19 理不尽の悪魔
「みんなね、私がヒコのことを好きだって思ってるのよ」
「そんなことだろうとは思った」
お互い顔を見合わせながら、困ったもんだと息をついた。
放課後、また後でと別れた葉那が訪れたのは、夜の八時である。制服姿のままということは、この時間までずっと誤解を解いていたのだろう。
リビングのソファーに、項垂れるように葉那は倒れ込んでいる。まさに勝手知ったる他人の家、実家のように寛いでいた。
氷いっぱいのグラスに注いだコーラ。ストローまでつけたそれを、葉那に差し出した。
「ほら」
「んー、ありがとー」
差し出してきた手を引っ張って、ソファーから起こしてグラスを渡した。ちゅーちゅーストローを吸いながら、少しは生き返った顔をする。
「それで、向こうは納得したのか?」
「してない。でもまたこういうことが起きて、ヒコたちに迷惑がかかるようなら、もう先輩たちといられないってきつく言った」
心から申し訳なさそうに、葉那は眉尻を下げた。
あのとき真白が詰め寄られていたのは、どうやら俺との関係を追求されていたようだ。ただのお友達ですと答えようとも、真白の距離はあまりにも近すぎる。逆にその態度が、彼女たちの癇に障ったのかもしれない。だから言葉を重ねるごとに、どんどんきつめに詰め寄る形になった。
ずっと側で葉那が思い続けてきた相手が、ぽっと出の女に掻っ攫われる。それが気に食わなかったのだ。
葉那が俺を好きという前提からして、間違っているのだが。
「推しのピンチに割って入ったつもりが、おまえが諸悪の根源だとビンタされるとは思わんかったよ」
「ほんとあんたはバカだね」
ダイニングテーブルで晩酌している母ちゃんが、呆れたように言った。
「なにが、俺のために争わないでくれ、だ。空気も読まずに、ふざけたことを言って」
「小学生の頃からずっと練習してきたからさ。練習の成果を見せるなら、ここだ! と思ったんだ」
「それでビンタをもらってるんだから。ほんと自業自得だね」
「まあまあ、おばさん。まさかヒコも、自分が関わってるとは思ってなかったし」
葉那が苦笑いしながら援護をくれた。
「でもその結果、葉那ちゃんの秘めた想いを自覚している男、ってなったわけだろう?」
「そしてそんな一途な幼なじみではなく、高嶺の白百合の特別になることを選んだ。我ながら、ビンタされたのも残当な結果だな」
「一番の問題は、その前提が間違ってるんだけどね」
呆れる母ちゃんを横に、俺と葉那はため息をつく。
「おまえの好みは年上のお姉さまだもんな」
「私が本当に抱かれたいのは、
あーあ、と疲れたように背もたれに葉那は身体を預けた。
誤解とはつまりそういうこと。葉那の恋愛感情と性欲の矛先は、男に向かうことはない。その矢印は女に向かっているのだ。だから男である俺を好きになることは絶対にありえない。
かといってそれが、葉那へ恋愛感情を抱かないという俺の理由にはならない。
考えてもみるといい。唯一の友達であった幼なじみが本当は女だった。しかも巨乳JK美少女であり、気心は知れているから相性面はバッチリだ。
天和が絡んだ四倍役満のような
俺はずっと、葉那のことを男だと信じて生きてきた。
それはうちの母ちゃんも同じ。ずっと俺と仲の良い男友達だと信じてきた。
葉那の家族たちも同じだ。葉那のことを息子であると疑わずに信じてきた。
そしてなにより、葉那自身も同じだ。自分のことをずっと、男だと信じて生きてきた。
中二の夏、腹痛で倒れ病院に運ばれるまでは、誰もが葉那を男だと信じていた。それが病院に運ばれ、検査を受けたところ、葉那の性別が女だったということが発覚したのだ。
どうしてそんなありえないことが起きたのか。股間についているか否かでわかるものを、間違えることなんてありえないだろう……と思うところだが、それが現実に起こりうる症例が世の中にはあったようだ。
葉那は染色体が女性であるにも関わらず、先天異常で男性器のようなものが形成されてしまっていた。だから男児として扱わられ、誰もそれを疑わずに信じて、男として育てられてきたのだ。腹痛の原因は、排卵ができず溜め込んだものが引き起こしたものらしい。ようは初潮を迎えていたのだ。
ずっと男として生きてきたのに、ある日突然、おまえの身体は女だった。そんな現実を突きつけられた葉那の気持ちを語ることはしない。当事者でもない人間がわかった気になるには、あまりにも重たすぎる案件だ。
紆余曲折はあったが、葉那は女の身体で生きていかねばならない現実を受け入れて、今こうしてここで立っている。
ここまでたどり着くのは、困難な道のりだったろう。一度は心が折れて、泣いている姿も俺は見てきた。でもそれはまた別の話。ここで示したいのは、葉那が絶対に男を好きにならない理由だ。
男として生きてきた十四年という
年上のお姉さんにリードされて童貞を捨てたい、とずっと葉那は夢見てきた。だけどその願いはもう叶わない。
それでも年上のお姉さんと交われることができなくなったわけではない。心に据えた童貞を必ず年上のお姉さんで捨てる。それがこそが今の葉那の夢である。
そして葉那の悪魔としての振る舞い。どれだけ相手を格下扱いしようとも、彼らは葉那が取り戻したいものを持っている。自分より格下の男共が、それを使って報われるのが妬ましい。なにせそれは、葉那にとって理不尽に奪われたものだからだ。彼らに否はないが、それでも呪わずにはいられない。完全に八つ当たりである。
こうして理不尽の悪魔は、男どもを惑わせ、狂わせる道を選んだのだ。
「葉那ちゃんもほんと、大変ね」
「まー、もう慣れましたけど」
母ちゃんが気遣わしげに言うと、しょうがないという葉那は肩を揺らした。
葉那は昔からよく俺の家に来ていたので、母ちゃんにとっても馴染みの子だ。思い入れのある子が大変なのは、それだけで心を痛めるのだろう。
「これでもね、色んな娘たちにヒコのこと紹介しようかって言ってきたのよ」
「それって、大丈夫なのか。人身御供を捧げようとしているとか、陰で言われてないか心配だ」
俺の評判を考えれば、葉那のやっていることは友達を売る行為だ。俺のために動いてくれるのは嬉しいが、自分の評判まで落としてやってほしいことではない。
「大丈夫よ。私の周りの娘たちは、全員ヒコのこと一目置いてるから」
「なんだと!?」
どういうことだ。てっきりクラスの女子たちの扱いが、この学園の女子全員の総意だと思ってきたのに。
「一体……なにをしたら俺の悪評が裏返るんだ」
「あんたのエロ神様の活躍については、ただのパソコン博士ってことで伝えただけよ。そしたら、『あー、そういうことだったんだ』って」
「待て……その程度で納得するのか?」
信じられなかった。パソコン博士の一言で、穢れ神から百合ヶ峰の優等生に戻れるのかと。
「ほら、小学生のとき面白いサイトとか教えてくれたでしょう? 周りの娘たちのパソコンの知識なんて、そんなサイトですごいすごいとはしゃいでた当時の私と変わらないわ。ウイルス? よくわからないけど怖いよね。それをどうにかできる人ってすごいよね、くらいの感覚よ」
「マジかよ……いや、そうか。まだ2000年代だもんな」
パソコンをひとり一台当たり前どころか、仕事でもないのにパソコンを使ってなにをするの? って言うのが、一般高校生の認識だろう。動画にコメントしてニコニコできる世界は、まだ訪れていないのだ。
ここは元お嬢様学園だから、そういった知識は疎くて当然かもしれない。
「だから私の周りでヒコのことを悪く思ってる娘はいないわ。むしろみんな、ヒコみたいな彼氏が欲しいって言ってるわよ」
「葉那、おまえ……本当にいい奴だな」
「友達を悪く言われて黙ってるほど、薄情じゃないだけよ」
うるっときた目頭を掴む俺に、葉那は当たり前のように言ってくれた。
「そうなるとヒコってば、成績優秀、品行方正、顔は……まあ、雰囲気はイケメンよね。うん、全然ありあり」
「髪のセットやスキンケアは日頃から怠ってないからな」
顎を掴んでキメ顔をした。
かつての俺は、イケメンたちに妬み嫉みを抱く妖怪だった。なにせ奴らが生まれ持った顔ひとつでチヤホヤされている傍らで、電車で隣に座るだけで女たちから嫌な顔をされてきた。不平等だと世を恨んだのだ。
でも人生をやり直していく中で気づいた。先生に愛彦くんの目が怖いと相談される前は、女子ウケがよかったのだ。男女ペアを作るときは真っ先に選ばれてきた。自分の顔面偏差値を知りたくて、一度だけ聞いたこともあった。
「俺の顔って……キモくないかな?」
「ん、急にどうしたの? 愛彦くん、カッコいいよ」
裏表のない心からの笑顔が向けられた。
そうか、俺はイケメンだったのか。
と、そのときは有頂天になって、母ちゃんに俺ってイケメンだったんだと伝えた。
「あんたの顔は普通。中の中よ」
そしたらバッサリと切り捨てられた。
愛する息子フィルターを通しての評価だ。やっぱり俺はブサイクなんだと絶望した。けどそうではないことを母ちゃんは諭してくれた。
「勘違い男にならないよう、客観的事実を指摘しただけよ」
「でも、イケメンじゃないなんてやっぱりショックだよ」
「たしかにあんたは、ユキと比べればブサイクだ。イケメンなんかとは程遠い」
「幸嶋と比べたら全人類がブサイクだよ!」
「黙って話を聞きな」
ピシャリと母ちゃんは言った。
「いいかい、愛彦。たしかにあんたはイケメンじゃない。でも、カッコイイはね、作れるんだよ」
「なん、だと?」
「母ちゃんの言うことを聞けるなら、あたしがあんたをイケメンにしてやるよ」
「母ちゃん……!」
こうして当時小五の俺は、母ちゃんによる守純愛彦イケメン化計画に乗ったのだった。
表情の作り方から始まり姿勢の矯正。服の着こなし方や美容院の使い方などなど。細かいことを上げたらキリはないが、一歩一歩着実に、カッコイイに近づいていった。
その果てに、雰囲気イケメンの称号を掴んだのだ。長城のような本物には絶対敵わないが、過去の自分を振り返れば十分な成果である。
「そして教師からの信頼も厚い、まさに百合ヶ峰一の優等生男子。……うーん、こうやって並べ立てれば、ヒコって本当に優良物件ね。なんで売れないのかしら」
「ほんとそれ。こんな俺に彼女ができないとか、まさに百合ヶ峰の七不思議だな」
「ただ紹介しようか、って声をかけてるんじゃないのよ。ヒコは彼女ができれば浮気せずに、一途に尽くしてくれるって、これでもかって持ち上げてるんだから」
「そうなると……やっぱりおまえとの関係かー」
「そうなるのよねー。みんなから『いいのいいの葉那に悪いから』ってニヤニヤされちゃって。そこはごめん、素直に謝る」
「いや、いいさ。こうしてやり直す機会を得られる前は、友達なんていなかったからさ。葉那みたいのが友達でいてくれるだけで、俺にはすぎた財産だ」
「ヒコ……」
どんなに人の輪から追い出されても、葉那だけは離れず側にいてくれた。それが俺にとって、どれだけの救いであったか。葉那が死んだと勝手に確信したときは、その夜は涙したし、生きていると知ったときもやっぱり涙した。
神様と崇められてからも、なんだかんだで前向きでいられるのは葉那がいたから。自分をわかってくれる友達がひとりいるだけで、心持ちは大きく変わるのだ。家族以外で一番信頼し心を許せるのは、間違いなく葉那である。それこそ俺の秘密、タイムリープしていることを教えるほどに。
「そこまで言われたら、私ももっと頑張らなきゃね。ヒコの売り出し方、アプローチを変えて頑張ってみるわ」
「アドバイスくらいならおばさんもするよ。親であり大人としての目線もあれば、なにか気づくこともあるだろう」
母ちゃんが口を挟んだ。普通だったらこんな話、思春期男子としては母親に混ざられるのは嫌だろう。でも、そういう恥がない俺は、母ちゃんは最高の援軍だ。なによりこの問題は、俺にとってかなり切実なものである。
「ちなみに葉那ちゃん、普段コレのことをどう説明してるんだい?」
「えーと、説明するってなると難しいな。いつも流れでやってることだから」
「よし、わかった。おばさんが友達役やるから、それに返して頂戴」
「あ、それならやりやすいです」
さすが年の功。説明しづらい話の引き出し方がうまい。
コホン、と母ちゃんは咳払いをした。
「葉那ー」
「ん、なーに?」
「どう、最近守純くんとは?」
「どう、って別に普通だけど」
「えー、本当にー? なんかいい感じに進んだりしてないの?」
「またその話? ヒコとはそんなんじゃないっていつも言ってるでしょ」
「またそうやって……うかうかしている内に、横から掻っ攫われて泣きを見ても知らないわよ。わたしにみたいに、守純くんいいなー、って思ってる子はいっぱいいるんだから」
「そう、だったら紹介でもしましょうか? ヒコが変な女とくっつくくらいなら、あんたみたいな子が側にいてくれたほうが安心するわ。ヒコは彼女ができれば、一途に尽くして浮気しない。こんな優良物件、そうそう他にないわよ」
「そうやって結局、葉那は惚気けるんだから。紹介はいいです。なぜなら葉那に悪いから。本当に、守純くんのことが好きなのね」
「だから、そんな感情ないない。そういう風にヒコを好きになるとかありえないから」
「はいはい。葉那の秘めたる想いは、ちゃんとわかってるから。……あ、わかった。守純くんのほうから好きだって言ってもらいたいんだー」
「それこそないない。ヒコは私のこと……」
滔々と流れる川のような女子の会話が、ふと止まった。
葉那は笑ったままではいるものの、その顔はどこか寂しそうで。ピアスの穴を開けるとき、自身をこれから傷つける痛みを想像して、つい躊躇ってしまう。そんな苦しみを堪えているようにも見えた。
「好きになることは絶対ないから。ずっと友達だって、言ってくれたから」
本人は取り繕っているつもりかもしれない。でも自傷した痛みを我慢しながら、無理して喋っているのは明白だった。
「葉那……」
「私はそれだけで十分だから……」
手を伸ばせば届く距離に星はあるのに、掴もうとしたら消えてしまう。でも掴もうとしなければ、いつまでもその星は側にあり続ける。でもその輝きが愛しいからこそ掴みたいのだ。
掴める場所に星はあるのに、手を伸ばせば消えてしまう。そんな二律背反に苦しんだ末に、葉那はその星を掴むことを諦めた。織姫になれないのなら、せめて彦星の側にあり続けることを選んだのだ。
そんな胸に秘めた大切な想いと願い。
かつて抑え込んだものが、葉那の瞳から溢れそうになっていた。
「だから私のこと……気にしないで、いいんだよ」
「気にするわ!」
くだらない小芝居に、我慢できず叫んでしまった。
「マジでこれをいつもやってるんじゃねーだろうな」
「いや、最初からこうだったわけじゃないのよ。でも、何度も何度も同じことを繰り返していくうちにさ、ちょっとうんざりしちゃって」
既にケロッと表情を戻している葉那。この切り替えの早さは主演女優賞ものである。
「こういう姿が見たかったの? ってやったらさ、みんな優しくしてくれてね。それならこれはどう、って続けてたら、いつの間にか悲劇のヒロインみたいに扱われちゃって。それでみんなチヤホヤしてくれてね……なんか気持ちが満たされちゃって、つい」
「承認欲求じゃぶじゃぶしてんじゃねー!」
反省するどころか満たされた顔をしている葉那を怒鳴りつけた。
同時にハッとして、俺はとんでもないことに気づいた。
「待て……待て待て待て……つまり、今の俺の評価はあれか」
「人の気持ちを知っておいて、おまえは一生友達だって切り捨てた相手の前で、他の女の子とイチャイチャしている最低野郎、ってことになるわね」
「ふざけんな、この悪魔が!」
「ごめーんね。テヘ」
葉那は頭をコツンとしながら、ペロリと舌を見せた。
テヘペロを決められた俺の心は当然穏やかではない。女の気持ちを踏みにじる最低野郎扱いはヤバイ。穢れ神扱いのほうが百倍マシである。
今回のビンタ事件は、葉那を想う会の暴走でもなんでもなかった。身勝手な承認欲求を満たしたいがために、あえて招き続けてきた誤解。その土台を丁寧に作り上げてきたのは、間違いなくこの悪魔である。
やはり社会平和を願うなら、この悪魔は始末しかるべき存在で間違いなかった。友人だから、実害がないからと野に放ち続けてきたしっぺ返しが、ついに俺を襲ってきた。
「……助けてチェ○ソーマン」
理不尽の悪魔から俺を救ってくれ。
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