63 始まりを違えるつもりはない

 こうして百合の手に触れるのは久しぶりだ。かつては有頂天となるほどの喜びだったが、今はそんな気持ちにはなれなかった。


「里梨がいない世界なんて考えられない。そのくらい愛してる……はずだったのに、そんなに辛くないんです」


「そう、強がってるんじゃないのか?」


 百合はかぶりを振った。


「愛彦くんが側にいてくれるから」


 身体を寄せてきた百合は、俺の肩に首を預けた。


「あれだけ里梨の代わりはいないって信じてたのに……寂しさを埋めてくれる人なら誰でもよかったんだって、わかっちゃいました」


 重ねられた百合の手が、俺の手を絡め取るように力が入った。


「里梨の代わりに愛彦くんが側にいるから、学校にいるときは寂しくない。でも……誰も訪ねてくれない家にひとりでいるのは寂しいです。……ひとりの夜は、寂しいんです」


「百合……」


「お願いです、愛彦くん」


 重ねられた手が離れると、百合は俺の腕に抱きついた。


「学校だけじゃなくて、一緒に夜を過ごしてください。愛彦くんが望むことはなんでもします……都合のいい人形にしてくれていいですから、わたしを側に置いてください。寂しいのは……嫌だ」


 震えを帯びながら湿った声が、救いを求めるように聞こえた。


 ずっとひとりで生きてきた。


 家族から愛されず、友達もおらず、孤独であることも知らずに育ってきた。


 里梨と出会って、自分が孤独であったことを知った。孤独は寂しいことを知ってしまった。


 里梨が離れてしまったから、それを埋める依存先が欲しいのだ。


 そんな百合が可哀想だなんて同情はしない。


 俺がしているのは共感だ。百合は自分とよく似ている。


 母ちゃんを失ってから、ずっと孤独ひとりで生きてきた。


 社会の示す、年相応の成長を果たせなかった。


 依存先を失う恐ろしさは、痛いほどに知っているつもりだ。


 ヒィたんへのガチ恋は、まさに依存心から来るものだったと今になってわかった。縋らずにはいられないほどに、孤独ひとりであることは恐ろしいのだ。


 だからこそ、心を許せる相手の尊さは誰よりも知っている。


 家族かあちゃんをまた失うなんて耐えられない。


 友人はなが生きていたと知ったときは涙した。


 そんなふたりに背中を押されたからこそ、俺はこうしてここにいる。 


「それとも……里梨の恋人じゃなくなったわたしには、興味は持てませんか?」


 百合が本当に求めているものを教えるあたえるために。


「そんなことはない。同じクラスになって、初めて見たときから、こんな子を彼女にしたいだけの人生だった。ワンチャンないかな、ってずっと思い続けてきた」


「本当、ですか?」


 希望を差し出されたような上目遣いで、百合は見上げてきた。


「なにせ百合は、男にとってトロフィーのような女の子だからな」


「トロフィー?」


「百合を隣に置けるだけで、自分が特別になったような気でいられる。羨望を一身に向けられるような特別な存在なんだ。高嶺の白百合って呼ばれてることを知ったとき、納得したほどにな」


「わたしは、そんな大した人間じゃありませんよ」


「それを決めるのは他人だ。そのくらい百合は可愛くて、男にとっては理想的な女の子なんだ」


 恥じ入るように目を逸らす百合を、追撃するように褒めちぎる。


「その見立ては間違いなかった。俺たちが付き合ってるって周りは勘違いしてるからさ。男たちから差し出される羨望が気持ちいいのなんのって。百合の隣にいるだけで、優越感をじゃぶじゃぶできてさ。それだけで自分の格が上がって、特別な人間になった気分だった。まさにトロフィーを手にした人生勝ち組だってな」


「わたしたち、そんな風に見られてたんですね」


「正直、百合の尊厳に関わることだから悪いと思ってる」


「いえ。わたしは嬉しいですよ」


 照れひとつなく、百合は嬉しそうに微笑んだ。


「最初はさ、みんなの特別な女の子といられることが楽しかった。でも今はそれが変わった」


「どんな風にですか?」


「一緒に過ごす内に、高嶺の白百合じゃなくて、真白百合という女の子に惹かれたんだ。心から君にガチ恋してる」


 最初は可愛いという見た目かたちから入った。入れ込む内に、いつしかその好意に中身が生まれた。


 特別たいせつな友達だと心から思っているからこそ、自分の欲望のために、その幸せを歪めたいなんて思わなかった。


「だからこそ」


 百合の腕からすり抜けるように、俺はその場から立ち上がった。


「君のことを、俺の人生を特別にするための高嶺の白百合トロフィーになんてしたくない。あの日、俺に心を許してくれた真白百合ともだちとして君の側にいたいんだ」


 見上げてくる百合の目は、大きく開かれた。


 思い出してくれたのだ。なぜ百合が、俺の友達になりたいと願ってくれたのか。


「だから俺たちの始まりを違えるつもりはない」


 なぜ俺が百合を自分のものにしようとしないかも通じたのだ。


「俺は美しい百合は愛でる主義なんだ。枯れてない花を手折って、ふたりで桜を咲かせるには判断が早すぎる」


 まだ、なにも終わっていない。


 里梨がどういうつもりなのかがわかっただけ。


 それを踏まえてどうするのかを、これから決めなければならないのだ。


「里梨のことは諦めたくない。心の中ではそう思ってるんだろ?」


「……このままじゃいけないって、わかってるんです」


 百合は俯いて、ギュッと両手を握った。


「でも、怖いんです」


「なにが怖い?」


「それでも一緒にいたいって伝えて、ダメだって言われたら……取り返しのつかないほどに、終わっちゃうから。友達にも戻れないって決まるのが……怖い」


 その握り拳に、ポタ、ポタと雫が落ちた。


 自分の手で今日まで築いた関係を終わらすのが怖い。このまま終わりたくないのに、このままじゃいけないとわかっているのに、決定的な終わりを迎えるのを恐れて動き出せずにいるのだ。


 それだったら、新たな依存先に身を委ねているうちに気づけば終わっている。そんな間違っているとわかっている選択肢を取らざるえなかった。


 ひとりで動きだせない気持ちはよくわかっているから、


「たしかにさ、ふたりの関係は間違った気持ちから始まったものかもしれない。だから里梨は、また道を誤らないためにも離れようとしている。話し合った結果、決定的な終わりを迎えるかもしれない」


 俺は今ここにいる。


 今この世界で百合の背中を押せるのは、俺しかいないから。


「だけどそれまで過ごしてきた日々の中で生まれた幸せは、きっと嘘なんかにはならないさ。だってその幸せすら全部嘘だったって否定したら、寂しいだろ」


「あ……」


 ハッとしたように、涙で濡らした顔で見上げてきた。


 これは俺自身の経験から生まれた思いなんかじゃない。かつてヒィたんへの折り合いをつけるキッカケになった、教えられた言葉だ。


「だからこのまま、里梨と自然消滅するのだけは絶対にダメだ。里梨を忘れるための代わりを求めちゃいけない。同じ終わらせるなら、自分の気持ちをしっかり伝えて、納得して終わらせよう」


 孤独の寂しさを教えたのは里梨かもしれない。でもひとりじゃない幸せを教えたのも、また里梨である。


 今日まで紡ぎあげてきたその幸せは、百合にとって大切なものだと知っているから。


「里梨との思い出は、幸せなものだったって心から言えるようにさ」


 納得できない終わり方なんてしてほしくなかった。


 こんな思いをするくらいなら出会いたくなかったなんて、絶対に思いたくないって言っていたから。


「大好きだって気持ちに、嘘はないんだろ?」


「ない……それだけは、絶対にない……!」


 百合はゆっくりと、それでもハッキリと意思を示すように首を横に振った。


 その気持ちを否定したくないからこそ、百合はこんなにも苦しんでいる。終わるかもしれないのを怖がっている。


「なら、その気持ちはちゃんと伝えないとな」


 かつてはお触り厳禁と躊躇っていたその肩に、ポンと手を置いた。


「大丈夫。ふたりのことは、ちゃんと俺が見守ってるから」


 ひとりじゃないと伝えたのだ。


 肩に置いた手が、滑らかな小さな両手に取られる。


「お願いします、愛彦くん」


 その胸元で神へと拝むかのように、この手は包み込まれていた。


「どうか最後まで見守ってください」

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