36 俺は記憶だけをもって未来から帰ってきた

 浴室に入った瞬間、一気に気分は改まった。ふたりが入ってもなお、ゆったりつかれる広々とした丸い浴槽。脇にはボタンが付いており、操作していると浴槽内がレインボーに光り始めた。それだけでも感動的なのに、ジャグジーまで付いている。


 脱衣所で目にしたピンクの下着のことも忘れ、浴室の明かりを消して、この素晴らしい風呂を堪能した。


 三十分もの長湯から上がると、脱衣所に備えられていたバスローブへ着替え、髪を乾かした。


「服、かけといたわよ」


「サンキュー」


 部屋に戻ると、テレビから目を離さず葉那は言った。


 葉那の隣、ベッドに腰をかける。


「お、マジックミラー号か」


「そういうものらしいけど……よく一目でわかったわね」


「親の顔より見てきただからな。一目瞭然だ」


「もっと親の顔見なさいよ」


「企画は……ナンパものか」


「そうそう。海で声かけられて、ほいほい付いてきて。ほんと、この女たちもバカよね」


「バカ?」


「ナンパに付いてきてみれば、お金に釣られて身体を許しちゃってさ。その末に、こうしてAVにされて売られちゃって。自己管理というか、危機管理の頭が足りてないわよね」


 葉那は上から目線で嘲りながら、皮肉げに口元を吊り上げた。


 その横顔が微笑ましくて、つい笑ってしまった。それが自分に向けられたものだと気づいて、葉那はムッと眉をひそめた。


「なによその顔?」


「いや、純粋だなって思ってさ」


「純粋?」


「まるでテレビの特番で宇宙人を信じちゃう、子供みたいだ」


「子供って……今の会話で、なんでそんな話になるのよ」


「いいか。彼女は現地調達の素人じゃないぞ」


「そうなの!?」


 葉那はビックリした目を、騎乗位であんあん言っている女優に向けた。


「よくわかったわね……ヒコくらいになると、AV女優の顔、全員把握してるの?」


「そんなわけないだろ。AV業界にはAV業界なりの法律や義務がある。マジックミラー号シリーズを出してる会社なら、その辺はしっかりしてるはずだ。素人の現地調達はありえんな」


 テレビの音に、改めて耳を澄ませる。


「なにより、喘ぎ声がAV特有の演技くせー。これは素人の仕事じゃない。間違いなく、何本か出演してる女優の仕事だ」


「いくらなんでも詳しすぎない?」


「普通だ普通。このくらいの知識や目なんて、何百本を見てれば嫌でも身につくぞ」


「何百本って……やっぱり普通じゃないじゃない。AVソムリエってあだ名がつくレベルよ」


 呆れたように見てくる目は、すぐにまたマジックミラー号へと戻った。


「でも、これってヤラセなんだ。ちょっとガッカリ」


「ヤラセじゃなくて、ファンタジーっていうほうが正しいな。そういうシチュエーションプレイとして楽しむのが、AVの作法だ。さっき俺が見ていた時間停止ものだって、これはヤラセだガッカリした、って難癖つけたくなるか?」


「それは難癖つけるほうが頭おかしいわね」


「だろ? 時間停止ものは、九割はヤラセだとわかった上で、楽しむのが作法ってもんだ」


「残りの一割はなんなのよ」


「願い……かな」


 時間停止の力がこの世にあってほしい。その願いが、残りの一割に含まれている。むしろ時間跳躍ができるくらいの世界だから、その一割はあるものだとすら考えていた。


「ま、これだけ説教してあれだが、今更このくらいのAVじゃ抜けないんだがな。演技が白々しすぎて、勃つものも勃たないのが実状だ」


「あんたは飽食の限りを尽くした美食家か」


 口をあんぐりをさせ、葉那はため息をついた。


「今更だけどヒコってさ、どうやってそんなに沢山のAVを見てきたのよ」


「どうやってって……」


 その質問に言葉が詰まった。


 そんな俺の様子を理解した上で、葉那は続けざまに言った。


「ヒコのエロの知識は、経験に裏打ちされたものだっていうのはわかるんだけどさ。あんたの部屋って、テレビもなければ、そもそも家にパソコンすらないじゃない。ケータイだってつい最近まで持ってなかったし」


「ま、昔取った杵柄ってやつだ」


「だからその杵柄を、どこで取ってきたのよ」


 顎に手を添えながら、俺は悩んだ。


 タイムリープしているなんて話は、荒唐無稽な話である。到底信じられる話ではない。未来の知識を総動員したら、納得させるのは難しくはないが……あれ?


 タイムリープしてることを葉那にバレて、困ることってあるか?


 葉那が本当の女だったら、絶対にバレたくはない。なにせ中身は三十八歳。拗らせた大人の性欲を、女子高生に向けているのは気持ち悪いからだ。その自覚くらいはさすがにある。


 まさに俺は、百合ヶ峰に潜む童貞モンスター。その皮に潜む中身を見破られようものなら、討伐必至である。


 でも葉那はマサであり、中身は根っからの男だ。弱者男性としての人生がバレたところで、こんなモンスターが側にいるという畏怖も軽蔑もないだろう。むしろ俺の在り方に納得し、そういうことだったのかと笑って受け止めるはずだ。


 そういう未来が、当たり前にあると信じられる。


 マサが俺を信じて、その正体を明かしてくれたように。今度は俺が、人生最大の秘密を打ち明けるべきではないか。いや、俺たちの友情にかけてそうするべきなのだ。


「葉那……いや、マサ」


 居住まいを正し、俺は葉那に向き合った。


「前に聞いてきたな。自分が特別な存在云々の話をしたとき、どんな心当たりがあったんだって」


「陰陽師の話のときでしょ? え、まさか今更それに繋がる話なの?」


「そうなんだ。荒唐無稽な話かもしれないが、おまえにはちゃんと話しておきたい。俺の人生の秘密、聞いてくれるか?」


「もちろんよ。ヒコの秘密だっていうなら、真面目に聞くわ」


「実はな、俺は過去に一度、死んだことがあるんだ」


「ヒコが、一度死んでる? 何歳のときの話?」


「三十三歳だ」


「三十……三歳?」


「俺はこの先の未来で命を落としてな。その記憶がなぜか、小学五年生の自分に蘇ったんだ」


「それって……タイムトラベル的な?」


「ああ。俺は記憶だけをもって未来から帰ってきた、タイムリーパーなんだ」


「そう、真面目に話を聞いて損したわ」


 心底ガッカリしたように、葉那は肩を落とした。


 俺は陰陽師の話を真面目に聞いて信じたというのに。荒唐無稽な話を我が人生の盟友は信じてくれないようだ。


 でも仕方ないことかもしれない。こういう話は根気よく向き合って、信じてもらうしかない。


「嘘じゃない。本当に俺の身に起きたことなんだ。信じられないかもしれないけど――」


「陰陽師の意趣返しでしょ? はいはい、わかったからもういいわよ」


 葉那は不満げに……いや、拗ねるように唇を尖らせた。


 俺の子供にはそぐわない、人並み外れた知識量は経験に裏打ちされたもの。それを認めているからこそ、なにかしら人には打ち明けられない秘密を抱えている。それをおまえには明かすことはできないと、ハッキリと告げられたように捉えたのだろう。


 むしろすべてを伝えたかったのだが。こう捉えてしまった今、意地でもこの先の話は聞かないだろう。


 今日のところは、秘密を明かすことは諦めるしかないようだ。

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