第1話 水龍の王宮



 たくさんの城壁に囲まれた水龍国スールンの王宮には、大小様々な建物が建っている。

 大きな建物には庭園とそれを囲む城壁があり、武官の詰め所でもある門を通り抜けなければ、別の建物には行けないようになっているのだ。


 全ての建物は石の土台に乗った木造の屋敷で、カナンの故郷である南部の石造りのお屋敷とはまったく違っている。

 一見質素にも見える白木の建物だが、柱や扉には美しい彫刻が施され、青緑色の屋根瓦は、まるで伝説の生き物〝水龍〟の鱗のようにキラキラと輝いて美しかった。



 カナンは頭のてっぺんに髪を丸く結いあげると、王子宮の侍女のお仕着せに着替えた。侍女のお仕着せは紺色の立襟のチュニックで、膝丈のチュニックの下は足首まである白いスカートだ。

 王子の乳母であり女官長でもあるユイナの計らいで、一日に一度は王子宮の外へ息抜きに出かけられるようになっていたので、カナンは毎日少しずつ王宮の中を散歩していた。


 今日は天気も良くて、お散歩にはちょうどいい。カナンはあちこちウロウロしてから、王宮で働く者たちの休憩場所でもある裏庭にやって来た。


「ねぇ、あんた見ない顔だけど、もしかして王子宮に新しく入った子?」


 カナンと同じ十四、五歳くらいの少女が声をかけて来た。そばかすの目立つ快活そうな少女で、灰色のお仕着せを着ている。


「そうよ。あたしはカナン、よろしくね」

 カナンは少女に笑顔を向けた。


「あたしはハルノ。医務局付の下女よ。あんた南の出身でしょ? 日に焼けてるからわかるよ。ねぇ、王子さまの具合はどうなの? あんまり良くないって噂があるけど」


 ハルノは好奇心旺盛にいろいろ聞いてきたが、王子のことを話すときはちゃんと声を低くする気づかいも忘れない。


「さぁ……王子さまのお部屋に入れるのはユイナさまだけだから、あたしにはわからないわ。医務局の人の方が詳しいんじゃない?」


 実際、カナンは王子の部屋に入ったことはない。

 ユイナからは、王子の仕草や話し方を日々教え込まれていたが、王子の健康に関する話題は出なかった。


「はぁ? 冗談じゃないわよ。医師ならともかく、あたしたちが王子さまの容態を知ってる訳ないじゃない。あたしらの仕事は薬草園の草むしりや水やりだよ。薬草を干したり刻んだりって仕事もあるけどさ、要するに雑用なんだから」


「そっか、そうだよね。ごめん」


 気持ちいいくらい言い返してくるハルノに、カナンの口元がほころんだ。

 田舎とは言え貴族の娘として育ったカナンだが、いつも兄やその友人たちとばかり遊んでいたせいか、女の子の友達はあまりいなかった。だから、ハルノのように思ったことをはっきり言ってくれる子の方が、カナンは話しやすい。


「もうすぐ月紫ユンシィ国の皇子が来訪するっていうのに、大丈夫なの?」

「そうよねぇ……」


 カナンはハルノと一緒になって首をかしげる。

 自由時間に同世代の女の子と話せるのは嬉しかったけれど、禁忌に触れる話題を逸らすのはなかなか難しい。


「あんた、王子宮の侍女のくせにずいぶん呑気ねぇ」

「そうかな?」

「まぁ、あんたが心配したところで、良くなるものでもないけどね」


 ハルノがうなずきながらそう言ってくれたので、カナンはホッとした。


「もうすぐ休憩時間が終わりだから、あたし行くね」


 笑ってハルノに手を振って、カナンは裏庭から抜け出した。



 王子宮の門をくぐってカナンが一息ついていると、後ろからポンと肩を叩かれた。


「カナン、どこへ行ってたんだ?」


 振り返ると、長兄のナガルが難しい顔をしてカナンを見下ろしていた。

 王宮の人たちとは違う、浅黒い肌と艶のある黒髪を持つ兄を見ると、やはりホッとする。


「兄さま。今日は裏庭まで行ってみたよ。王宮の大まかな建物も覚えたわ」

「そうか。残念だが、明日からの散歩は難しそうだぞ。早く戻ろう」


 カナンは兄に引きずられるようにして、池のほとりに建つ美しい八角形の建物に入って行った。

 この八角形の建物の三階にカナンが与えられた部屋がある。

 大きな窓のある広い部屋の中央には、黒檀の木でできた黒光りする円卓と椅子が置かれ、窓辺にはのんびりできる長椅子もある豪華な部屋だ。


「ジィンさまからの伝言だ。月紫ユンシィ国の皇子が一週間後に来る。それまで、ジィンさまが直接指導するそうだ」


 カナンの部屋の扉を閉めると、ナガルはさらに怖い顔をしてカナンを見下ろした。


「そっか。とうとう来るのね」


 ため息をつくように、あっさりとカナンは答える。もう少し遊んでいたかったけれど、本来の役目を果たす時が来たようだ。


「本当に大丈夫なのか?」


 ナガルは腰に手をあてて怒ったような顔をする。

 そんなナガルを見上げ、カナンは笑った。この怒ったような顔は、いつも家族の心配をするときの長兄の顔だ。


「兄さまは、ちゃんとあたしを妹扱いしてくれるよね」


 真実を聞いた後でも、ナガルの態度は少しも変わらない。それがカナンにとって、一番の心の支えだった。


「あたり前だろう。おまえが初めて家に来た時、おれは六歳だった。おまえが母上の生んだ赤子でないことは、その時からわかっていた」


 ナガルは少しだけ表情を緩めた。


「前の年に生まれたトールの時みたいに、母上のお腹が大きくならなかったからな。トールのアホはともかく、サウォルはうすうす気づいていただろう。おまえが王子の双子の妹だと知った所で、今さら何も変わりはしない。おまえはおれたち三兄弟の、たった一人の妹だ」


「兄さま……」


 カナンは兄の胸に飛び込んで、ナガルの大きな体にしがみついた。


「うちのじゃじゃ馬姫が何か仕出かさないか心配だ。今でもおれは、王子の身代わりなんか引き受けるんじゃなかったと思ってる」


 しかめ面の兄を見上げ、カナンは笑った。


「無理よ。兄さまは、領主さまに頭を下げられて断れる? 領主さまは、王命に逆らえないのによ?」

「しかし」

「大丈夫よ。ほんの何日か、月紫ユンシィ国の皇子を騙せば済む話だもん」

「カナン……」

「大丈夫、すぐに南へ帰れるわ。あたし、着替えてくるね」


 カナンは兄の腕の中から抜け出すと、奥にある寝室に入ってぱたんと扉を閉めた。



 〇     〇



 南部の田舎でのんびり暮らしていたカナンの身に災難が降りかかったのは、ひと月ほど前の、春のはじめだった。

 ひとつ上の兄トールたちと遠乗りに出ていたカナンを、深刻な顔をしたナガルが探しに来たのだ。


「すぐに領主さまのお屋敷に行かねばならない。カナン、そのままでいいからついて来い」


 カナンだけを連れ帰ろうとするナガルに、トールや友達は不思議そうな顔をしていたし、長兄の態度もどこか不自然だった。

 ナガルは家に帰るまで、とにかく急を要するのだという事しか話さなかった。


 領主からの呼び出しに、カナンとナガルと両親の四人で屋敷に向かった。

 南の長老でもある領主は、カナンの両親を前にいきなり頭を下げた。


「すまない、シン。十四年前、そなたたちに預けた赤子は……カナンは、王子さまと共に生を受けた双子の妹姫だったのだ。今まで何も告げずに済まなかった。だが、そなた達ならきっと、実子と分け隔てなく愛情を注いで育ててくれると信じていたのだ」


 長老は頭を上げると、息を呑む両親の前から離れ、今度はカナンを憐れむように見つめた。


「カナン、北の者は……特に王家の者は、双子を獣腹といって忌み嫌う。そなたには何の落ち度もない。ただ、王子さまはお世継ぎとして残され、姫であったそなたは、都から遠いこの南の領主のわしに託された。何も知らず幸せに育ててやって欲しいと」


 長老の言葉はちゃんと聞こえたけれど、カナンの心はそれを理解することが出来なかった。


「今まで何の音沙汰もなかったのに、王宮から急な知らせが届いたのだ。体調の良くない王子さまの代役を……そなたにやって欲しいそうだ」


「代役?」


「そうだ。もともと病弱であった王子さまの元に、隣の月紫国ユンシィから招待状や訪問を願う手紙がひっきりなしに届くらしい。大陸のほどんどを属領にしている月紫国が、わが国のお世継ぎの様子をうかがっているのだろう。陛下も、よほどお困りなのだろう。カナン……どうか受けては貰えまいか?」


 目の前で領主に頭を下げられても、カナンは呆然としたままだった。

 今まで家族だと思っていた人たちが実は赤の他人で、自分は王家の捨て子だという。

 カナンは自分が王の子であったことよりも、愛する家族と血のつながりが無かったことに強い衝撃を受けていた。


(獣腹って……一度にたくさん赤子を生むことが、そんなに悪いことなの?)


 いっそ知らないままいさせてくれれば良かったのに。

 王子の身代わりを命じるなんて、王はそんなに冷血な人なのだろうか。人の心など持っていないのだろうか。


「──長い間ではない。月紫国ユンシィの皇子が訪問を終えれば、そなたもここに戻って来られる。今まで通り、何も変わらない。褒美もたくさん貰えるだろう」


 領主はそう言ったが、今まで通りなんて無理だろう。何も知らなかった頃には戻れない。

 そう思いながらも、カナンはうなずいた。ほかに答えがない事くらい、十四歳のカナンにもわかっていた。

  


  

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