10 小学生男子の風習

 葉那のこともまた、見栄を張るためのアクセサリーとして扱ったことはない。たしかにこんな可愛い子と下着売り場に入る俺アピールをして、世界ランクを稼いだ経験はあるが、それは俺と葉那の間に固く結ばれた友情。相互関係で成り立っている。世界ランクを上げるためアクセサリーしたのではなく、お互いの強みを共有し、弱みを補いながら世界ランクを高めあったのだ。


 百合と里梨がくだらないことに利用したくない大切な人だとするのなら、葉那はくだらないことを一緒にやって笑い合うかけがえのない友人だ。


「愛彦くんと葉那は、本当に仲がいいんですね」


 百合はおかしそうにしながらも、どこか羨ましそうに頬を綻ばせた。


「小学生からの異性のお友達って、みんなこういうものなんですか?」


「いやー、ふたりが特別なだけだと思うよ」


「むしろ異端っていうほうが正しいかもな」


 里梨が苦笑を含ませて言うので、俺は顎に手を添えながら補足した。


「たしか小学校に入ったときから、ずっと同じクラスだったんですよね?」


「まあね。でも学校以外で遊ぶ仲だったわけじゃないわ」


 百合の問いかけに、プリントシールに目を奪われたまま葉那は答えた。


「そうなんですか?」


「友達のグループは別だったからね。休み時間一緒にドッジボールくらいはしてたけど、ほんとそれだけ。みんなの中にいるだけの、ただのクラスメイトって感じよ」


「でも今はこんなに仲良しですよね。なにかキッカケでもあったんですか?」


「小五のとき、ヒコに助けられてね。あれがなかったら今頃の、私はよくて引きこもり。最悪死んでたわね」


「死んで……!?」


 取り乱すように百合が叫んだ。驚きを抑え込むように、両手で口元を塞いでいる。


 意を決したように、百合はおずおずと聞いた


「なにがあったか、聞いても大丈夫な話……ですか?」


「田中……クラスの男子にされた理不尽な仕打ちが、泣くほど悔しくてね。それでしばらく、学校に行かなくなっちゃったのよ、私。ヒコがいきなり訪ねてきたのは、それから十日くらいだったかしらね。プリントを持ってきてくれたか、先生に言われるがまま説得に来たか。どちらにせよ、あの場にいたクラスメイトなんかとは会いたくなかったからね。部屋に鍵をじっと帰るのを待ってたら、第一声でこう言うわけよ。『廣場。田中の土下座が見たいから、明日から学校に来いよな』って。あのときはどういうことだって、すぐに扉を開けたわね」


「土下座? 愛彦くん、なにかしたんですか?」


 百合に向けられたので、苦笑しながら答えた。


「田中を葉那と同じ目に合わせたんだ。そしたらあいつが親を呼んだからさ。土下座して謝った後、次はおまえが土下座する番だよなって、葉那の件を持ち出したんだ」


「あいつに土下座されたいから、次の日からまた通い始めたんだけどさ。土下座姿の前に、田中の姿が見当たらないのよね。ヒコの土下座の軽さに反して、田中のプライドは重かったみたいね。その後、田中を見たものは誰もいなかった。めでたしめでたし」


 昔話のアテレコのように葉那は締めた。


「中学に入って一度も姿を見せないと思ったら、高校にも行かずにまーだ引きこもってるんでしょ?」


「あのくらいで子供の人生が壊れるなんてな。今思えばやりすぎた。大人気なかったって反省してる」


「いいのよー、あんな奴どうなったって。ざまぁ見ろって感じよね」


 葉那は愉快そうに鼻を鳴らした。すぐにまたプリントシールに心を囚われ、羨ましそうに唇を結んだ。


 葉那の田中への恨みは深い。この先、理不尽に家族などを奪われ復讐者になると決めたとき、刃を振り下ろす相手は加害者だけでは済まないだろう。家族親戚田中にまで及ぶに違いない。


 でも田中が理不尽すぎると同情するには、葉那の置かれたケースはあまりにも特殊すぎた。


 たしかに学校に復帰できず、引きこもり続けた先で自分が女であると知る日が来たなら、まさに弱り目に祟り目。それを乗り越える精神力が果たして、そのときの葉那にあるかは怪しいものだ。


 最悪死んでいたというのは、乗り越えられなかった場合の末路。葉那の前科を考えれば、そうなってもおかしくないと俺も思う。


 葉那の恨みの深さが伝わったのか、百合はおずおずと問いかける。過去の葉那の心を慮っているようだ。


「葉那はそんなに、酷いことをされたんですか?」


「あー、やられたことは大したことじゃないわよ。ただ子供のプライドが傷つけられただけだから。今となってはなんであの程度のことをあそこまで深刻に捉えたんだろう、って笑い飛ばせるくだらないことよ」


 大きな大きなため息を葉那は漏らした。やはり気持ちは百合には向いておらず、プリントシールを見ながらただただ羨ましそうに口元を歪めている。


「小学生の男子には、大きい方を催してもトイレを使っちゃいけない風習があってね。それを破った奴は、バカにしてもいいって空気があるの。私はそれを破ったところを田中に見つかって、みんなの前でこれでもかって吊るし上げられて……あー、思い出しただけでも腹立ってきた」


 憎々しげに眉根を寄せる葉那。


 まったく笑い話にできてねーだろ。――とツッコもうとしたら、これは止めないとヤバい話をしていることに気づいた。


「お、おい葉那――」


「たかだかトイレを使っただけの話。なんで人をバカにする話になるんだって不思議かもしれないけど、小学生の男子はそういう習性の生き物だってわかってもらうしかないわね。だからいつでも気兼ねなくトイレに行ける女子は羨ましかったわ。男子なんて個室の扉が閉まってようものなら、誰が使ってるんだって覗き込むような奴らまで――」


「あ、あの、葉那?」


 百合が思わず口を挟んだ。


「ん、なに?」


「小学生の男子が、個室トイレを使うとバカにされる、ってお話ですよね?」


「そうよ。ほんとバカみたいな話よね」


「なんで葉那が、バカにされるんですか……?」


「なんでって、それはもちろ――」


 ようやく自分の失敗に気づいたのか、葉那は声を失った。穴が空くまで見ていたプリントシールから、カクカクと段階的に顎が上がっていく。


「葉那たちが通ってた小学校のトイレは、女子と男子は共用だったとか?」


「えっと、その……」


 言い訳を求めて葉那は視線を彷徨わせる。助けを求めるように、百合と一緒にこちらに顔を向けられてももう遅い。ここから誤魔化す方法など咄嗟にでず、俺もまた言葉を詰まらせた。


「さすがにそれはなかったかな」


 百合の問いに答えたのは、俺でもなければ葉那でもない。


「ちゃんと別々だったよ、私たちが通ってた小学校は」


 四年生の途中で転校した、かつてのクラスメイト。その瞳には困惑が宿っておらず、なにかを悟ったように眉尻が下がっていた。

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