53 神様君

「それで、天河ヒメがなんで、ちょっと助けられたくらいで、俺を飯になんて誘ったんだ? ……なんだよその顔は」


 不満を抱いた子どものように、天河ヒメは口を尖らせた。


「なんでフルネームで呼ぶのさ。もっと他に呼びようがあるでしょ?」


「天河さん?」


「それ、君が言うと気持ち悪いから嫌だ。口の聞き方もそのままでいい」


「じゃあ、天河?」


「もー、普通にテレビの前のみんなみたいに呼んでよ。ヒメちゃん、ってさ」


 人指差しで両頬を付いて、首をコクンと傾ける。さすが芸能人だと絵になるポーズだが、俺にはただあざとくしか映らなかった。


「それで、天河ヒメがなんで、ちょっと助けられたくらいで、俺を飯になんて誘ったんだ?」


 まったく同じセリフを繰り返すと、天河ヒメは憎々しげに口元を歪めた。


 すぐに諦めたように、天河ヒメは言った。


「ちょっとね、非日常を求めてみたんだ」


「非日常? そんなこと言ったら、毎日が非日常みたいな仕事だろ」


「君たちから見たら、私は非日常の象徴みたいな存在かもね。でもさ、非日常が続いたら、それはただの日常だから。今の私にとっては、仕事もなにも関係ないプライベートで、ひとりで街を出歩くほうが非日常。冒険みたいなものだから」


「あー、この時代を象徴するナンバーワンアイドルだもんな。そんなのがふらふら街で歩いてたら、さっきみたいなハイエナたちが放っておかんか」


「そうそう。バレたらワッと囲まれちゃうんだよ。そういう人たちに愛されることで、お仕事になる商売なのはわかってるけど……プライベートくらい放っておいてほしいと思うのは、ワガママなのかな」


「それを言葉にしたら燃やされるってだけで、思うだけならタダだろ。態度に出さないだけで立派だよ」


「お、慰めてくれるの? 優しいね」


「優しくするだけでナンバーワンアイドルとワンチャンが生まれるなら、いくらでも優しくするぞ」


「三十六歳はちょっと……年の差の許容範囲は、十歳が限界かな」


 将来十九歳差で結婚する女が、年下をからかうようにそう言った。


「なら、今日の失態の原因を追求するか。なんでマスク付けてなかったんだ?」


 帽子にサングラス、それに量販店の服。ここまで人目から避けるような装備をしておいて、一番肝心なものを忘れている。マスクがなかったから、トップアイドルのオーラを抑えきれず、天河ヒメだと確信を持たれてしまった。


 天河ヒメは頬杖をつくと、どこか遠くを見るような目をした。


「息苦しいのが嫌だったから、かな」


「その気持ちはわからんでもないけど」


 コロナ化でマスクを強制されてからは、息苦しい日々を送ってきた。物理的にも精神的にも、外にいるはずなのに閉塞感を覚えていた。


「でも、それはしょうがないんじゃないのか? ハイエナに囲まれるよりはマシだろ」


「わかってるんだけどさ……最近息苦しいからこうしてひとりで外に出てきたのに。そこでも息苦しい思いはしたくないって、外しちゃったんだ。その五分後にあんな目にあっちゃたんだけどね」


 自分の失敗をおかしそうにする、笑った顔を取り繕った。アイドルだから作り笑いはお手の物とはいえ、今はそこに隙があるようだ。


「そんなときにほら、自分を助けてくれた子が、まるで私に興味なくてさ。それどころか本物でガッカリしたとか、正面から言ってくる始末だし。なんか面白い子だなって、ここで逃がすのは惜しいって思ったの」


「つまり今の俺は、あのおもしれー男枠ってわけか」


「あの、がなにを指してるのかはわからないけど、うんうん。そういうところが面白いね、捕まえて正解だったよ」


 今度は取り繕ったものではない、楽しそうに顔を綻ばせた。


 居住まいを正すように向き直ると、天河ヒメは優しげに笑んだ。


「大切なお友達だったんだね」


 おそらくこれが、天河ヒメが俺に興味を持った一番の理由だろう。


「たったひとりの友達だったからな」


「なに、他に友達いないの?」


「一年のときに……まあ、色々あってな。俺の名が学校中に轟いたせいで、アンタッチャブルな扱いになった」


「アンタッチャブル?」


「村八分を食らうのを恐れて、誰も俺に話しかけてこないんだ」


「……君、なにやったのさ」


「人の輪に混ざって楽しくお喋りしたり、困った奴らを助けたり、欲しいものの手に入れ方を教えただけだ」


 それは嘘だと疑うように、天河ヒメは唇を曲げた。


「そんな状態でも、マサだけは離れないでくれたからな。本当の友達っていうのは、こういうかけがえのない存在を指すんだなって……いなくなってから痛感した」


「花雅くん、だっけ? その子は、なんで亡くなったの?」


「わからない。夏に突然倒れて、救急車に運ばれてそれっきりだ。向こうの家族とは仲がいいんだけどさ、なにが原因だったのか教えてもらえないんだ」


「そっか……それは辛いね」


「わかるのは、もうマサがこの世にいないということ。それだけはたしかだ。そんなあいつが大好きだった天河ヒメが、ハイエナに集られそうになってるんだ。マサの顔が頭によぎると、放っておけなくてな」


「だから感傷、か」


「ま、あそこで助けようが助けまいが、天河ヒメのアイドル人生に影響なんてないけどな」


「そうかもね。でも、その感傷が天野川あまのがわ姫香ひめかの非日常を救ったんだから、私を大好きでいてくれた花雅くんには感謝だね」


 そっと天河ヒメは、俺の頭上を見るように顎を上げた。煙を吸っている換気扇を見ているわけではない。もっと高いところにいる存在を偲んでくれているのだ。


 天河ヒメって芸名だったんだな、と口にしそうになったのを飲み込んだ。


 その御礼、というわけではないが、最近息苦しいと零した天河ヒメの苦悩を、少しは軽くしたいと思った。


「そういえば天河ヒメって、今何歳だっけ?」


「ほんと君は私に興味ないんだね。来月で十七歳になります」


「てことは、そろそろか」


「そろそろ?」


「ゴールがわからない中、アイドルとしていつまで走り続ければいいのか。ナンバーワンになったなりの悩みを抱えてるんだろ?」


「え、なんで……」


 いきなり心の中を暴かれたことに、天河ヒメは面食らったように唖然とする。サングラスの向こう側は、きっとこれでもかと目が見開かれているのだろう。


「誰にも、そのこと話したことないのに……なんでわかったの?」


「だから俺は、人生二回目だって言っただろ。天河ヒメが語った過去の悩みを、記事で知っただけだ」


 天河ヒメには興味なかったが、幸嶋は別だ。なにせ彼は母ちゃんが愛した男であり、その結婚報道は日本中の女たちを地獄に落とした。それをケラケラと笑いながら、幸嶋の結婚報道について積極的に調べていたのだ。


「十七歳の内に、その悩みから救ってくれる相手には出会える。そこがアイドルとしてのゴールじゃないにしても、中継点だと思えば踏ん張れるだろ」


「それが本当だったら、気持ちは楽になるけど……え、君、本当に?」


「信じるものは救われるって言うだろ?」


「君を神様みたいに信じろって?」


「ナンバーワンアイドルに信仰されるのも悪くないな。天国のマサも驚くぞ」


 偉そうな態度を見せると、天河ヒメは噴き出した。そのままお腹を抱えケラケラと笑うさまは、テレビに映るナンバーワンアイドルではなく、等身大の女の子に映った。


 ひとしきり笑い終えると、サングラスを軽く持ち上げ、涙を拭った。


「決めた。神様君のお言葉は、全部信じるよ」


「神様君?」


「まるで神様みたいに偉そうだから。神様君」


 人差し指を振りながら、イタズラっぽい口調で天河ヒメは言った。


 今更名乗るつもりもないので、ムッとした感情も湧くことなく、それでいいと頷いた。


「ま、好きに呼んでくれ」


「じゃあ、好きに呼ぶついでに、神様君には色々と聞いちゃおっかな」


「色々って?」


「未来の旦那様の話とか」


「そういうのを聞くと、未来が変わるのはお約束だぞ。なにより人生にレールが引かれたようでつまらんだろ」


「たしかにそれはつまらないかも。じゃ、私のアイドル人生が、どういう結末を迎えたか教えてもらおうかな。さすがに君が死んだときまで、アイドルとしては活動してないでしょ?」


「未来が変わるっていう意味なら、それを聞いても一緒じゃないのか?」


「それでもいいから教えて。どうせ、普通の人には信じられない話なんだし」


 どこまで話を信じているのかわからない。でもそこには、覚悟を決めたような少女の顔が浮かんでいた。


 いつまで走り続けていいかわからない。そんな今の日常が息苦しいと、マスクを外して非日常へ冒険をしたのだ。だから今の息苦しさが楽になるための、ゴールを知りたいのかもしれない。


 痛いほどその気持ちはわかる。弱者男性として、クソみたいな人生を送る中で、いつまでこんな人生が続くんだろうと、未来が真っ暗だらこそ辛かった。展望がないのが苦しかった。


 タイプリープがないとしても、三十三歳の日に死ぬと知らされていたら、俺は絶望するどころか気持ちが楽になっただろう。守るものもなければ、失うものなんてなにもない。未来への希望も向上心すらないからこそ、計画を立てて終活をできるのは、とても喜ばしいことだった。


 死ぬ日が決まっていると、その日が近づくにつれて怖くなり、正気でいられなくなるみたいな話も聞く。だけどあのときの俺はきっと、死ぬのが怖いよりも、こんな人生が続いていくほうが苦しくて辛いのほうが最期まで勝っただろう。


 そんな俺とは違い、天河ヒメには未来がある。より素晴らしい未来を引き寄せる覚悟が、今の天河ヒメにあった気がした。


 だったらかつての顛末くらい、語ってもいいと思ったのだ。


「当時からあまりテレビは見なくなってたから、大した話はできないし……多分、面白い話にはならないぞ」


「面白い話にならないってことは、本来得られないはずの、起死回生のチャンスがあるってことじゃん」


 未来に挑むような面持ちで、天河ヒメは話を求めた。

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