今、俺にマウントを取られたんだ」


 いつもの様子に戻ってそう言うと、葉那はわけのわからぬ様子の顔を上げた。


「周りにいないか? やっと欲しいものを買ったって話をしてたら、私はそれよりもいいものを持ってるって話を始める奴」


「あー、いるいる。そういう子いるねー」


 里梨が感じ入るように何度も頷く。


「そういうのって大抵、ただの私凄いでしょな自慢話でさ。一応凄いね凄いねって言ってあげるんだけど、なんか向こうの態度が釈然としないんだよね」


「話し方が上から目線で、こっちを下に見てるのが伝わってくるんだろ?」


「そうなの! その通り! こっちは張り合ってるつもりはないのに、自分が上みたいに優越感を抱かれてもさ。ムカつくとまでは言わないけど、なんかもやもやするの」


「里梨、そのもやもやした一連の流れを言語化すると、マウントを取られたっていうんだ」


「そういうことかー。さっきのマナヒーの話の意味、やっとわかったかも」


 里梨は腑に落ちたとばかりに、スッキリとした表情を浮かべる。


マウンティングマウントを取るっていうのはな、元々は動物の行動を表した言葉で、相手に馬乗りになったりして、自分のほうが強いと優位性を示す行動なんだ。そこから転じて、自分のほうが相手よりも立場や優位性が上だと示す、言動や振る舞いについて使われるようになったんだ」


「へー、なんの専門用語なんですか?」


「えっと……IT系かな」


「そっか、愛彦くんはパソコン博士ですもんね」


 尊敬の念を差し出してくる百合が眩しくて、そっと目を逸らす。


 ネットスラングだったはずだし、IT系でもいいはずだ。


「こうやって言葉で説明するだけじゃ、その本質は伝わりづらいからな。こればっかりは体験させたほうが早いと思ってマウントを取る真似をしたんだが、悪いな、葉那」


「や、それはいいんだけど、待って……感情が渋滞していて色々と追いつかない」


 震えながら俺と天河ヒメのプリントシールを見つめ続ける。この調子だとほっぺにちゅーされたときのプリを見せようものなら、心臓発作を起こすかもしれない。


 葉那はこのまま放っておこう。それよりも自分の問題に目を向けなければ。


「しかしミスったな。酒井の奴、マウントの意味も知らずに話を聞いてたってことになるな」


「そうだね。宇宙人の話に戸惑ってたら、いきなり女自慢されたって感じだったよ」


「なんてこった」


 里梨に言われ、頭を抱えそうになった。


 酒井を導いているつもりのはずが、取るつもりのないマウントを取ってしまったとは。


「そんなつもりじゃなかったのに、悪いことしたな……」


「ま、イジメていたわけじゃないんだし、いいんじゃない?」


「そうだけどさ、女自慢みたいになったのがなー」


 里梨は気にするなと慰めてくれるが、それでも自分のいたらなさにため息をついてしまった。


 さて、好事家諸君、大罪と罪の区分について覚えているだろうか。


 重大な事柄について、それを望み、意図的に行われた。その三つの条件が揃ったとき、罪は大罪と呼ばれる。そして重大な事柄とは、神の戒めである。


『戒めはあなたの知るとおりである。殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、百合の間に挟まるな』


 酒井にも説いたが、マウントを取るのはすなわち、相手の尊厳を奪い取るに等しき行い。神の戒め、『奪い取るな』に抵触しまっているのだ。そしてマウントはいつだって、望んで意図的に行われる。


 つまりマウントを取るのは、ただの罪ではない。大罪に分類される、地獄を招く行為なのだ。


 今回俺は、マウントを取ったつもりはなかった。おそらく神は許してくださるだろうが、それでも大罪に分類される行いを、酒井はされたと思ってしまった。みんなが許してくれても、俺は自らの至らなさを戒めなければならない。


 なにせ今回のような女自慢マウントだけは、絶対取りたくなかったのだ。


「百合も里梨も、俺の人生みえを飾るアクセサリーじゃないんだ。大切な友達だからこそ、ふたりを使ってマウントを取る真似だけはしたくなかったからさ。そういう形になったのが情けなくてな」


「愛彦くん……」


「マナヒー……」


 ふたりの息を呑むように開かれた口は、次の瞬間には結ばれた。唇の端は嬉しそうに上を向いており、頬はとても緩んで見えた。それが少し立つと、なにかに気づいたように眉が動いた。ふたり仲良く同時に顔を見合わせると、おかしそうに笑い出した。


「愛彦くん、ふたり、ですか?」


「ここには三人いるはずなんだけど」


 ふたりとも、足りないひとりは自分だとは微塵も思っていない顔をする。仲間はずれはよくないぞとニマニマしている。


 もちろん、すべては承知の上で言っている。


「こいつはいいんだ。自分から『さあ、私を使って世界ランクを上げなさい!』ってパスを出してくるからな。マウントバトルを仕掛けられたなら、これからもありがたく使わせてもらう」


 親指で葉那を示しながら言った。

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