44 放っておいて

 みつき先生からみっちり生理の授業を受けた。さすが先生と言うべきか、そこにいやらしさも恥じらいもなく、内容は理論整然としており、気になった点も簡潔に答えてくれた。まさか安全日が言葉ほど安全ではないと教えられたときは、目から鱗が落ちた。主にエロ同人から身についた知識は、やはり偏っていたようだ。


 ここだけの相談ということで、夏休みに入ってからの葉那の生活リズムを語った。このままではいけないと咎めたが、生理云々で日和った恥まで晒すと、


「たしかにそれはよくない状況ね」


 みつき先生は真剣な面持ちで唸った。


 面目ない俺は頭を掻きながら、


「あれから何度か、電話やメールで飯を誘ったんだけど……その度に生理を持ち出してくるから、お大事にしか返せなくて」


「それがわかってるんだね、廣場さん」


「やっぱり、言い訳に使ってるだけだと思いますか?」


「うん。守純くんを避けるための、魔法の言葉としてね」


「たしかに効果はてきめんだ」


 してやられたことに、俺は大きく肩を落とした。


「まさかあの一件が、ここまでの冷戦状態を引き起こすなんてな」


「廣場さんとケンカになったのは、これが初めてのこと?」


「そもそもケンカにすらなってないんですよ。俺としては自覚を促したというか、たしなめたのが原因っていうか……一番の問題は、女として気遣われているのが、向こうは嫌だったんでしょうね」


「女として気遣われているのが? 普通逆じゃない?」


 みつき先生の疑問に、俺はゆっくりとかぶりを振った。


「あいつは俺と対等だった、性差なんて関係なかった頃の友人関係を求めてるんです。……その、小学生だった頃みたいに」


「ああ、そういうことね」


 少し事情を語りすぎたと気づき、咄嗟に付け加えた言葉にみつき先生は納得した。


「中身はさ、いくらでも前みたいに扱うことはできますよ。でもやっぱり、身体は女だから。全部が全部、前みたいに変わらず扱うわけにはいかない。でも向こうはそれが嫌で、お互いが相手に求めているものを言葉にした結果、こうなっちゃった、ってわけです」


「そうだったの。てっきり先生、初めてで失敗しちゃってギクシャクしちゃったのかと」


「初めて?」


「ううん、なんでもない!」


 大げさな身振りで、みつき先生は否定を示すように両手を振った。


 不思議そうな顔だけ浮かべ、俺は追求することはしなかった。そんなことをしなくても、みつき先生が考えていたことがわかったからだ。俺たちふたりが、大人の階段を上るのに失敗したとでも勘違いしたのだろう。


 取り繕うようにみつき先生は居住まいを正した。


「先生はね、守純くんの考えは間違っていないと思うわ」


「でも、今回ばかりは正論突きつけて、おまえが悪いで済む問題じゃないですから」


「それを理解してるなら、このことについて先生から言うことはないわ。後はどうやって、今の廣場さんに耳を貸して……その前に、規則正しい生活に戻って貰わないとね」


「少なくとも、もう生理を盾に出されても怯みませんよ」


「今の守純くんは頼もしいわね」


「みつき先生のおかげです。わざわざ時間を割いてくださって、ありがとうございました」


「いいのよ。守純くんには普段助けられているから。困った時はこうして、遠慮なく頼ってくれたほうが嬉しいわ」


 ポンポン、と椅子に座る俺の頭は撫でられた。ホワイトボード前に立っていたみつき先生は、そうなると手の届く距離にいるわけで。眼前には大きな果実がふたつ迫ってくるわけだ。


 手を伸ばせば掴める距離に、夢がある。


 必ずいつか掴んで見せると、俺は固い決心をしたのであった。




     ◆




 その後、みつき先生にお昼を誘われた。しかもご馳走してくれるという。


 ただでさえ忙しい時間を割いて貰ったのに、奢ってもらうなんて申し訳ない。そう断りを入れたが、「これは先生の禊みたいなものだから」と押し切られ、駅前のインドカレー屋でお昼を済ませた。


 先生とふたりきりで食事なんて、普通ならあまり楽しい時間ではないだろう。でも俺にとっては、その手に掴みたいほど大好きな先生だ。話題はやはり学校中心になるが、夏休みに入ってから、青春を感じた一番楽しい時間であった。そのくらい俺は無味乾燥な夏休みを送っていたのだ。


 男手があれば助かる作業が溜め込んでいるらしく、このまま学校に引き返したいくらいだ。だが、優先事項を常に間違え続ける愚か者であっても、このときばかりは選択を間違えなかった。


 みつき先生と別れて、家に帰ると母ちゃんが旅行から帰ってきていた。心配するなと送り出されて帰ってみると、一切進展していない。


 ガッカリした顔を前にして、


「大丈夫だ。これからなんとかするから」


 と得意げに言っても説得力は皆無である。


「旅行に行く直前も、似たような言葉を並べたてたじゃないかい」


「ことあるごとに、生理を盾に取られてな。日和り続けてきた俺だが、もう心配はない。なにせ今の俺は、生理を学んできたばかりだからな」


「色々と言いたいことはあるけど、どこで学んできたんだい」


「学校で。恥を忍んでみつき先生に、女の身体を教えて下さいって土下座してきた」


「また随分な恥を晒してきたもんだね」


「まあ、女教師と男子生徒っていう立場だ。最初は軽々しい真似はできないって断られたよ」


「当然だね」


「だからもう、さやか先生に頼るしかないかって呟いたら、それはダメだって止められてさ。さやか先生に頼らせるくらいならって、最後は責任を持って俺に付き合ってくれるって、覚悟を決めてくれたんだ」


「……ちょっと待ちな」


 母ちゃんは頭を痛めたように眉間にシワを寄せながら、目頭を掴んだ。


 数秒そうした後、


「それであんたは、なんて言ったんだい? なるべく正確に」


「ん? えーと……本当に助かります。さすがに先生、いや教師相手とはいえ、女性に生理のことを教えてくれなんて不味いかな、って」


「あ、なるほどね」


「なんだよ、そんなことをいきなり聞いて」


「バカな息子が、先生に恥知らずな粗相してないか、確認しただけだよ」


「俺が粗相なんてするわけねーだろ。ちゃんと誠意を持って頼んだんだから。教えて貰えて当たり前なんて、俺は思ってねーからな」


「そうかい。あんたは変なところで生真面目さを出して、チャンスを逃したんだね」


「チャンス?」


「わからないんならそれでいいよ。いいからさっさと、葉那ちゃんを説得してきな。それでもダメなら、いよいよ母ちゃんが説教しに来るぞってさ」


「あいよ」


 母ちゃんに最終手段を託され、家を後にした。


 葉那の部屋の前に着くと、一度チャイムを押し、誰も出てくる気配がないのを確認する。前回のようにチャイムを連打しても、やはり葉那は出てこない。電話は『現在電源が切られているか電波が届かない――』というところ切って、ポケットからそれを取り出した。


 葉那の部屋の合鍵である。なにかあったときのために、葉那合意の上で、おばさんから託されているのだ。


 母ちゃんが最終手段なら、この部屋の鍵は奥の手。葉那相手とはいえ、プライベート空間に無理やり押し入るようなことはしたくなかったが、今回ばかりは仕方ない。


 ただ俺が距離を置かれてるだけならともかく、ろくな生活を送っていない。ちゃんと飯を食わせて、規則正しい生活を求めるためだ。大義は我にありと、部屋の鍵を開けた。チェーンはかかっていたらどうしようかと思ったが、そこまではなかったようだ。


 靴脱には、学校用のローファーと、普段履きのスニーカーがあった。これで十中八九居留守だとわかり、リビングに足を踏み入れると確信に変わった。リビングから通じる葉那の部屋から、音楽が聞こえたからだ。


 ポップで曲調に、わざとらしい甘い歌声。曲名は思い出せないが、天河ヒメの曲なのは知っている。


 まだ陽が高いというのに、カーテンは締め切られており、室内はどんより暗い。


 こもっている食品の臭いに、思わず顔をしかめた。他人の家であっても食事の時間に漂う香りは、食欲を掻き立てる。でもこの臭いは、家族の団らんを想起させる類のものではない。


 嫌な予感がして、キッチンを覗き込んだ。シンク内の鏡面は濁っており、排水溝には食品の残り滓が溜まっていた。ゴミ箱を覗くと、カップラーメンの容器と割り箸ばかりが目に映る。コンビニ弁当の空き容器は、その下に眠っているのかもしれない。


 ゴミ箱から立ち上る臭いにむせる。食後に容器など洗わず、そのまま捨てていればこれほどの腐臭にはならない。たったひと手間すら、横着している結果だ。


 毎食カップラーメンで済ませているのは、このゴミ箱を見るに明白だ。コンビニで廣場葉那という存在が認識されているのを知ってから、弁当を買うのを止めたのだろう。


 予想を上回るほどに、葉那の生活はダメになっている。


 なんとか表情を取り繕いながら、僅かに開いている葉那の部屋をノックした。


 返事はない。


「入るぞ」


 相手が女子なら入るのを躊躇する。でもこの部屋に入るのに躊躇いはなかった。


 その室内を一言で表すのなら、空気が淀んでいた。


 リビング同様にカーテンは締め切られた、薄暗い室内。部屋の匂いは、想像にあった年頃の女子高生のものとは程遠く、何日も風呂に入らぬ主を彷彿させた。床に散乱したコーラのペットボトルは、空のものよりも中身が残されているものが多い。対照的にローテーブルの上は綺麗なもので、空の錠剤シートがポツンとあるだけだ。


 錠剤シートを手に取ったのは、いわゆる嫌な予感、に突き動かされたのかもしれない。シートに書いてある文字を認識したこの顔は、他人からはどんな風に映るだろうか。少なくとも平穏とは程遠い、不穏を悟ったものだ。


「……女の部屋に、勝手に入って来ないでよ」


 不貞腐れた声が、ベッドの上から聞こえてきた。力強さがないのが、どこか痛々しかった。


 この家に足を踏み入れてから覚えた感情を抑え込み、いつも通りの自分を意識した。


「なにが女の部屋だ。夏休みに入った途端、自堕落を拗らせた引きこもりの部屋じゃねーか」


「仕方ないでしょ。生理で辛いんだから」


「その言葉がいつまでも、免罪符になると思うなよ。体調が悪いとしても、それは生理のせいじゃねーだろ。ろくなものを食わずに、太陽を浴びねーからそうなるんだ」


 部屋のカーテンを開け放つと、弱点を突かれたような魔物のうめき声が聞こえた。少しだけ覗いていた葉那の頭が、太陽から逃げるように布団に隠れた。


 その布団を剥ぎ取ろうとすると抵抗があった。


「さてはおまえ、風呂に入ってねーな」


 布団から漏れ出す臭いは、学園を満たす女子の空気とは大違い。何日も身を清めず、着替えをしていないダメ人間のものだ。弱者男性時代の俺でも、ここまで酷くなったことはない。


「別にいいでしょ、外に出てないんだから」


「良いわけねーだろ。普通にくせーぞ」


「放っておいて」


「嫌だね。今日という今日は、引き下がらないからな」


 意地でも起きない子供と攻防するように、布団を引っ張り合う。


 十秒ほどやりあっていると、こちらに軍配が上がり、布団を剥ぎ取った。その瞬間、


「放っておいてって言ってるでしょ!」


 音楽をかき消すほどの叫声が、部屋全体に響いた。


 激情に流されるがまま吐き出した自分の言葉に、葉那はハッとした顔をする。すぐにそれはバツの悪いものへと代わり、逃げるように身体ごと背けた。


「放っておいて……お願いだから」


 溢れ出そうになる感情を、堪えるような懇願。先ほど叫んだものとは違い、その声は小さく震えていた。


 見られたくないのは、今堪えている感情なのはわかった。


「わかったわかった。無理矢理で引っ剥がして悪かったよ」


 俺はあっさりと布団を返した。


「けど、俺が諦めたところで無駄だぞ。母ちゃんがこれから説教に来るからな。覚悟しろ」


 それだけを言い残して、俺は早々に部屋を後にした。


 これは撤退でもなければ逃げでもない。


 『誰が言った』ではなく、『なにを言った』が大切、みたいな言葉がある。けどそれは結局、ケースバイケースであり、どんな状況にも当てはまる格言ではない。たとえ同じことを求めるにしても、今の葉那を動かしたいなら『誰が言ったか』が重要である。


 選手交代。


 俺がここにいるだけで葉那を追い詰めることになるのなら、母ちゃんに後を託すしかない。


 たった一週間で、事態は想像以上に悪化していた。


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