第28話 虫の居所


 ────時を少しだけ遡る。


 カナンが屋敷の裏口から外へ出て行った、ちょうど同じ頃。

 トゥランとヨナは、アルタン族長の屋敷に足を踏み入れていた。

 使用人らしき青年の案内で一階の応接間に通され、そこでサラーナを待つように言われた。


 昨夜からずっと虫の居所が悪いトゥランは、今も不機嫌な顔で暖炉の前に立ち、無言のまま炎を見つめている。

 ひとり長椅子に腰かけたヨナは、風草ファンユン独特のミルクティーを一口飲んで小さくため息をついた。


 トゥランとヨナは、昨夜この風草の都に到着した。

 二人の後を追うように到着したシリン姫一行と共に、月紫ユンシィ行政府の建物に宿泊したのだが、行政府の役人たちに婚約者を連れての視察と勘違いされ、歓迎の宴まで催されてしまった。


 もちろん、トゥランの機嫌が悪い理由はそれだけではない。昨日ヨナが突きつけた言葉に反論できない自分に気づいたからだ。


『カナン様に会って、何を話すおつもりですか?』

『なぜ南部にいた時に婚約してしまわなかったんです?』

『全てが整うまでは、あの方に会うべきじゃない』

『少しはあなたの婚約者シリン姫のことも考えて差し上げてください』


 今更だが、もっと早くにトゥランを諫めるべきだったとヨナは後悔している。

 正直に言えば、彼のカナンに対する想いを過小評価していた。

 目的の為ならば私情は捨て、最善を選ぶ。トゥランは今まで躊躇なくそうしてきた。だからこそ、シリンを娶ることにこれほど抵抗するとは思わなかったのだ。


(本気で彼女カナンを妻にするつもりだったのか……)


 平時であれば、仇討ちだけに凝り固まって生きてきた親友の初恋を応援してやれただろう。だが、今は平時ではない。トゥランの野望も、一蓮托生となった属領の命運も、あと一息の所まで来ているのだ。


(もう引き返せない。だから、あなたの応援は出来ないのですよ)




 コンコンコン


 熾火のような穏やかな炎を見つめていると、扉を叩く音が聞こえた。

 ハッと息を呑んで振り返ると、開いた扉の向こうにサラーナが立っていた。


「トゥラン皇子、お待たせしてすみませんでした。残念ながらカナンはいないのですが、青湖シンファからシムルの幹部が来ています。きっとお会いになりたいと思って連れて来てしまいました」


 硬い表情のままサラーナが入室を促すと、男が入って来た。

 その男の顔を見て、トゥランは弾かれたように男に駆け寄った。


「キース! 何故おまえがここにっ!」

「おや、顔見知りでしたか?」


 最後に入って来たゾリグがそう問いかけて来なければ、キースの胸倉を掴んでいたかもしれない。


「……カナンの屋敷で、会った」


 伸ばしかけていた手を引っ込めて、不貞腐れたように答える。眉間に皺を寄せた渋面はそのままだが、それでもトゥランは冷静な瞳をキースに向けた。


「おまえ、シムルの幹部だったのか? だからカナンは……」

「俺は止めたんだけどね。どうしてもシムルの幹部を説き伏せて、他の属領と協力した方が良いって言うからさ。ホント、あの子の熱意には負けるよ」


 キースは困ったように肩をすくめたあと、真剣な表情でトゥランを見返した。


「そんな訳で、俺たちは風草ファンユンよしみを結びに来た。青湖に帰って幹部を説得出来たら、俺たちも一斉蜂起とやらに加わるよ。でも、あんたのことを信用した訳じゃない。本当にシムルを動かしたいのなら、あんたが直々に青湖に来る必要があるだろう」


「青湖が協力してくれるなら、いくらでも足を運ぶさ」


「トゥラン皇子。彼はシムルの惣領息子だそうですよ」


 トゥランがキースの素性をつかんでいないと察して、サラーナは口を挟んだ。

 その途端、トゥランの眉間の皺が深くなる。


「へぇ……それじゃ、水龍国スールンの姫と婚約したシムルの惣領息子ってのは、おまえだったのか」


 視線だけで相手を射殺せそうな目を向けたのに、当のキースは飄々とトゥランの視線を受け流す。


「あー、それ。間者を捕まえるためのガセネタだよ。お陰様で間者を捕まえることは出来たけど、まさかあのガセネタがあんたのところに届いてたとはな」


「……ガセネタ?」


 虚を突かれたように無防備な顔をさらすトゥランを見て、キースは拳を口元にあててくっくっと笑い出した。


「いや、悪い。あんたでもそんな顔するんだって思ったら……」


 込み上げる笑いを止められないらしく、キースはまだ笑っている。

 トゥランは不快感を露わにしたが、ずっと心の内にあった怒りは消えてしまっていた。


(そうか。間者を捕らえるための、偽の情報だったのか)


 キースのお陰で、トゥランがここへ来た目的は霧消した。

 ホッと安堵の息をついて顔を上げると、今度はキースが射るような瞳でトゥランを見ていた。


「その間者が言ってたんだけどさ、あんた、蘭夏ランシァの王女と婚約したんだってね。カナンはショックだったろうに、あんたの野望の為に身を引く決心をしたみたいだよ。あんたが何のためにカナンを留めておくように言ったのかは知らないけど、これ以上カナンの心を乱さないでくれないか?」


 キースの声がだんだんと遠くなってゆく。

 自分の婚約を、カナンが知ってしまった。当然あり得る事態だというのに、心のどこかでそれはないと高を括っていた。


(俺の……野望の為に、身を引く、だと?)


 あり得ない事態に、頭の奥が痺れて考えがまとまらない。


「カナンは……どこにいる?」

「彼女はここには居ない。青湖に残ったんだ」

「嘘だ! お前たちだけでサラーナに会えるわけがない!」


 トゥランはカナンを探そうと部屋を飛び出した。

 バタンと扉を開けた瞬間、廊下に立っていた青年が驚いたように振り返った。


「……トール」


「あ、トゥラン皇子。話は終わったのか? 安心しろ、カナンは大丈夫だ。あんたに会ったら渡してくれって、手紙を預かって来た」


 トールは懐から封筒を取り出した。

 目の前に差し出された封筒は、いかにも長旅の間懐に入っていたらしくシワシワになっていた。


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