48 神様のお導き

 でもそんな百合の態度には、誇るようなものは一切感じなかった。まるで真白家というものに、一切の執着がないかのように。


「わたしには、ふたつ下の弟がいるんです。生まれたときから手のかかる子らしくて。だからずっと、母は弟にかかりきりでした」


「……お父さんは?」


「忙しい人なので、滅多に帰ってきません。なにせ真白グループを継ぐのは、父かその弟――わたしの叔父のどちらかですから」


「後継者争いってやつか」


「通例なら年功序列だったらしいですけど、父たちは双子ですから。幼い頃から比べ合う仲だったらしいです。偉い人になるのって大変ですね」


 他人事のように百合は微笑んだ。


「外で頑張る夫を、内側から支える妻。うちはそんな、よくある家庭です。でも母の身体はひとつしかないから、こう言い聞かされてきました。『百合はお姉ちゃんだから』って。わたしはそれに、なんの疑問も抱いたことはありませんでした」


 どこか寂しげな百合は、視線をあげてここではない遠くを見た。物思いに沈みそうになる自分を避けるかのようだった。


 百合はお姉ちゃんだから、どうしたのか。


 弟にかかりきりの母親に、ずっと我慢させられてきたのだろう。


「母が弟にかかりきりの分、わたしのことは葛西かさいさんが面倒を見てくれました」


「使用人的な人か?」


「父の秘書となるはずだった人です。そう育てられてきたはずでしたが、父をかばったときに大怪我をして……日常生活を送る分には問題ないけど、秘書として働くのは難しくなったって」


 百合はそっと左目を触れた。まるでそこがダメになったと示すように。


 財閥なんて言葉がつくほどのグループ企業のことだ。秘書にも見栄えが求められるゆえの問題でもあるのかもしれない。


「葛西さんにとって、わたしの面倒を見るのは仕事であり、事務的にこなしているものにすぎなかったと思います。それでもわたしにとって、唯一相談できる人でした」


「どんな相談をしてきたんだ?」


「どうやったら、お母さんの自慢の娘になれますか。それがわたしの、初めての相談でした」


 胸元で合わせた五指に、百合は目を落とした。


 自慢の子供になりたい、なんてまたいじらしすぎる。百合はただ、ずっと弟にかかりきりの母親に構ってもらいたかったのだろう。でも自分はお姉ちゃんだから、そんな風に求めてはいけないと律していた。


 だから向こうから構いたくなるような、褒められずにはいられない自分を目指したのかもしれない。当時の百合が何歳だったかはわからないが……初めての相談というくらいには、幼かった頃の相談なのだろう。


「葛西さんに道を示されるがまま、沢山のことを頑張りました。学校が終われば習い事に行って、帰ってきたら寝るまで勉強をして。それを毎日毎日毎日毎日……ずっとそれだけを繰り返して、わたしは育ってきました」


「それは、その」


「家族とお出かけなんてもちろん、友達と遊ぶどころか、そう呼べる人はわたしにはいませんでしたから。なにかに気を取られることだけはない環境だったんです」


 言い淀んでいる俺の意図を悟って、百合は自虐的に微笑んだ。


「なにより葛西さんは間違っていなかった。あるときだけは、母は自慢の娘だって言ってくれるようになったんです」


「あるとき?」


「大勢の人が集まる場に、連れられたときです」


「親戚の集まりとか、会社のパーティーみたいな?」


 百合はゆっくりと頷いた。


「このときだけは、母はずっとわたしにつきっきりでいてくれる。この前百合は学校でとか、習い事でとか、わたしを自慢の娘だってみんなの前で褒めてくれるんです。ちゃんと母は、自分の頑張りを知っていてくれている。それが嬉しくて、わたしはまた一番になろうって頑張ってこれたんです」


 よかったじゃないか、なんて軽々しい言葉は出てこなかった。笑ったままではいるが、その目も、口角も、そして声音も自嘲めいた色が浮かんでいたからだ。


「それが無駄な努力だったって知ったのは、一昨年の十二月でした」




     ◆




 中学三年生になると、一時間単位の生活は終わりを告げた。


 中高一貫校だから受験の心配はないが、名門校でわたしはずっと一番であり続けてきた。それがいつしか、一番の座から転落してはならないというプレッシャーになっていた。


 葛西さんにもそんなわたしの空気が伝わっていたのだろう。三年生になると、習い事の数が抑えられたのだ。それなりの結果を沢山出すよりも、名門校で確実に結果を残す。そのほうがわかりやすく、周りに自慢の娘として誇れるから、と。


 その分、家庭教師がいてくれる時間が増えたが、それでも空いた時間は多かった。この頃になると足らないものを埋めるように、自分の足で書店へ向かい、自分の手で参考書を探すようになっていた。


 そんな中学三年生の十二月。


「おや、百合ちゃんじゃないか」


「叔父様?」


 たまたま帰り道で、偶然叔父と出会ったのだ。


 どうやら仕事で来ていたらしく、車で送ってくれると言ってくれた。父と跡目争いをしているとはいえ、血で血を洗うほどに憎しみ合っているわけではない。


 申し出を受け入れて、車内で当たり障りのない会話をする中で、


「しかし、ミサちゃんも立派な母親になったもんだな。先妻の子を、自慢の娘だって呼ぶほどに育て上げるんだから。百合ちゃんと比べて、うちの娘はわがままだからさ。同じ娘でもこうまで差ができるなんて、まったく羨ましい限りだよ」


 叔父は社交辞令と自虐的、半々のような声音で言った。


 ミサちゃん、というのは母のことである。学生時代から知っている仲だからこそ、叔父は気さくに呼んでいるのは承知していた。


「先妻の……子?」


 それでも聞き捨てならない言葉があった。


「どういう、ことですか?」


「え、どういうって。……まさか百合ちゃん、知らなかったのかい?」


 目を丸くしたわたしの顔に、叔父は面食らったように驚いた。


 路肩に車を止めた叔父は、突っ伏すようハンドルに額を置いた。


「まずいな。まさか隠してたとは思わなかった」


「隠してたって……なにを、ですか?」


 もう答えは口にされたはずなのに、それでも信じたくないとわたしは問いかけた。


「一応、公然の事実というか、秘密ですらないんだけど……百合ちゃん、これ、叔父さんから教えて貰ったって言わないでくれる?」


「言いませんから。お願いします、教えてください」


「……先妻って言ったからわかると思うけど、ミサちゃんは君の生みの親じゃないんだ」


 ハッキリと口にされ、わたしの目の前は真っ白になった。


 叔父は続けて教えてくれた。


 元々、父と母は学生の頃に付き合っていたらしい。でも真白グループの跡目争いもあることから、付き合い続けるのは難しくなり、話し合った上で別れたようだ。


 その後、祖父の紹介で出会った相手と父は結婚した。その相手はどうやら祖父のお気に入りらしかった。それこそ叔父と大きくリードをつけられるほどの相手だったらしい。


 子供をすぐに作り、第一子は生まれた。ただ生んだ当人はそのときに帰らぬ人となったようだ。元々身体が強くない人だったようで、それを覚悟で出産に臨んだらしい。


 そうやって生まれたのが、真白百合。わたしだった。


 それから一年後に父は再婚し、その相手と息子をもうけた。それが生みの親だと信じていた母であり、わたしの弟であった。


 たしかにこれは、公然の秘密ですらない事実だ。真白グループの後継者候補ともなれば、家族親戚はもちろん、それに関わる他人にすらも隠し通すことはできない。


 だから叔父も、それくらいわたしも承知の上だと勘違いしたようだ。


 そしてこの事実を知ることで、母の行動に意味が出てしまった。


 なぜ、弟にばかりかかりきりなのか?


 わたしは血の繋がらない他人の子。弟だけが自分の子供だから。


 なぜ、大勢の前に出るときだけ、母はつきっきりでいてくれるのか?


 先妻の子を自慢の娘だと言うことで、わたしとの関係を円満だとアピールするため。なによりわたしに、余計なことを言わせないためである。なにせわたしは、祖父のお気に入りであった人の子。そんな孫を蔑ろに扱えば、祖父の怒りを買って父の立場が危うくなるかもしれないからだ。


 手をかけたくないが、放っておくわけにもいかない。だから父は、わたしのことを葛西さんに任せたのだ。自分を守るために身を挺してくれるほどの、信用できる相手に。


 それがわかってしまった瞬間、今日まで自分が積み上げ、支えてきた土台が崩れ落ちていくかのようだった。


 わたしはただ、母に愛してもらいたかっただけなのだ。


 たとえ血の繋がりがなかったとしても、そこに信じられるものがあれば、それでもこの人はわたしの母だって言えたかもしれない。でもわたしたちの間には、信じられるものが築かれていないことに気付かされた。


 母の自慢の娘になりなかったのは、それくらいでしか母の気を引く方法を知らなかったから。それが無意味なことだったと知って、どう足掻いても愛してもらえないと知って。自分を見てもらえない、どうでもいい存在ですらなくて……それこそなにかの拍子でいなくなったほうが、母を一番喜ばせる方法なのではと頭によぎってしまった。


 だから母がどう思っているのか試してしまったのだ。


 ずっと通い続けてきた伝統ある名門校。そのまま進学するのではなく、新たな新天地で一人暮しをしてみたい。親の目の届かないところへ行きたいという意味を示すと、どんな風に反応するのか知りたかったのだ。


 その結果、


「百合がそうしたいと決めたのならそれでいいわ。お父さんにはわたしから言っておくから。うちのことは気にしないでいいから、百合は好きなように生きなさい」


 まるで理解者のような顔で母は言ったのだ。


 うちのこと、というのは真白グループを指してのことか。はたまた自分たち家族のことを指しているのか。どちらにせよ好きに生きろと言われたのは、おまえのことはどうでもいいと言われているように思えた。


 話はそれで終わり。母と話したのはこれが最後である。


 今思えば弟とまともに会話をしたことすらない。最初からこの家族の中には、自分の居場所なんてなかったのだと思い知らされた。


 目的を見失ったわたしは、今更前言を撤回することもできず、葛西さんに勧められるがまま新天地として百合ヶ峰を選んだ。


 ずっと母の気を引くことを目的にしていた人生だった。友人と呼べる相手なんてできたことがないから、どうやって作るかもわからない。だからクラスメイトとコミュニケーションを上手く取れず、いつだって相手を困らせてきた。


 気づけば特別という枠に押し込められ、わたしはクラスから孤立していた。今までとなにも変わらないはずなのに、今はそれが虚しく感じるようになっていた。


 一番になるために頑張ってきたから、こうして今も一番であり続けている。でも、それを喜んでくれる人は誰もいない。それが真白百合という人間が、今日まで積み上げてきた成果である。




     ◆




 百合の半生、なぜ百合ヶ峰にたどり着くに至ったか。


 それが本人の口から語られた。


『なーにが、誰の特別にもならない高嶺の白百合だ』


 真っ先にこの感想が出てきた気持ちが、嫌というほどにわかった。


 一見、誰もが羨むようなものばかりをもっているようでありながら、誰もが当たり前にしてきた経験がない。そのギャップこそが、百合ヶ峰での孤立を生み出してしまった。


 高嶺の白百合という特別という枠に押し込められ、誰からも理解されない可哀想な女の子ヒロインになってしまったのだ。


「そっか……よかったな」


 だけど、ここにいる少女はもう、可哀想な女の子ヒロインなんかではない。


「里梨と出会えたのは、やっぱり神様は見ているってことだ」


「はい。里梨との出会いは、まさに神様のお導きです」


 百合の満面には花が咲きこぼれていた。


 たしかに今までは報われない人生を歩んできたかもしれない。この世界に希望を見いだせず、なんのために生きているのかもわからない。大切にしたい相手がいないから自分を大切にできない。そんな可哀想な女の子ヒロインだったかもしれない。


 でも里梨に出会ったことで、百合はもう救われているのだ。


 まさに主人公と出会って、幸せの意味を知った。そんな主人公と結ばれて、ハッピーエンドを迎えたヒロインである。俺はそんな後日談に紛れ込んでしまっただけの、ネームドキャラクターにすぎない。


 だから精一杯、


「明日のバレンタイン、里梨の顔が楽しみだな」


「はい。本当に楽しみです」


 主人公たちのお祭り騒ぎに参加できる美味しいポジションを楽しもう。

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