第29話 すれ違う心


「────ヨナ、帰るぞ!」


 トールから受け取った封筒をくしゃりと懐にねじ込んで、トゥランは出て来たばかりの部屋を振り返った。

 ヨナがゆっくりとこちらに向かって足を運ぶのを確認してから、キースに目を向ける。


「俺は一度、蘭夏ランシァに戻る。その後、すぐに青湖シンファへ向かうつもりだ。日取りや会合場所は大陸郵便経由で調整したいが、それで構わないか?」


「あーなるほど。大陸郵便はあんたの配下だったのか。了解した」

「では、いずれ青湖で会おう。ゾリグ、後は頼んだ」

「わかった」


 ゾリグが神妙な顔で目礼を返して来る。それにうなずき返し、トゥランは踵を返した。


 ここへ来るまで、自分の胸の内に確かにあった高揚感は霧散し、言い知れぬ怒りだけがトゥランの心に残っていた。

 カナンからだと言う封筒を受け取った瞬間、丸いものが指に触れた。開封しなくても、それが彼女に預けた母の指輪だとわかった。


 母の形見の指輪は、トゥランの真心だった。何も約束出来ない代わりに、心を預けたつもりだった。それを彼女は自分に返してきた。キースが言うには、トゥランの野望の為に身を引く決心をしたのだという。


(身を引くだと?)


 あの朔月の夜、カナンはトゥランに心を打ち明けた。それからわずか三月みつきほどしか経っていないというのに。

 シリンと婚約したのがトゥランの野望の為だと理解しているのなら、何故、身を引く必要がある? 何故、会って話をしようと思わない? 何故、手紙だけで別れを告げようとする?

 何故、何故、何故、何故、何故────。

 怒りと疑問ばかりが胸に渦巻く。トゥランは険しい表情のまま廊下を突き進んだ。


「トゥラン様。カナン様は何と?」


 後ろからヨナの声が聞こえてくる。いつもの彼らしい淡々とした声だ。


「さぁな。手紙は読んでない。だが…………あいつにとって俺は、誰かに譲れる程度の男だったってことだ」


 シリンとの婚約を、カナンに知られる事態までは想定していなかった。だから当然、シリンとの婚約を知ったカナンが、身を引こうとするなんて思いつきもしなかった。

 カナンに対する恨みがましい想いと、己の浅慮さとが胸を突き刺す。

 指輪を突き返されて、トゥランは初めて、自分の心の内にあった高慢な考えに気づいたのだ。


 この先、シリンを娶ることになるかもしれない。そうなっても仕方がないだろう。

 心のどこかで、トゥランはそう思っていた。彼女が不幸にならないよう妃として遇すれば、カナンとも上手くやってくれるのではないかと。

 もちろん、進んで二人の妻を持とうと思ったことはない。けれど、縋りつくようなシリンの思いを撥ねつけることに躊躇いを持っていたのは事実だ。


(後宮なんてものがあるから、俺まで頭がおかしくなるんだ!)


 自分の母親を死に至らしめた後宮。それを忌むべきものだと認識していたはずのトゥランでさえ、いつの間にかそんな風に思っていたのだ。


「俺が皇帝になったら後宮は取り壊す。妃は一人で十分だ!」


 トゥランは後ろを歩くヨナには振り返らず、そう言ってくしゃりと顔を歪めた。



 〇     〇



 お屋敷の裏にある馬屋から、二頭の馬が引き出されてゆく。

 馬丁が手綱を引いて表玄関に到着すると、ちょうど玄関から二人の男が姿を現した。


(トゥラン皇子……)


 柵で仕切られた闘技場の中で、鍛錬する男たちを眺めていたカナンは、今まさに馬に跨ろうとしている男の姿に釘づけになった。

 灰色の外套を纏ってはいるものの、この寒空に帽子もかぶっていない。南都で会った時よりも短くなった髪に粉雪が舞い落ちている。

 離れているのに、彼が怒っている顔が見えるような気がした。


(きっと、怒ってるんだろうな……)


 トゥランに好きだと告白してから、まだいくらも経っていない。それなのに、カナンはまるで逃げるように別れを告げてしまった。


(……でも、あたしは、シリン姫みたいにはあなたの役に立てないから)


 カナンは唇を噛みしめて馬上の人影を見つめた。

 トゥランがシリンと婚約したのは、蘭夏ランシァを掌握し動かすためだと聞いた。属領の一斉蜂起には、全属領が統率の取れた行動をしなければならない。シリンはトゥランに蘭夏の指揮権を与えられる。


 カナンは血筋的に言えば水龍国の王女だ。でも、何の力もない。水龍国は月紫国ユンシィの属領でもなければ、トゥランたちに援軍を出すことも出来ない。

 カナンは属領の一斉蜂起に関して、何の力にもなれないどころか、関わることさえ出来ないのだ。


 馬首を返したトゥランの背中を見た途端、じわりと目頭が熱くなった。喉の奥が石を飲み込んだように痛い。


 本当は会いたかった。

 彼の目の前に立って、顔が見たかった。

 いつものように軽口をたたき、笑い合いたかった。

 でも、会ってしまったら、別れを告げることなど出来ない。

 きっとこれで良かったんだ。


 属領が全部まとまって一斉蜂起したら、彼はその先頭に立たなくてはならない。

 余計な心配はかけたくないから────。


(トゥラン皇子…………)


 馬に乗って門を出て行く二人の姿は、涙で滲んで見えなかった。それでもカナンは、遠くなってゆく二つの馬影を静かに見送った。


  

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