45 マジかよ
母ちゃんに託してからジッと、ダイニングテーブル前で考え込んでいた。
リビングの扉が開くのに気づいて、時計を見るとあれから一時間は経っていた。
「帰ってきたばかりなのに、悪いな母ちゃん」
「いいんだよ。あそこで大人しく引き下がって、母ちゃんに任せたのはいい判断だった」
「それで……葉那はどうだった?」
色んなものをひとまとめにして、そう訊ねた。
母ちゃんはゆったりと対面の椅子に腰掛けると、
「ま、女は毎月苦しみのが定めだからね。これはその延長線上で、ああなっただけだよ。詳しく聞くのは野暮ってもんだ」
なんともない顔で言ってのけた。
隠し事なんてひとつもない。少なくとも態度からはそう見えた。
でも、それが嘘であることはわかっている。
「母ちゃん」
「なんだい?」
「ガキの頃の俺だったら、それではぐらかされたかもな」
母ちゃんはそれすらも承知の上のように苦笑した。
場を仕切り直すように、母ちゃんは一度息をつく。
「葉那……マサちゃんね、泣いてたよ」
「どうやって?」
「ただ、『ヒコには言わないで』って。それだけを繰り返してた」
「やっぱりか」
身体を背もたれに預けながら、頭上を見上げた。
やっぱり葉那はあのとき、俺の前で泣きそうになったのを我慢していたのだ。
「ま、泣いてるところなんて、俺には見られたくねーよな」
「なんでそう思ったんだい?」
「そりゃ、俺たちが男同士だからだ。泣いてる姿なんて、友達には見られたくないんだよ男子って生き物は。その理由が、心が弱ったせいならなおさらだ」
額に腕を置いた。
「あいつ、うつ病かもしれない」
「うつ病?」
母ちゃんは目を丸くした。マサがああなった事情を色々と想像していたかもしれないが、こればかりは予想外だったのだろう。
「知らないか。精神障害系の病気なんだが」
「もちろん知ってるけど……子供がなるような病気だったかい?」
「母ちゃんですらその程度の認識か……いや、バカにしてるわけじゃないんだ」
「未来を生きてきたあんたにとっては、珍しいことじゃないんだね」
「まだまだこの時代は、この手の病気は偏見が多いからな。きっとかかっている本人ですら、その認識だ。だからこそ、絶対知られたくないんだ」
「……そうかもね」
得心したように頷いた母ちゃんは、すぐに不思議そうな顔をした。
「でもなんでマサちゃんが、そうだと思ったんだい?」
「うつ病になるとな、風呂に入らなくなったり、簡単な片付けすらできなくなるんだ。なにもやる気が起きなくて、ずっと布団から出られなくなってさ。学校や仕事がある内は、なんとか正常を取り繕うんだけど、今は夏休みだからな」
「外に出る理由がないなら、取り繕う必要もないってことか」
「コンビニに行っている内は、まだマシだったんだろ。最低限、身だしなみは整えるからさ。でも、行かなくなってからその必要もなくなって、一気に悪化したんだろうな」
そういう意味では、俺がすべての引き金になっている。
なにも知らなかったとはいえ、自己嫌悪に陥りそうになった。けど、そんな暇はない。
「テーブルにさ、空の薬剤シートがあったろ」
「あったね」
「あれ、睡眠薬だ。そういうものに頼ってるってことは、そういうことなんじゃないかなって思ったんだ」
うつ病にも薬はある。でも、生理の苦しみにも、薬を使いたくないと言ったくらいだ。精神障害系の薬は、なおさら使いたくないだろう。
でもまともな日常を送るために、あれも嫌だ、これも嫌だと跳ね除けられず、睡眠薬がギリギリ許容範囲内として必要としたのだろう。
母ちゃんは驚いたように目を瞬かせた。
「たしかに睡眠薬らしいけど……なんであんた、そこまで詳しいんだい?」
「自分がそうじゃないかって、調べた時期があってさ。ほら、ろくな人生送ってなかったから、俺」
「愛彦……あんたも、そうだったのかい?」
息子がうつ病になるほど酷い人生を送っていたのかと、母ちゃんは痛ましそうに顔を歪めた。
ただただ、そんな顔をさせたことが申し訳なかった。
「いや、俺の場合、ただのアル中だった」
そんな大層なものではなかったから。
「度数九パーセントの酎ハイを、毎日三本飲んでたからな。しかも500缶の」
母ちゃんは後ろから頭を叩かれたように落胆した。
「じゃあ、なんで睡眠薬だってわかったんだい?」
「昔取った杵柄だ。ツイッターで薬の擬人化が流行ってたときさ、睡眠薬ちゃんシリーズで名前を覚えたんだ」
「ツイッター? 擬人化?」
「薬を女の子にして、イラストにするネタがインターネットで流行ってた、ってことだ」
得意げに語ると、母ちゃんは早々に理解を諦めた顔をする。
気を取り直したように、母ちゃんはポケットから空の錠剤シートを取り出した。
「この睡眠薬だけどね、もうないようなんだよ。だからここ最近、まともに眠れないのが辛いって」
「でも病院には行きたくない、ってか?」
「いや、家に――廣場のお家に帰ればあるらしい」
「は、どういうことだ?」
自分の中で話が繋がらず、首を傾げた。
「いつも十日分だけ渡されているようでね。それを使い切ってから、空になったものと引き換えに、新しいものをもらえるらしいんだよ」
「なんでまたそんな、面倒な真似――」
その理由に思い至って、息が詰まった。
身体をまた背もたれに預け、上を向き、そして両手で顔を覆った。そうしないと熱くなってきた目頭から、込み上がってきたものが零れ落ちそうになったから。
「マサ……おまえ、マジかよ」
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