66 いつまでもあなたのことが大好きです

 悲しげに開かれた百合の目は、それでも現実から逃げてはいけないと里梨を映し続けた。


「わたしのこと……嫌いに、なっちゃいましたか?」


 こうなるかもしれないことはわかっていても、動揺せずにはいられなかったのか。心無い棘のような言葉を百合は吐き出してしまった。


 里梨はそんな百合の動揺もわかった上で、優しげな微笑みを差し出した。


「ううん。嫌いになんてなってないよ。今でも百合のことは、大切に思ってる」


「ならなんで、お別れしないといけないんですか?」


「私たちの関係は間違った気持ちから始まったものだから。百合は依存心。私は魔が差しただけ。始まりの間違いに気づいたのなら、それを正しい形に戻さないと。周りに認められない関係は、やっぱり辛いから」


 ふいに里梨はバツの悪そうな表情をした。


「それに離れてよくわかった。やっぱり私は、男の子が好きなんだって」


 どこまで百合を納得させるための建前か。その本音がわからない曖昧な苦笑を里梨は浮かべた。


 本音がわからずとも、別れるという意思は明確だ。


 百合もそれが伝わったからこそ、肩を小さく震わせた。


「里梨がそう思うなら……わかりました。その気持ちを捻じ曲げてまで、関係を続けてくださいなんて言えません。責任だけで側にいてくれる重荷になりたくないから……別れます」


 もう戻れない関係に悲しみながらも、百合は納得する意思を見せた。


 里梨もどこかホッとしたような顔をする。


「だったら、せめて友達には戻れませんか?」 


 でも不意をつかれたように、里梨は目を丸くした。


 これだけは譲りたくはないという力強い百合の眼差し。そこから引き剥がせずにいる里梨は、目と口を小さく形を変え続けた。


 まるでなにかを探し求めるように。伝えたい思いことばは一杯あるのに、それを全部持ち出せない。


 ようやく見つけ出した言葉を、里梨は苦笑いと共に差し出した。


「キスとかいっぱいしちゃったからさ。そんな相手の側にいるのは……さすがにちょっと、居心地悪いかな」


 友達に戻ることすらもダメだと、里梨は意思を見せた。


 そんなものは建前なのは、きっと百合にだってわかっているだろう。本当は沢山の理由があって、里梨なりの心の流れ、その経緯があって、それを丁寧に伝えて納得させようと思ったはず。


 百合の未来を思ったからこその選択。


「恨んでくれていいよ」


 バッサリと百合の固執を断ち切るため、最後に憎まれ役を演じたのだ。


 それがわかっているからこそ、百合が返したのは悲哀でもなければ絶望でもない。


「いいえ、恨んだりなんてしません」


 ゆっくりと首を横に振りながら、淡い微笑みを浮かべたのだ。


「友達に戻れないって言われたら、ちゃんとそれを受け入れるつもりでしたから」


 その瞳に同居しているのは諦念なんかではない。どこまでも前向きな納得であった。


 吐息を漏らした百合は、まぶたを閉ざした。


 そっと、その胸元には両手を置かれた。今日まで蓄えられた尊いものを、優しく包み込むかのようだ。


「わたしはずっと、幸せの意味も知らずに生きてきました」


 ふと、百合は口を開いた。


「生きる目的すら見失って、灰色の世界を彷徨ってきた」


 閉ざされた視界こそが、かつて自分が彷徨ってきた世界だと示すように。


「でも、あの日わたしを見つけてもらって、この手を取って貰ってから、この世界は美しい彩りに満たされていった。あなたが照らしてくれた光が、わたしの心に幸せを咲かせてくれたんです」


 開かれた純粋な瞳。その瞳を通して見えている世界は、変わらず美しく映っているのだろう。


 今でもその心に、満開の花が咲き誇っているのだ。


「恨むなんてとんでもない。だって里梨はわたしの太陽だから」


 その花を愛でる喜びは失われてなんていない。


「今までわたしを照らしてくれて、ありがとう里梨」


 これからもずっと、その花が生み出す幸せを大事にしたい。


「いつまでもあなたのことが大好きです」


 その満面には美しい花が咲いていた。


 始まりはたしかに、依存心から生まれた想いだったかもしれない。


 社会に後ろ指を差されるような関係だったかもしれない。


 だけど始まりと形が悪いからと言って、そこで生まれるものは無駄なものなんかではない。なにせ世界は、そんなもので溢れているから。


 ただ、可愛いから。


 ただ、都合がいいから。


 ただ、相手がほしいから。


 自分の欲求を満たせる相手であれば誰でもいい。そんな動機から始まる関係なんて、普通どころか当たり前。恋愛ものみたいなキラキラした恋なんて、一般人にすらハードルが高すぎる。


 きっと大事なのは、始まりなんかではない。その先で生まれるもの。本気で想った先にこそ、本物が育まれるのだ。


 これは恋愛だけではない。どんなことにも通じるだろう。


 始まりは憧れだったかもしれない。嫌々始めたことかもしれない。それでも本気になって取り組んで、積み重ねてきたものは必ず身になる。


 たとえトロフィーを手にすることはできなくても、走り続けて得たものは、必ず自分の糧になる。


 そうしていつ日かその人生を振り返ったとき、走り始めた理由を上回る、かけがえのない中身が築かれているのだ。


 百合の中に生まれたものは、まさにそれだ。


 始まりは依存心だったかもしれないけど、その中で生まれた想いしあわせは、決して嘘なんかじゃない。 


 そしてその想いしあわせが生まれたのは、百合だけじゃなかった。


「百合……!」


 堰を切ったように里梨は百合に抱きついた。


「……百合の未来のためだって思ったら、お別れすることが一番だって。友達にも戻っちゃいけない。後ろめたさのない生き方をさせてあげたいって思ったのに……やっぱり、嫌だ」


「里梨……」


「本当は、離れたくない……」


 涙声で懇願した。


「ずっとずっと、これからも一緒にいたい……」


 心からの本音ねがいを口にした。


 恋人へ求めるような抱擁ではなく、泣きじゃくる子供のように里梨は縋った。


 突然のことに瞬きすら忘れていた百合は、その意味がわかると愛おしむように里梨を抱き締め返した。


 ふたりの想いは一緒だった。


「ごめんね……ごめんね、百合」


「なんで謝るんですか?」


「また、後ろめたいものを背負わせちゃうから……」


 満足そうな百合とは対照的に、里梨は後ろめたさに苛まれる声音を上げた。


 ふたりの関係が修復するということは、世間の目から隠れた関係を継続するということ。それでずっと、本当はしなくてもいい寂しさを抱えさせてしまった。


 里梨の後悔は、そこに根付いている。


 俺に託すことでもう二度とそんな思いはしなくていい。自分さえ我慢すれば、百合は本当の幸せを手にできると信じていた。


 だから突き放したのに、最後の最後で里梨は諦めきれなかった。


「わたしはずっと、里梨に貰ってばかりでした」


 それがわかったからこそ、百合は里梨の頭を撫でた。


「支えられてばかりでした。甘えてばかりでした。わたしは不出来な人間だから、きっとこれからも里梨に寄りかかることが多いかもしれません」


 我慢ができなかったその想いを、百合は喜んだ。


「でも必ず、あなたに与えられる人間になります。支えてあげられる自分になります。里梨に甘えてもらえるようになります。いつか本当の意味で、お互いを支え合える恋人になりたい」


 間違った想いから生まれた関係だったかもしれない。


 でも間違った関係の先で生まれた想いは、一方通行ではなかったのだ。


「これからもわたしたちの関係は、隠しながら生きていかないといけない。それに窮屈さを覚えて、堂々と手を繋げない不満も溜まっていくかもしれません。知られそうになることに怯えることもあるはずです」


 そっと百合は里梨の肩を掴むと、少しだけ身体を離した。


 純粋な瞳を潤ませながら、想い人へ微笑みを向けた。


「それでもわたしたちは、愛し合っているって気持ちに胸を張っていい。周りがなんと言おうと、こんなわたしたちを美しいって言い続けてくれる人がいますから」


「そうだった。私たちには、今こうして導いてくれた神様がついてたね」


「はい。今でもちゃんと、わたしたちを見守ってくれてますよ」


「どこで?」


「屋上です」


 真面目な顔でそんなことを言われるものだから、里梨は吹き出した。


「ぷっ、ふふふ。マナヒー、本当にそんなところから見守ってるの?」


 百合に問いかけるではない。本当にそこにいるのかたしかめるように、里梨は屋上へ顔を向けた。


 双眼鏡越しに里梨と目があった。


 百合と通話中であるケータイを持った手を、里梨に向かって振る。


 本当にいるとおかしそうに、里梨はまた笑っていた。


「とりあえず、一件落着かな」


 これ以上聞く耳を立てる必要はないと、ケータイの通話を切った。


 肩の荷がおりたことに息をつく。


 俺がタイムリープし、バタフライエフェクトを起こしたことで、大切に思える人の人生を大きく狂わせてしまった。その始まり、やってしまったことは今更変えられない。


 なら、どうやって狂ってしまった彼女たちの人生、その責任を取るか。


 ふたりが心から幸せだと思える道を模索するのだ。


 百合の幸せは里梨と共にあることは、今更言うまでもない。


 なら里梨の幸せはどうか?


 百合との関係を修復することが幸せなことなのか。俺のことを初恋だと、高校生になった今もう一度、俺に恋をしたいと言ってくれた女の子。男を当たり前に好きになるはずだった里梨を、また百合とくっつけるのはエゴなのではないか。


 当たり前に男を好きになって、付き合って、ゆくゆくは結婚し家庭を持ち子供が生まれる。弱者男性として俺が生きていた裏で、そんな人生を里梨は歩んでいたのではないか。その人生を俺のエゴで奪うのは正しいことなのか悩んだ。


 でも、百合への想いの強さは、たしかに里梨の中で生まれていた。それがわかることがあったのだ。


『ついカッとなっちゃっててさ。感情のコントロールができなかったの』


 あの日の言葉にすべて、百合への想いは本物だったと示されていた。


 百合に後ろめたさを感じていたからこそ、里梨はなんでも俺を許してくれた。でも家に泊まってしまったと聞いた瞬間、カッとなり感情のコントロールができなくなった。


 恋人の家に男が泊まるなんて許せない。そんな当たり前の感情に突き動かされたのは、その想いは本物だったからだ。


 今回はそれをキッカケに、すれ違いが起きてしまった。


 お互い言葉が足らなすぎた。


 これからも沢山不満も出てくるかもしれない。


 でもそれをすり合わせながら前に進むのは、男女の恋愛だって変わらないことだ。


 恋人と問題が起きて、喧嘩して、すれ違ったとき、きっと周りに相談するのが普通なのかもしれない。でも自分たちは普通でないからこそ、里梨は相談する相手がいなかった。だから自分の中で全部考えて、決断した答えを胸に進むしかなかったのだ。


 だから俺はこの先、そんなふたりの間に立てる役割。こういうときくらいは百合の間に挟まってもいいだろうと思ったのだ。


 かくして、双眼鏡の先には誰もが納得できる結末が繰り広げられていた。


 ふたりは幸せなキスをして終了。ハッピーエンド、完ってな。


 それを見た俺は、お決まりの言葉を口にするのだ。


「あらー、キマシタワー」


 と。

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