06 天河ヒメ

 無事に情状酌量の余地を与えられ、赤信号で立ち止まっていると、


「そういえば葉那って、ヒメちゃんのファンなんだね」


 後ろ手を組んだ里梨が言った。さっきのやり取りを思い出したのだろう。


 葉那は顎に手を添えながら、得意げな顔をする。


「ま、ヒメちゃんは私の人生だと言っても過言じゃないわ」


「こいつは根っからの天河ヒメ信者なんだ」


 そう補足すると、里梨は弾むように手を合わせた。


「いいよね、ヒメちゃん。私も好きだよ」


「え、里梨もヒメちゃんファン!?」


 前のめり気味の葉那に、里梨は気圧されながらも笑顔を保ちつつ答えた。


「う、うん。CDは全部持ってる程度には。カラオケ行っても全然歌うし」


「私はむしろ、ヒメちゃんしか歌ったことがないわ。これからも歌う気はないわよ」


「それはもう筋金入りのファンだね」


 天河ヒメ信者の誇らしげな様に、里梨は微笑ましそうに頬を緩めた。


「だったら、ヒメちゃんがアイドル辞めるって宣言したときは、ショックだったんじゃない?」


「ショックなんてものじゃなかったわね。ヒメちゃんの引退と共に、人生に引導を渡そうと思ったくらいよ」


「人生の引導って……ま、そのくらい好きだってことか」


 少し面食らった里梨だったが、ただの比喩かと納得した。それ以上の他意はないだろうと気にした様子はない。


「でもね」


 葉那は顎を上げると、


「あの引退ライブを見に行って、最後の曲が終わったとき、生きててよかったって心から思ったわ」


 しみじみとかつての光景に思い馳せた。


 その言葉にどれだけの思いが込められているか。きっと里梨には伝わらないだろう。伝わるのは精々、葉那はガチの信者ということくらいだ。


 信号が青になる。


「だからアイドルを辞めても、私はこれからもヒメちゃん一筋を貫くわ」


 横断歩道を渡りながら、葉那は胸元で両手を組んだ。


 その信者っぷりに里梨はおかしそうに笑った。


「葉那は本当にヒメちゃんが好きなんだね。じゃあテレビも全部追っかけてるんだ」


「当然ね。レギュラー番組はもちろん、ゲストで出る番組も見落とさないようチェックしてるわ」


「だったら今度のドラマ、楽しみだね。ヒメちゃん主役でしょ?」


「そうなの! 原作が少女マンガらしいんだけど、もう始まる前から成功するのがわかってるって」


「葉那は原作のほうは見てないの?」


「内容は毎週の楽しみにしておくわ」


「そうか。だったらキスシーンの覚悟だけはしておけ」


 そう告げると、負の感情を煮詰めた瞳がこちらを向いた。ネタバレされた恨みからではない。推しの唇に男が触れる恐怖と絶望である。


「そっ……!」


 やけに力がこもった音が鳴った。葉那でもなければ里梨でもない。もちろん俺も違う。


「そんなに凄い人なんですね、そのヒメちゃんって」


 百合である。その笑みには少し力が入っていた。


 知らない話題で、自分以外が盛り上がっている。なんとか置いてけぼりを食らわないよう、必死に食らいついてきたのだ。


 話に置いてけぼりにしてしまった。


「ええ。ヒメちゃんは凄いわよ。控えめに言って女神ね」


 葉那はそれを詫びるのではなく、あくまで自然な流れで百合を内側に引き入れた。そのまま大げさな身振りで、斜め向かいのビルを指さした。


「ほら、ああして高いところにおられるわ」


「あ、見たことあります」


 葉那の指先を追った百合は、喜ぶように手を合わせた。


 商業ビルの屋上に掲げられている広告板。女子高生に扮した天河ヒメが、美味しそうにスポーツドリンクを飲んでいる。


 話の種の人物像がようやく共有でき、百合は嬉しそうに言った。


「凄い綺麗な方ですよね」


「ま、百合には負けるけどな」


「あんたねー……」


 間髪入れず本音が漏れると、葉那が呆れたように嘆息を漏らす。なにか続けようとした言葉は、所詮は馬の念仏だと飲み込んだようだ。


 代わりに里梨が口を開いた。


「いつもそうやって調子いいけど、いざ本人を前にしても同じこと言ってくれるの?」


「たとえ誰を目の前にしようが、君たちが一番美しいと俺は唱え続けるよ」


「でも芸能人って、生で見るとやっぱり凄いよ。それがヒメちゃんクラスになると、さすがのマナヒーもオーラ負けするかも」


「たしかにグラサンかけててもオーラはあったな。それでも興味ないって、天河ヒメにハッキリ言ったぞ」


「ん、ハッキリ言った?」


 話が繋がっていないと里梨は首を傾げる。


 話が飲み込めない里梨に、複雑そうに葉那が解説した。


「ヒコ、生のヒメちゃんと会ったことあるのよ。しかもプライベートの」


「嘘っ、あのヒメちゃんと!?」


 その場で立ち止ってしまうほどに里梨は仰天した。


「え、会ったって、え、え。いつの話? 声かけたってこと?」


「中二のときだ。そうそう、丁度あの辺りに天河ヒメがいて……まあ、なんかサインくれたんだ」


 二から九を省略して説明しながら、劇場前にある謎のオブジェを指さした。


 里梨は信じられないとばかりにゆっくりとかぶりを振る。


「いやいやいや、なんかくれたって……あ、わかった。葉那を羨ましがらせるための冗談でしょ? 葉那ったら騙されちゃって」


「それが騙されてないのよ。そのサイン、私宛てだったから」


 ぽんと肩を置かれた葉那が、やはり複雑そうに答えた。それでも里梨は信じきれない顔をする。


「……マナヒーが書いてたりして」


 首を横に振りながら、葉那はおもむろにケータイの電池パックカバーを外すと、その裏面を見せた。


「その色紙を持ったヒメちゃんのプリがあるのよ」


「折角だからって、プリ代向こう持ちで撮ってくれたんだ」


「えぇ……」


 里梨は愕然としたように、カバー裏に貼られたプリントシールを凝視する。そこには見間違うことない天河ヒメが、個人宛の名前が入った色紙を持っていた。


「世の中って不公平よね。世界一のファンたる私じゃなくて、興味のかけらもないヒコがヒメちゃんと遭遇できるなんて」


「物欲センサーが働いてるんだろ。欲しいと願うものに乱数の神様は微笑まないぞ」


「あー、ヒコが羨ましい妬ましい」


「だからおまえ宛てでサインを貰ってきてやったろ。あれだけ喜んでおいて、恩人を羨むな妬むな」


「たしかに嬉しかったけどさ、それとこれとは話は別よ」


 悔しそうな表情を浮かべながら、葉那は嘆息を漏らした。


 そもそも天河ヒメの気を引いたのは、俺がファンでもなければミーハーでもない、自分に興味がない人間だったからだ……というわけでもなく、死んだ友人が大ファンだった、という言葉である。


 サインもプリントシールも、向こうから言い出してくれたものだ。墓前に備えて上げてと言われたが……当の本人はこうして生きていた。


 もう会うことはないだろうが、次会ったときは『悪い悪い、あいつ生きてたわ』と謝ろう。


「ちなみにもし、俺が天河ヒメと一緒にプリを撮ってたらどうする?」


「ヒコの首を締めない自信がないわ」


「だよな」


 やはりあのプリは、墓の下まで持って行く必要があるようだ。

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