14 これで惚れていないなんて嘘でしょう
おはようから始まり、昨日のテレビは面白かったなどと、冬の寒さを忘れるほどに和気あいあいな音が満ちる通学路。校門をくぐり抜けると談笑の輪は広がり、下駄箱にたどり着く頃には楽団となり、楽曲名キャッキャウフフを演奏するのだ。
そんないつもの朝模様。
今日もおはようの一言をかけてくれる相手はいないけれど、
「おはようございます、守純さん」
と思った矢先、親愛なる挨拶が背中にかけられた。
振り返ると百合ヶ峰が誇る三大花美のひとりがいた。
「やあ、おはよう真白さん」
「今日もいい天気ですね」
「そうだね。毎日こうだったらいいのに。天気がいいのはそれだけで助かる」
「助かる、ですか?」
「俺は毎朝、ランニングしてるんだ。天気が崩れると、それができないからね。なによりどんより空の下を走るより、晴れ渡っていたほうが気分はいい」
「たしかにそれは、助かりますね」
なんてことのないやり取り。誰もがしているだろう、中身を求められていない友人との雑談。靴を履き替えながら、他愛もない話をしているだけだ。
日常に信じられない異物が紛れ込んだかのように、周囲は騒然とした。それは校内に犬が迷い込むかのように、あるいは包丁を持った不審者が忍び込んだかのように。
困惑、驚嘆、興奮、混乱、衝撃、戦慄、動揺、狼狽などなど。そんな熟語が辺り一体に蔓延っているのだ。
あの誰の特別にもならないと言われた、高嶺の白百合が自分から男に声をかけている。 それも見たことのない親愛なる微笑みを拵えているのだ。その花咲くような笑顔は、誰もが目を奪われ見惚れずにはいられないだろう。
でも彼ら、あるいは彼女たちはそんな花を愛でる余裕はなかった。
昨日まで見たことのない笑顔を向けている相手は、男子が崇め奉り、女子からは汚物のように毛嫌いされている、百合ヶ峰の神様である。
彼らにとっては、百合ヶ峰始まって以来の大事件。スキャンダルに遭遇したかのようだ。
仲睦まじく歩いているだけなのに、信じられないものを目にする生徒たち。まるでモーセが起こした奇跡のように人混みは割れ道ができるのだ。
足を踏み入れるだけで教室は色めき立った。教室に満ちた好奇心を一身に背負いながら、席へと座った。たったそれだけのことをしただけなのに、後ろを向いた真白は嬉しそうにしていた。
「ふふっ、この席でよかったなって、初めて思いました」
「なんでだ?」
「だっていつでも守純さんとお喋りできるじゃないですか」
その短いやり取りで、混沌はより一層極まった。
テレビドラマを一話飛ばされたどころの話ではない。購読しているマンガを一冊、読み飛ばしてしまったかのような困惑だ。昨日の今日まで紡がれてきた日常がまるで繋がっていない。
一体、なにが起きているのかわからないと、クラスメイトたちは頭を悩ませる。
なにせ昨日、昼休みから戻ってきたと思ったら、真白は目を真っ赤に腫らしていたのだ。一体俺がなにをしでかしたのかと、女子たちからは性犯罪者を見るような眼差しを向けられていた。そして男子たちは、真白百合は一体どんなエッチなものを見みようとしてやらかしたのかと、興奮の眼差しを送っていた。
そして一夜明けたらこの通り、恋する乙女のような笑顔を咲かせているのだ。
「真白さん……なんで守純なんかに」
「あんな風に笑ってる真白さん、初めて見た。よりにもよって守純なんかに……」
「でも……真白さんの笑顔、本当に綺麗。相手が守純なんかじゃなければ……」
「よりにもよって、守純なんかに……」
女子たちは花のような笑みを浮かべる真白への羨望。そして守純なんか守純なんかと、俺への嫌悪を隠せずにいた。
さすがの俺も、ここまで蛇蝎のごとく嫌われているとは改めて驚いた。ただエロサイトのトラブルに巻き込まれた人間を救ってきただけで、なぜこのように扱われなければならないのか。
「守純さん、一体どんなトラブルを解決したんだよ」
「泣き腫らすくらいだから相当だよな」
「真白さんは一体、なにを見ようとしたんだ」
「そりゃ、こうなるくらいだ。相当なものを見ようとしたんだろ」
そして俺を神と崇めるものたちは、彼女がどれだけエッチなものに手を出そうとしたのかと思い馳せていた。まさかエッチなものに手を出そうとしたのではなく、エッチなものに手を出されそうになったなど微塵も考えていない。彼らが膨らませている妄想の分だけ、高嶺の白百合の尊厳は堕ちていくのだ。
「守純さん、さっきの授業のここなんですけど」
真白はそんな彼らの思いなどお構いなしだ。
「守純さん、次、移動教室ですね。行きましょうか」
その振る舞いがどれだけクラスメイトの気持ちを置いてけぼりにしているのか。
「守純さん、教室に戻りましょう」
まるで彼女は気づいていない。
「守純さん、どこに行くんですか? ……あ、お手洗いでしたか」
休み時間中、まさに俺にベッタリ。トイレにまでついてきそうになったほど。
「守純さん、一緒にお昼食べましょう」
昨日の昼間までは他人のようなものだったのに。彼女は心の距離を目の止まらぬ速度、まさに縮地のごとく詰めてきていた。
これで俺に想いを寄せていないとか嘘でしょう。上透さんとの関係を知らなければ、君を必ず幸せにすると告げていただろう。
それはそれとして、
「もちろん。場所は昨日ところでいいかな?」
「はい、おまかせします」
推しとの尊き時間を、俺は精一杯楽しんでいた。推しの恋人になることは叶わないけれど、それに近い体験をしている幸せを噛み締めていたのだ。
それだけではない。かつては道端の石ころよりも意識を割かれる価値がなかった俺が、今や学園中の注目を一身に集めている。誰もが憧れる美少女の隣にいられるのは、なにものにも代えがたい優越感を得られた。それだけで自分の格が上がり、特別な人間になったような錯覚だ。まさにトロフィーを手にした人生勝ち組の気分である。
今の俺は頭にお花畑を耕すなんてレベルではない。かつては満たされずカラッカラだった欲求の器。溢れんばかりに満たされたものへ飛び込んで、じゃぶじゃぶと水遊びに励んでいるのだ。
「ヒコー」
そんな俺を現実に引き戻す呼ぶ声がした。
見ると丁度教室に入ってきた、我が人生の盟友の姿があった。
「おー、葉那か。どうした」
「いつもひとりで寂しくお昼を食べてる友人へ、たまには手を差し伸べてあげようかなって」
お弁当箱を揺らしながら、お誘いにきたと示す葉那。
他所から見たら上から目線に聞こえるが、こんなの俺たちの間では軽口ですらない。嫌な顔をするどころか、そんな友人を歓迎した。
「なんだ、徳を積みに来たのか」
「そ、私は天国に行く予定だから。積めるものは積める内に積んでおこうかなって」
「それをいうなら、地獄へ帰る予定の間違いだろ」
「バーカ。それは作るものであって、帰る場所じゃないわよ」
「そうだった。こりゃ一本取られたな」
はっはっはっは、と小粋なトークを弾ませる。
この悪魔は自分の振る舞いの果てに、日陰者たちがどんな世界に堕ちるか正しく理解しているようだ。社会平和を目指すのであれば、やはり始末されるべき悪魔である。それでも俺の大切な友人なので、その牙がこちらに向かない内はこのまま野に放っておこう。
「けど悪いな、天国に行く手助けはできなそうだ。お昼の予定は入ってるんでな」
「またみつき先生のお手伝い?」
「馬に蹴られて犠牲になる、友人の危機は見過ごせないだけだ」
「……どういうこと?」
「これから楽しいランチなんだ」
真白に手を差し向ける。
葉那に目を向けられた真白はビクリとした。不安そうに身を縮こませている。
昨日、真白とあった一連の話については葉那へ話している。葉那にとって他人事ではないどころか、その母親にまで協力してもらった。ここで伝えるべきことは伝えねば、義理を欠くというものだ。
「そういうことね。了解。こんな若さで死にたくないから、おじゃま虫は消えるとするわ」
わざとらしい声を上げながら、葉那はあっさりと背を向ける。
推しとのふたりっきりのランチタイム。そこに葉那が混ざるのは邪魔でしかない。
「悪いな。徳を積ませてやれなくて」
「ほんとね。友人孝行しようとして損しちゃった」
そんなわけではないことくらい、阿吽の呼吸で葉那にもわかってくれたようだ。
汲んだのは俺ではなく真白の気持ちである。できたばかりの友達とする、初めてのランチタイム。そんな相手の親しい友達に混ざられると、真白も距離を測りかねて楽しみづらいだろう。むしろ気持ちが置いてけぼりになる不安もある。
「それじゃ、えーんえーん、振られちゃったー、って他の友達に慰めてもらってくるわ」
「友達が多いやつは、慰めてくれる相手がいっぱいいて羨ましいな」
「ま、ヒコになにかあったときは、私が慰めてあげるわよ」
それじゃ、と背中を見せながらひらひらと手を振る葉那。
日陰者の幸せの芽を摘む悪魔でこそあるが、俺にとってはいい友人である。俺が気にかける真白の気持ちまで汲んでくれるのだから。
気心知れた友人だからこその一幕。俺たちの間ではなにかがすれ違う余地すらない、なんてことのないやり取りであった。
風が吹けば桶屋が儲かる。後にこのことが事件を引き起こすひとつのキッカケになるのだが、このときの俺と葉那はあんなことが起きるとは思いもしなかった。
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