59 禁忌

 どちらからでもなく、なんとなく俺たちは歩き始めた。


「お、冷やしキュウリだ」


 冷やしキュウリを売っている屋台を見つけて、足を止めた。


 迷うことなくそれを買ってくると、葉那は顔をしかめた。


「冷やしキュウリ……?」


「なんだ、キュウリは嫌いだったか?」


「嫌いじゃないけど……わざわざ屋台で買わなくてもいいじゃない」


「ずっと濃い味のものを食ってたから、さっぱりしたものいきたくなってさ」


「だったらかき氷とかでいいじゃない」


「おこちゃまが。冷やしキュウリの力がわかってないな」


 串に一本丸々刺さったキュウリに齧り付く。散々粉ものや肉もので重たくなった胃が、軽くなるかのような清涼感が口内を満たした。歯ごたえもまたよくて、噛む度に瑞々しさが溢れてくる。


「これで百円とか、料金設定バグってるだろ」


「そこまでのもの?」


「百聞は一見にしかずだ。いいから一口食ってみろ」


 手渡すのではなく、そのままキュウリを葉那へと向けた。


 疑わしげな視線を注いだ後、葉那はキュウリをパクリと食べた。


 三回ほど顎を動かした葉那の目が見開かれた。


「なにこれ、めっちゃ美味しいんだけど」


「だろ?」


「口の中がリセットされていくわね。たしかにこれは、箸休めにもってこいの味だわ」


 二口目をすぐに欲した葉那は、串を奪い取るのも待てないというように、俺の手を取ってキュウリにかぶりついた。本日一番の一番舌鼓をうっている。


 俺も残ったキュウリをかぶりつき、あっという間に串だけとなった。


「これのミニトマト版もあるけど、いってみるか?」


「絶対美味いやつじゃない」


 あれだけ冷やしキュウリに渋い顔をしていた葉那が、俺以上に乗り気に答えた。


 トマトを買おうと屋台に振り返ろうとした瞬間、


「もーりずーみくーん」


 含みのある明るい声が俺を呼んだ。


 顔を見るまでもなく、その声の主に思い至った。


「さやか先生」


 顔を向けると中学時代の恩師、さやか先生がいた。


 さやか先生は美人というよりは、可憐な女性だ。みつき先生には劣るが葉那を上回る大きな胸。肩に垂れているふわっと緩いウェーブを描いた茶髪。女子大生のような稚さを湛えた瞳は、ニマニマとこちらをロックオンしている。まるで面白い玩具を前にして、逃してなるものかという悪ノリが表情に表れていた。


「お久しぶりです」


「うんうん、久しぶりねー」


 ヒラヒラと手を振りながら、さやか先生は近づいてきた。


「元気だった、のは聞くまでもないか。学校でのことはみつき……先生たちから聞いてるわ」


 先生と呼ぶまでに間が開いたのは、教師としてのケジメだろう。教師同士は基本、たとえ相手が後輩であっても先生呼びが基本らしい。


「男子だけに留まらず、一年生の中で一番の品行方正な優等生だって」


「一番はさすがに持ち上げすぎですよ。テストでは二回とも学年二位でしたから」


「一番の優等生っていうのはね、テストの点数ことだけじゃない。学校での素行や振る舞い、人間関係を含めて、百合ヶ峰の先生方は守純くんが一番だって評価したのよ」


「それだったら嬉しいですね」


「沢山守純くんを推してきた身としては、先生も鼻が高いわ」


 推してきたというのは、推し活という意味ではない。受験前から、百合ヶ峰の生徒として迎えるに相応しいと、俺を推してくれたのだ。だからさやか先生は、間違いなく一番の恩師であった。


「さやか先生は……見回り、ですか?」


「正解。ハメを外しているうちの生徒がいないか、パトロール中なの」


「こんな時間まで、教師も大変ですね。お疲れ様です」


「ありがとう。教師の身になって、労ってくれる子なんて守純くんくらいなものよ。――それで」


 半月状のニマっと目を、さやか先生は俺の隣に向けた。


「守純くんにも、ついに彼女ができたのね。おめでとう」


 さやか先生はからかうような口ぶりで言った。ニマニマとしながら近づいてきた理由に、こういうことだったらしい。


「守純くんの彼女ちゃんは、百合ヶ峰の生徒なのかな?」


「え、あ、その……」


 葉那は狼狽えた。彼女と間違えられた気恥ずかしさからではない。葉那が二年生のときの副担任が、さやか先生だったのだ。


 女の勘は鋭いとよく言う。下手なことを口にして、バレるのを恐れているのかもしれない。


「百合ヶ峰の生徒なのは間違いないですけど、彼女じゃないですよ」


 フォローを入れるように口を挟んだ。


 さやか先生は可愛い嘘を聞かされたかのように、にんまりと口を開いた。


「またまたー。当たり前のようにあーんってしてたじゃない。恥ずかしがらなくてもいいのに」


「彼女だったら、むしろ自慢しますよ」


「じゃあ……その一歩手前とか?」


「それだったら、俺たちどんな関係に見えますか? ってやりますね」


「たしかに守純くんだったら、そういうところは堂々とやるわよね。……それにしては、仲睦まじすぎるんだけど。もしかして親戚?」


 咄嗟に葉那に目配せをすると、コクリと頷かれた。高校での設定をそのまま話していいという合図だ。


「親戚は親戚でも、マサの親戚ですけどね」


「廣場くんの……」


 予想の斜め上の答えをもたらされ、さやか先生は目を見開いた。


 視線を彷徨わせた後、さやか先生はおずおずと尋ねてくる。


「……廣場くんとは、あれから会えたの?」


「四月になって、ようやく」


「そう。色々と……事情は聞けたの?」


「俺の口からは勝手に、ってわけにはいかない事情でしたけど、元気でしたよ」


「それだったらよかったわ」


 居住まいを正したように、さやか先生は教師らしい微笑みを浮かべた。


「元生徒とはいえ、折角のお祭りだものね。あんまり先生に引き止められてもあれだと思うから、そろそろ行くわね」


「はい。久しぶりに会えて、嬉しかったです」


「素直な気持ちでそういうことを言ってくれるから、守純くんのことは大好きだったわ。それじゃ、またね」


 さやか先生は手を振りながら、俺たちが来た方角へ去っていった。


「さすがに気づかれなかったか」


 ホッとしたというよりも、感慨深そうに葉那は言った。


「なんだ、残念だったか?」


「そうね……さやか先生になら、話してもいいかなって考えがよぎったわ」


「おまえ、そこまでさやか先生と仲良かったっけ?」


「外角高めではあるけど、さやか先生はストライクゾーンだからね」


「ただの女教師じゃなくて、年上のお姉さん感もあるからな、さやか先生は」


「後はヒコのこともあったから、よく話してたから。……あれから二年しか経ってないのに、なんだか懐かしく感じたわ」


「二年も経ってればな。俺なんて、三月以来でも懐かしく感じたぞ」


「ヒコはずっと、さやか先生の尻を追いかけてたものね」


「お世話になったと恩を感じているのも本当だぞ」


「これで息子のお世話もして貰えれば、言うことなかったわね」


「違いない」


 しょうもない下ネタだからこそ、バカみたいに笑えることもある。


 気を取り直して冷やしトマトを買い、それぞれ口にしたところで、


「守純じゃないか」


 またも声をかけられた。


 今回は心当たりがないまま顔を向けると、中学三年生のときのクラスメイトたちがいた。男2と女2の計四人。彼らを中心にしてクラスは回っていた、そんな一軍たちである。


 よくも悪くも空気のように扱われていたから、親しげに声をかけられる覚えはないのだが。


「卒業式以来だな、久しぶり」


「おう、久しぶりだな」


 挨拶をされたのなら、返さないわけにもいかない。悪感情こそないが、頭の中はクエッションマークでいっぱいだった。


「また急にどうしたんだ?」


「あー、いや……」


 どの面下げて声をかけてきてるんだ、と聞こえたのかもしれない。そういう意図はないのだが、四人とも後ろめたそうに頬や頭を掻いたりしている。


 リーダーにして委員長だった男、木下が決意をしたように頭を下げてきた。


「中学のときは、ずっと無視してきて悪かった」


「ああ、そのことか。別に気にしてないぞ」


 いきなりの木下の謝罪に、狼狽えることなくそう告げた。


「殴られてきたわけでもなければ、変なちょっかいをかけられてきたわけじゃないんだ。イジメられてたなんて思ってないからな」


「いや、でもさ……」


「触れられない存在なりに、グループ決めとかで配慮してくれてたのはわかってたしな」


「守純……」


 一軍たちは四人揃って目を瞠った。まさに器の大きさを見せつけられたかのように、感嘆しているのだ。


 シャツの裾が引っ張られた。葉那がなにかを訴えかけるような横目を送ってくる。


「見ての通り、今日はツレと来てるんだ。またどこかでな」


 軽く手を上げて、その場から離れた。


 沈黙を貫いたまま、俺たちは雑踏を進んでいく。


 しばらくして葉那が口を開こうとすると、


「お、守純」


 二年生のときのクラスメイトたちに出会った。かつてクラスの中心であった一軍だ。


 彼らは近寄ってくると、木下と同じようなことをして、葉那に裾を引っ張られその場を後にした。そんな出会いを後二回ほど繰り返したら、


「あー、もうなんなのよあいつら! なにが無視してきて悪かった、よ。今更すぎじゃない!」


 癇癪を起こした子どものように、葉那は不満を爆発させた。


 ずっと面白くなさそうな顔をしていると思ったら、葉那は彼らの謝罪にご立腹のようだ。


「あいつら絶対、自分のことだけ考えて謝ってきてるだけよ」


「過去を清算したいとか、罪悪感から解放されたいだけだ、ってか」


「そうそう。ヒコの気持ちなんて、微塵も考えてないわ。考えているつもりの自分に酔ってるだけなのよ」


「許すの言葉を引き出したから、これですべてチャラだ、って具合にな」


「そこまでわかってるのに、なんであっさり許してるのよ」


 やり場のない怒りの矛先を、葉那は不満げに視線に乗せてきた。


 矛先が向かってきてしまったが、葉那の気持ちは素直に嬉しい。友人として、あいつらは許せないと怒ってくれているのだ。『気にしてないからいいんだ』の一言で済ませるのは、その友情を蔑ろにする感じた。


「あいつらに取って、仕方ないことだったからだ」


 自分なりに言葉を尽くすことにした。


「学校っていうのは、特別な環境だからな。生徒間のコミュニティから弾かれたら、人生終わりだって本気で信じてる奴は少なくない。俺に関わると迫害されると信じているからこそ、無視を選ぶことしかできなかった。俺はその弱さを、責めようだなんて気が起きなかっただけだ」


 始まりはエロに詳しすぎるあまり、女子からは疎まれてしまった。そんな俺と同じ扱いを受けたくないから、男子たちからも関わるのを拒まれた。そうやって始まった俺の扱いは、いつしか守純に関わった奴を、コミュニティから迫害しなければならない。そんな空気が学年中を覆っていた。


 いつしか俺は、関わるだけで迫害の祟りをもたらす、歩く特級呪物のような存在になっていたのだ。


 共通認識という名の、同調圧力。始まりの理由なども忘れてしまったかのように、『ヤバい奴』として下の世代にも語られるようになった。


 彼らはただ、自分の立場を失うのを恐れていたにすぎない。その気持ちを顧みず、同調圧力に負けたおまえたちを許さないだなんて、俺は口を避けても言えなかった。俺もかつては、そのできなかった側の人間だからだ。


「おまえだってトイレでウンコをしたって禁忌が暴かれたせいで、登校拒否に陥ったんだ。学校にいられなくなるのを恐れる気持ちはわかるだろ?」


「それを言われたら……そうだけど」


「中学校で守純愛彦に関わるっていうことはな、小学校でうんこをする以上の迫害をもたらす、ひとつの禁忌だったんだよ」


「あんた、それ自分で言っていて虚しくならないの?」


「ちょっとな」


 よくよく考えれば、なんで俺はそこまでの扱いをされなければならないのか。不思議でたまらなかった。


 でも、学校っていうのは特殊な環境だ。化学反応的なものが起きた先で、通常では考えられない常識が生まれ、それが生徒たちを支配する。


 俺は運が悪かったのだろう。後生に引きずるほどのことでもないし、そこはスパッと納得して前に進もう。


 あれだけ不満げだった葉那は、いつの間にか感心したような表情を浮かべていた。


「ヒコがそう考えてるなら、私が苛立つのも野暮ってものね」


「ま、俺のことを考えて怒ってくれるのは、素直に嬉しいぞ」


「……ヒコってさ、恥ずかしげもなくそういうことを言うことあるわよね」


 言われた本人が気恥ずかしそうに顔を背けた。


 感謝や嬉しい気持ちを素直に告げるのは美徳だ。でも友人間でこの手の気持ちを言葉にするのは、たしかに気恥ずかしい年頃だろう。男同士ならなおさらだ。


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